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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
16話
85/92

焦げた匂い

 



 火の勢いが落ち着くまで、私はエルネと並んで焚き火を眺めていた。



 さっきまで激しく燃え上がっていた炎も、今は少しずつ静かになっている。

 枝が弾ける音だけが、パチパチと小さく続いていた。



 けれど、いい匂いなんてものはどこにもない。



 鼻の奥には、さっきの異臭がずっと残っている。

 焼けた毛の匂い。焦げた獣の匂い。炭の臭い。



 それが混ざり合って、どうにも消えない。


 火が落ち着くまで、私たちはただそれを見ているしかなかった。



 やがて炎が小さくなり、焚き火の中が赤く燻る程度になった頃、私は枝を一本拾った。


 黒くなった塊をつつく。



 それは、さっきまでホーンラビットだったもの。



 今では完全に――黒焦げの物体Xだった。


 小突いて、焚き火の外へ転がす。



「これ……もう食べられない、よね? 黒焦げだもんね」


 エルネがそう言った。


 当然の感想だと思う。


 目の前にあるのは、食材というよりも炭の塊に近い。


 せっかく捕まえて。

 せっかく解体して。

 食べようとしたのに。



 その成果がこれ。


 異臭を放つ黒い塊。



 思わず唇をぎゅっと閉じて、顔をしかめる。


 私はナイフを抜いた。



 柄を強く握りしめる。



 どこがどの部位だったのか、もう分からない。

 そんな炭の塊に刃を突き立てる。


 ぐっと力を込めて切ろうとする。



 しかし刃は滑った。


 硬くなった炭の表面が、ざり、と削れる。


 炭の粉がぱらぱらと落ちた。


 もう一度。


 今度は中心を狙うように刃を突き込む。


 表面の硬い層を削りながら、刃が少しずつ食い込む。



 押す。


 引く。


 そして、切り下ろす。



 途中で骨に当たった感触があったが、そのまま力を込めて押し切った。


 真っ二つに割れる。


 断面を覗く。



 表面は黒い炭の層。

 その下には少し焼けた肉。


 そして――



 中心は、ピンク色のままだった。



 生肉。


 まだ、食べられそう。


「エルネさん、これ」



 声をかけると、エルネの顔がぱっと明るくなる。


「もしかして……これって食べられそうなんですか?」



「おそらく、ですけど」



 断言はできなかった。


 表面の焦げを削ぎ落として、もう一度火で炙れば。


 今度こそ、大丈夫。


 そんな気がした。



 少し冷めた頃、私はその肉を手で掴む。


 エルネも隣にしゃがみ込み、一緒に焦げを削り始めた。



 これが、思ったよりも大変だった。


 ガリガリ、と硬い音を立てて削れる。


 けれど、一箇所削るだけでもかなり時間がかかる。


 焼けた肉ごと切り落とした方が早い。


 でも、そうすると食べる部分がどんどん減ってしまう。



 ……こんなことなら。


 ちゃんと皮を剥いでおけばよかった。


 一瞬そんな考えが浮かぶ。


 私は小さく頭を振って、それを追い払った。



 今さらだ。



 気がつけば、手はすっかり黒くなっていた。


 焦げの粉。

 炭の汚れ。


 そして、あの匂い。


 焼けた毛の匂い。

 炭の匂い。

 獣の匂い。


 全部が手に染みついている。


 けれど。


 私とは違って、エルネは楽しそうだった。


 文句も言わない。


 むしろ鼻歌まで歌いながら、焦げを削っている。


 その様子を見て、少しだけ不思議に思った。


 やがて、一通り削り終える。


 残ったのは、胴と腿の肉だけだった。


 私はそれを小川へ持っていく。


 水に浸してすすぐ。


 黒い焦げカスが流れていく。


 ついでに手も洗った。


「せんぱぁーい!ほらほら」


 エルネが突然、両手を私の顔の前に差し出す。


 水滴がいくつも滴る、綺麗な手。


 ……のはずなのに。


 鼻に届く匂い。


 焦げ臭さ、獣臭、全部混ざったあの匂い。


「うっ、ちょっ……」


 思わずエルネの手を払った。


「もう、焚き火に戻ろ」


「はーい」


 エルネは嬉しそうに肉を持って歩き出す。


 陽の光を受けて、くすんだ金髪がきらりと光った。


 眩しくて、思わず目を細める。


 もう一度見る。


 そこには、もういなかった。


 視線を動かすと、エルネはもう焚き火のところまで戻っていた。


 ……なにを当たり前のことを。




 私も焚き火のそばへ戻る。


 丸焼きはもう無理だと分かっている。


 私は肉を小さく切り分けた。


 枝に刺す。


 串焼き。


 それをエルネと並んで火にかざす。


 今度は燃えない。


 じわじわと肉が焼けていく。


 表面に焼き目がつく。


 くるくると回しながら炙る。


 脂がじんわりと光った。


 焦げ臭さの中に、ほんのわずか。



 肉の焼ける香りが混ざる。



「なんだか、いい匂いがしますね」


 エルネが言った。



 私は小さく頷く。


 どのくらい焼けばいいのか、正直分からない。


 串を火から引く。


 肉を口元へ近づける。


 熱い。


 息を吹きかけて冷ます。


 そして、表面を少しだけかじった。


 肉の繊維を噛む。


 肉汁は出ない。


 ほんの少しだけしっとりしている。


 けれど噛むほど、パサパサになっていく。


 味は――


 ほとんどしない。


 美味しいかと聞かれれば、美味しくはない。


 でも、食べられないわけでもない。


 飲み込む。


 その瞬間、遅れて焦げの香りが口の中に広がった。


 鼻にも上がってくる。


 なんだこれは……。


 思わず眉間に皺が寄る。


「おいしいですか? 先輩」


 エルネが期待した目で見てくる。


「……食べられなくないかも。おいしいかな?」


 曖昧な答えになった。


 それでもエルネは嬉しそうだった。


「じゃあ、私も!」


 エルネも肉を口にする。


 息を吹いて冷まし、かじる。


 もぐもぐと噛む。


 少し考えた表情をしながら、飲み込む。



 そして、ぱっと笑う。


「おいしい!先輩、おいしいですよ!」


 そう言って、すぐに二口目を食べる。


 少ししてから、


「ちょっと焦げ臭いですけど」


 と笑った。


 それでも、本当に美味しそうに食べていた。


 私はその様子を見ながら、小さく微笑んだ。



 焚き火がパチリと音を立てた。

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