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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
15話
75/80

境界線の一歩

 


 罠から離れる。


 けれど、足が止まった。


 ミアレから教わった薬草の知識は、罠を見て回る途中に聞き流した程度のものだ。

「ついで」に教えられただけで、正直、深くは理解していない。


 私はエルネに問いかける。


「エルネさん、薬草はわかります?」



 問いかけると、エルネはくるりと振り向き、得意げにポーチへ手を突っ込んだ。


「困ったときは、ほら、みて、冒険者のススメ!」



 取り出したのは、一冊の本。見覚えがある。ギルドの棚にも置いてあった入門書だ。ページをぱらぱらと捲りながら、声に出して読む。



「えーと、薬草は、朝露が残る時間帯、花が咲く直前の若葉、葉裏に白い筋が明瞭なもの、って。場所は……」


 指で行を追いながら続ける。


「湿地周辺と川沿い、ダンジョン入口付近、森林に群生、ってあります」


 ――ダンジョン付近。

 その言葉に、胸の奥がわずかに冷えた。


 このあたりのダンジョンといえば、あの大空洞だ。

 バルクとロニオと一緒に入った、あの場所。


 私は息を整え、何でもないように言った。


「それじゃあ、近くのダンジョンに行こ」


「ダンジョン!」


 エルネの声が一段高くなる。

 ぱっと表情を輝かせ、軽やかな足取りで隣に並ぶ。


 行きたくてたまらない、という顔。



 ――前の私なら。


 きっと同じ顔をしていた。止められても入ったかもしれない。


 けれど、あの洞窟の中にいるものを思い出すと、足が少しだけ重くなる。



 ジャイアントバット。



 天井から急降下してきた影。

 腕を掴まれたときの、あの感触。

 爪の冷たさ。羽音。湿った息。

 そして、耳に残る叫び声。


 息を吐く。


 言葉にしないだけで、あれは軽い傷になっている。


 もし見かけたら――今度こそ、一匹残らず倒してやる。

 そんな、少し歪んだ衝動が胸の奥で渦を巻く。




「どこにあるんですか?ねぇ、行きましょ!早く!」



 エルネは駆け足で先へ出る。



「たぶん、ひらけたところで、地面が踏みしめられた道筋を、街道の反対側にまっすぐ行けば――」



 途中で言い淀む。


「先に行って見てきます!」


 そう言い残して、エルネは森の奥へ走り去った。



 小さくなる背中。


 ドクン、と心臓が跳ねる。



 もし、私だったら?


 初めてのダンジョンを前にして、どうした?



 ――入る。




 間違いなく、入る。



「え?ちょっと、待って……!」


 考えるより先に、私は走り出していた。



 木陰を抜け、踏み固められた道を辿る。


 やがて視界がひらける。



 そこにあったのは、ぽっかりと地面に開いた巨大な穴。


 黒い口を開けたまま、静かにこちらを見上げている。



 ダンジョン。



 その前に、エルネは立っていた。


 ほっと息を吐く。

 ちゃんと入口で止まっている。


 洞窟の奥から、淀んだ空気がゆっくりと流れ出てくる。


 冷たく、湿り気を帯びた風。外の森の匂いとはまるで違う。



 内部は幾重にも繋がっている構造だと聞いた。


 だから空気は動く。


 生き物のように、呼吸している。


 その風を浴びながら、エルネは口角を上げ、目を輝かせた。


「凄い、先輩! 少し入ってみませんか?」

 

 上ずった声。


 私はエルネの顔を見て、それからダンジョンの奥へと視線を向けた。



 暗闇が、そこにある。


 奥は見えない。


 けれど確かに、何かが潜んでいる気配がする。


 体が、吸い込まれそうになる。



 一歩、足が前に出る。



 私が強い。


 私が強いことを、エルネに見せられる。



 いや。


 違う。


 エルネに、見せたい。



 足裏に、境界線の感触が伝わる。

 陽の光が背中で揺れ、前方は闇。


 一歩、踏み込む。



 森の匂いが遠ざかり、湿った冷気が肌を撫でる。

 心臓が早鐘を打つ。



 強さを、証明できる。


 もう一歩、踏み込む。


 足元の小石が転がり、洞窟の中へ乾いた音を響かせる。


 心臓が高鳴る。


 恐怖か、興奮か、分からない。


 

 じっと、その暗闇の奥を見つめた。

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