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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
15話
76/82

今やること

 



 ガサリ、と草をかき分ける音がした。


 その一音だけで、張り詰めていた神経が弾かれる。

 視線が反射的に音のした草陰へと吸い寄せられ、気づけば杖を構えていた。


 魔力が指先に集まる。


 撃てる。撃てるけれど――正体がわからない。



「え? なんですか!?」


 隣でエルネが身を引く気配。けれど次の瞬間、草むらから飛び出したのは小さな影だった。


 兎。頭に短い角を生やしたホーンラビット。


 土を蹴り、土煙を上げ、こちらを一瞥もせずに一目散に駆け去っていく。


 速い。


 魔法を放つ判断も、狙いを定める余裕もなかった。


 罠にかかった個体しか見たことがなかったからだろうか。野を駆けるそれは、ただの()()ではなく、生きている魔物だった。


 撃てなかったことに自分の甘さを感じた。


 胸に詰めていた息が、ゆっくりと零れる。


「先輩、見ました? ウサギが走っていきました。ホーンラビットですよね?」


「そう。頭に小さな角があるの」


「そこまで見えてなかったけど、なんか、魔物って言うからてっきり襲ってくるかと思ったのに〜。な〜んか期待外れ」


 エルネは肩をすくめて笑う。けれどその手は一度も剣の柄に触れていない。


 杖を下ろし、ざわめく胸を押さえる。視線が、ふとダンジョンの暗がりへ向いた。


 あの中なら、この場所なら。


 私は評価される。ギルドの判断が間違いだと証明できる。


 Eランクのままでいいはずがない。あの空洞で、あの闇の中で、私はもっと戦える。もっと、強く。




 ――だけど、今じゃなくていい。



 逃げ去ったホーンラビットの背が脳裏に浮かぶ。速さに追いつけなかった自分。撃たなかった自分。


 今やるべきことは依頼だ。ベリーナッツを集めて、丸焼きを食べる。その小さな目標のためにここにいる。


 ダンジョンに一歩入ったら、きっと全部が変わる。予定も、気持ちも、もしかしたら今日という一日も。



 視線を外し、エルネを見る。彼女はまだ入り口をちらちらと見つめている。


 もう一度、深く息を吸った。



「ダメ。薬草を探そう」


「ちょっとだけ、いいでしょ? 先輩?」


 眉を下げ、上目遣いで見上げてくる。いわゆる、お願いのうるるん攻撃。ほんの一歩、心が揺れる。



 でも違うことを考える。ベリーナッツの依頼を受けた理由。丸焼きを食べるため。冒険は一度きりじゃない。ダンジョンは逃げない。



「次は、討伐依頼とかの時にしよう?」


 迷いを飲み込んで出した答え。


 エルネは口をへの字にしたあと、ぱっと顔を上げた。


「じゃあ次はダンジョンね?約束ですよ?」


「……はい」


 軽く返事をして、私は入り口から距離を取った。あそこに立ち続けていたら、本当に引きずり込まれそうだったから。


 周囲を見渡し、薬草らしい植物を探す。エルネが取り出した『冒険者のススメ』を覗き込む。魔物の記事ばかり読んでいた自分を少し恥じる。


「見てください、先輩」


 肩が触れそうな距離で、ページを指差す。


 楕円形の葉。丸みのある先端。滑らかな葉縁。白くはっきりした主脈と、裏に走る薄い筋。深い緑色と艶。折れにくい茎。青臭い汁。


 視線を巡らせると、ぽつんと一本だけ、それらしい姿が目に入った。


「あれ、薬草じゃないですか?」


「わぁ!」


 エルネが駆け寄る。二人で屈み込み、図と見比べる。形も色も一致している。


「同じだねぇ。ねぇ、私が取っていい?」


 頷くと、彼女はナイフで根元を丁寧に切った。


「匂いはどう?」


「青臭いよ? 先輩も」


 差し出された切り口に顔を近づける。草いきれのような、自然の匂い。問題はなさそうだ。



 ――けれど。


 主脈が、ほんの少しだけ黄色みがかって見えた。光の加減かもしれない。白と言えば白だ。


 迷いは、言葉にならないまま胸の奥に沈む。


 エルネは嬉しそうに革袋へ薬草をしまった。



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