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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
17話
90/100

知らない名前



宿の扉をくぐると、いつもの空気が迎えてくれた。


見慣れたカウンター。

いくつか並ぶ木のテーブル。

奥にはおばさんがいて、その近くには酒を飲んでいるおじさん。


暖かくて、静かな空間。


外の夜の冷たさとはまるで違う。

木の壁に囲まれたこの場所は、どこか落ち着く匂いがしていた。


私が周りを見渡している間に、エルネは私を追い抜いてカウンターへ向かった。



「おばさん!」


元気な声。


「タオルと水桶を下さい! 体を洗いたいです!」


おばさんは軽く頷くと、慣れた様子で「はいよ」と答え、裏へ回っていった。


その間にエルネは振り返る。


今度は私に向かって言った。



「先輩、明日も私が起こしに来てあげます!」


いたずらっぽい笑顔。


私は即座に返した。


「自分で起きれるので結構です」


それに――


あんな叩き方は二度とごめんだ。


頭の中で、朝の音が蘇る。


ドンドン。


乱暴に叩かれる扉の音。

あの響きが胸の奥まで届く感じが想像できてしまう。


思わず呼吸を整えた。


そのとき、おばさんが戻ってくる。


木の桶に水を入れ、タオルを乗せている。


エルネはそれを受け取ると、ぱっと顔を明るくした。



「ありがとうございます!」



そして、またすぐ駆け出す。


「先輩、また明日!」


振り向きながら言う。


私は小さく手を振った。



そのとき――



「あんた、よそ見してるとコケるよ!」



おばさんが声を上げた。




「わっ!」


エルネの体が前のめりになる。


危うく転びそうになったが、なんとか体勢を立て直した。



ドン、と。


床が大きく軋んだ。


「ごめんなさーい!」


そう言って、エルネは慌ただしく自分の部屋へ走っていく。



廊下の奥で扉が閉まる音がした。



おばさんは呆れたように息をついた。


エルネの元気そうな姿を見て少し安心する。



「まったく、慌ただしい娘だねぇ」


そう言いながら、今度は私の方を見る。


「あんたもいるかい?」


「はい。お願いします」



私が答えると、おばさんはまた裏へ向かおうとして、ふと立ち止まった。


「お腹は空いてないかい?」


聞かれて、少し考えた。


昼間のことを思い出す。


森の中。

火の匂い。

黒く焦げたホーンラビット。


あのとき黒パンも食べた。


量は多くなかったはずなのに、不思議と今はお腹が空いていない。


「出先で食べたので、いらないです」


そう答えると、おばさんは歩み寄ってカウンターに肘をついた。


少し身を乗り出して聞く。


「あんた、魔物を食べたのかい?」


「はい。ホーンラビットです」


私は思い出しながら続ける。


「丸焦げにしちゃいましたけど、焦げたのは外側だけだったので削って……また焼いて食べました」


おばさんは何も言わず、目を細めて聞いていた。


ゆったりした顔。


それから、静かに聞いた。


「美味しかったかい?」


私は少し考えた。


味を思い出そうとする。


焦げた匂い。

煙。

苦いような匂い。


「焦げ臭くて、味はしませんでしたけど」


そこで少し笑う。


「美味しかったです」


頭に浮かぶのはエルネの顔だ。


嬉しそうに食べていた。


おばさんは「へぇ」と小さく息を漏らした。


「意外だねぇ」


そう言って私の手を見る。


「あんた、綺麗な手をしてるから、てっきりそういうことは何も知らないと思ってたよ」


私は自分の手を見る。


そのあと、おばさんの手を見る。


ごつごつしている。

細いけれど、指は角張って太い。

皺もあって、黒ずんだ荒れた肌。


それに比べると私の手は白い。


細くて、弱そうな指。


折れてしまいそうなほど細い。


「教えてもらったんです」


私は言った。


「血を抜いたり、捌き方を……」


ミアレのことを思い出す。


今は家の用事でいない。


でも私は、もう一人でできる。


おばさんはゆっくり頷いた。


「その子にお礼を言っときな」


少し強めの声。


「言わないと、また次いつ会えるかわかんないよ」


私は黙った。


お礼。


そういえば言っていない気がする。


感謝。


言葉だけでいいのだろうか。


ミアレからもらった貯金箱。


私は何も返していない。


何もしていない。


そんなことを考えていると、おばさんが手を叩いた。


「またホーンラビット食べるんだろ?」


笑う。


「だったら、おばちゃん良いもん持ってきてやる」


「待ってて」


そう言って裏へ消えていった。


カウンターの前に、私一人が残る。


少しの静けさ。


そのとき――


背後から声がした。


「おい、嬢ちゃん」


咄嗟に振り向く。

酒飲みのおじさんだった。



顔が赤い。

耳の先まで赤くなっている。

酒の匂いもする。


「ポーション、よく効いただろ?」


にやりと笑う。


「なぁ、おい。もう一本買ってくれねぇか?」


私は少し困った。


前に買った分がまだ残っている。

正直、今は要らない。


 

それに――

杖のこともある。


お金も、あまり使いたくない。



「すみません。今、買いたいものがあって」



そう言うと、おじさんは肩をすくめた。


「なんだぁ? 金がねぇのか?」


へらっと笑う。


「そりゃ仕方ねぇ」



しばらく黙ったあと、急に思い出したように顔を上げた。


「金がねぇならよぉ」


身を乗り出す。


「いい稼ぎ、知ってるぜ」


私は自然と身体がおじさんの方へ向いた。


「昔の冒険者がやってたやつだ」


「聞きたいか?」


お金を稼ぐ方法。


その言葉に、思わず耳を傾けてしまう。


おじさんはさらに身を寄せ、声を低くする。


「今そいつが生きてるか、やめてるかは知らねぇけどな」



そして言った。


「死体漁りだ」



私は眉をひそめた。



「死んだやつから装備を剥ぎ取るんだ」



おじさんは笑う。


「ぜーんぶ自分のもんにして売っちまえばいい」



言っている意味が、すぐには理解できなかった。


死体漁り?


死んだ人から物を取る?


それを売る?


信じられない。


この人は何を言っているんだろう。


おじさんは首をひねった。



「あー……名前なんだったかな」


少し考えてから、指を鳴らす。




「ああ、そうだ」




そして言った。




「死体漁りのガルド」


音が、消えた。


おじさんの声も、宿の静けさも、遠くなる。



ガルド。



その名前だけが、頭の中に残っている。


知っている。


その名前を、私は知っている。


でも——

死体漁り。


その言葉と、あの背中が、うまく重ならない。


その名前と、知っている背中が、頭の中でゆっくりと重なっていく。


重なる。 


でも、まだ、信じられない。

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