境界線の一歩
罠から離れる。
けれど、足が止まった。
ミアレから教わった薬草の知識は、罠を見て回る途中に聞き流した程度のものだ。
「ついで」に教えられただけで、正直、深くは理解していない。
私はエルネに問いかける。
「エルネさん、薬草はわかります?」
問いかけると、エルネはくるりと振り向き、得意げにポーチへ手を突っ込んだ。
「困ったときは、ほら、みて、冒険者のススメ!」
取り出したのは、一冊の本。見覚えがある。ギルドの棚にも置いてあった入門書だ。ページをぱらぱらと捲りながら、声に出して読む。
「えーと、薬草は、朝露が残る時間帯、花が咲く直前の若葉、葉裏に白い筋が明瞭なもの、って。場所は……」
指で行を追いながら続ける。
「湿地周辺と川沿い、ダンジョン入口付近、森林に群生、ってあります」
――ダンジョン付近。
その言葉に、胸の奥がわずかに冷えた。
このあたりのダンジョンといえば、あの大空洞だ。
バルクとロニオと一緒に入った、あの場所。
私は息を整え、何でもないように言った。
「それじゃあ、近くのダンジョンに行こ」
「ダンジョン!」
エルネの声が一段高くなる。
ぱっと表情を輝かせ、軽やかな足取りで隣に並ぶ。
行きたくてたまらない、という顔。
――前の私なら。
きっと同じ顔をしていた。止められても入ったかもしれない。
けれど、あの洞窟の中にいるものを思い出すと、足が少しだけ重くなる。
ジャイアントバット。
天井から急降下してきた影。
腕を掴まれたときの、あの感触。
爪の冷たさ。羽音。湿った息。
そして、耳に残る叫び声。
息を吐く。
言葉にしないだけで、あれは軽い傷になっている。
もし見かけたら――今度こそ、一匹残らず倒してやる。
そんな、少し歪んだ衝動が胸の奥で渦を巻く。
「どこにあるんですか?ねぇ、行きましょ!早く!」
エルネは駆け足で先へ出る。
「たぶん、ひらけたところで、地面が踏みしめられた道筋を、街道の反対側にまっすぐ行けば――」
途中で言い淀む。
「先に行って見てきます!」
そう言い残して、エルネは森の奥へ走り去った。
小さくなる背中。
ドクン、と心臓が跳ねる。
もし、私だったら?
初めてのダンジョンを前にして、どうした?
――入る。
間違いなく、入る。
「え?ちょっと、待って……!」
考えるより先に、私は走り出していた。
木陰を抜け、踏み固められた道を辿る。
やがて視界がひらける。
そこにあったのは、ぽっかりと地面に開いた巨大な穴。
黒い口を開けたまま、静かにこちらを見上げている。
ダンジョン。
その前に、エルネは立っていた。
ほっと息を吐く。
ちゃんと入口で止まっている。
洞窟の奥から、淀んだ空気がゆっくりと流れ出てくる。
冷たく、湿り気を帯びた風。外の森の匂いとはまるで違う。
内部は幾重にも繋がっている構造だと聞いた。
だから空気は動く。
生き物のように、呼吸している。
その風を浴びながら、エルネは口角を上げ、目を輝かせた。
「凄い、先輩! 少し入ってみませんか?」
上ずった声。
私はエルネの顔を見て、それからダンジョンの奥へと視線を向けた。
暗闇が、そこにある。
奥は見えない。
けれど確かに、何かが潜んでいる気配がする。
体が、吸い込まれそうになる。
一歩、足が前に出る。
私が強い。
私が強いことを、エルネに見せられる。
いや。
違う。
エルネに、見せたい。
足裏に、境界線の感触が伝わる。
陽の光が背中で揺れ、前方は闇。
一歩、踏み込む。
森の匂いが遠ざかり、湿った冷気が肌を撫でる。
心臓が早鐘を打つ。
強さを、証明できる。
もう一歩、踏み込む。
足元の小石が転がり、洞窟の中へ乾いた音を響かせる。
心臓が高鳴る。
恐怖か、興奮か、分からない。
じっと、その暗闇の奥を見つめた。




