今やること
ガサリ、と草をかき分ける音がした。
その一音だけで、張り詰めていた神経が弾かれる。
視線が反射的に音のした草陰へと吸い寄せられ、気づけば杖を構えていた。
魔力が指先に集まる。
撃てる。撃てるけれど――正体がわからない。
「え? なんですか!?」
隣でエルネが身を引く気配。けれど次の瞬間、草むらから飛び出したのは小さな影だった。
兎。頭に短い角を生やしたホーンラビット。
土を蹴り、土煙を上げ、こちらを一瞥もせずに一目散に駆け去っていく。
速い。
魔法を放つ判断も、狙いを定める余裕もなかった。
罠にかかった個体しか見たことがなかったからだろうか。野を駆けるそれは、ただの獲物ではなく、生きている魔物だった。
撃てなかったことに自分の甘さを感じた。
胸に詰めていた息が、ゆっくりと零れる。
「先輩、見ました? ウサギが走っていきました。ホーンラビットですよね?」
「そう。頭に小さな角があるの」
「そこまで見えてなかったけど、なんか、魔物って言うからてっきり襲ってくるかと思ったのに〜。な〜んか期待外れ」
エルネは肩をすくめて笑う。けれどその手は一度も剣の柄に触れていない。
杖を下ろし、ざわめく胸を押さえる。視線が、ふとダンジョンの暗がりへ向いた。
あの中なら、この場所なら。
私は評価される。ギルドの判断が間違いだと証明できる。
Eランクのままでいいはずがない。あの空洞で、あの闇の中で、私はもっと戦える。もっと、強く。
――だけど、今じゃなくていい。
逃げ去ったホーンラビットの背が脳裏に浮かぶ。速さに追いつけなかった自分。撃たなかった自分。
今やるべきことは依頼だ。ベリーナッツを集めて、丸焼きを食べる。その小さな目標のためにここにいる。
ダンジョンに一歩入ったら、きっと全部が変わる。予定も、気持ちも、もしかしたら今日という一日も。
視線を外し、エルネを見る。彼女はまだ入り口をちらちらと見つめている。
もう一度、深く息を吸った。
「ダメ。薬草を探そう」
「ちょっとだけ、いいでしょ? 先輩?」
眉を下げ、上目遣いで見上げてくる。いわゆる、お願いのうるるん攻撃。ほんの一歩、心が揺れる。
でも違うことを考える。ベリーナッツの依頼を受けた理由。丸焼きを食べるため。冒険は一度きりじゃない。ダンジョンは逃げない。
「次は、討伐依頼とかの時にしよう?」
迷いを飲み込んで出した答え。
エルネは口をへの字にしたあと、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ次はダンジョンね?約束ですよ?」
「……はい」
軽く返事をして、私は入り口から距離を取った。あそこに立ち続けていたら、本当に引きずり込まれそうだったから。
周囲を見渡し、薬草らしい植物を探す。エルネが取り出した『冒険者のススメ』を覗き込む。魔物の記事ばかり読んでいた自分を少し恥じる。
「見てください、先輩」
肩が触れそうな距離で、ページを指差す。
楕円形の葉。丸みのある先端。滑らかな葉縁。白くはっきりした主脈と、裏に走る薄い筋。深い緑色と艶。折れにくい茎。青臭い汁。
視線を巡らせると、ぽつんと一本だけ、それらしい姿が目に入った。
「あれ、薬草じゃないですか?」
「わぁ!」
エルネが駆け寄る。二人で屈み込み、図と見比べる。形も色も一致している。
「同じだねぇ。ねぇ、私が取っていい?」
頷くと、彼女はナイフで根元を丁寧に切った。
「匂いはどう?」
「青臭いよ? 先輩も」
差し出された切り口に顔を近づける。草いきれのような、自然の匂い。問題はなさそうだ。
――けれど。
主脈が、ほんの少しだけ黄色みがかって見えた。光の加減かもしれない。白と言えば白だ。
迷いは、言葉にならないまま胸の奥に沈む。
エルネは嬉しそうに革袋へ薬草をしまった。




