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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
14話
72/82

前を向く理由

 


 依頼書に受領印が押される乾いた音が、やけに大きく聞こえた。


 ベリーナッツの収集と、薬草集め。

 どちらもEランクらしい、地味で確実な依頼。


 紙を受け取りながら、私はもう一度内容を目でなぞる。


 薬草の特徴。葉の形。茎の色。採取方法。


 ——根は残す。乱獲はしないようにと。


 ミアレに教わったのは、それくらいしか覚えていない。葉の縁が波打つとか、匂いが違うとか、説明は受けたはずなのに、肝心なところが曖昧だ。


 視線を上げた瞬間、ぐい、と顔のすぐ前に影が差した。


「先輩、さっきから顔色悪いよ?」


 エルネが覗き込むように距離を詰めている。


 どきり、と胸が跳ねた。

 手のひらにじわりと汗が滲む。乾いた喉を、唾を飲み込んで誤魔化す。


「……大丈夫です。外、出れば平気なので」


「ほんと?」


 疑うような、でも責めるわけではない声音。

 返事を待つより早く、エルネはくるりと踵を返して扉へ駆け出した。


「はやくはやく〜」


 その背中を追いかけた瞬間、ギルドの扉が内側から開く。


 黒い影。


 エルネが小さな声を上げ、どん、と鈍い音とともに尻もちをついた。


 一瞬、空気が張り詰める。

 罵声は飛んでこない。


 見上げると、そこに立っていたのは見覚えのある男だった。


 Dランクの冒険者、ガルド。


「あ……ごめんなさい」


 エルネは慌てて謝る。

 ガルドは無言で手を差し出し、引き起こした。


「見ない顔だな」


 低い声。

 一瞬だけ私と目が合う。すぐに逸らされ、エルネへ落ちる視線。


 その大きな手が、ぽん、とエルネの頭に乗った。軽く押され、彼女は半歩後ろへ下がる。


「前は見ろ」


 それだけ言って、ガルドはいつもの隅の椅子へと歩いていく。


 怒っているわけでもない。優しいわけでもない。

 ただ、それだけ。


 私は立ち尽くすエルネの背をそっと押した。



「行こ、エルネさん」


 扉を抜けると、朝の光が差し込んだ。


 石畳を二人分の足音が刻む。



「ねぇ、見てた? 私ちゃんと謝ったのに、あのおじさん素っ気なくて感じ悪かった」


 少し頬を膨らませるエルネ。


 私は曖昧に笑う。

 ガルドと深く話したことはない。でも、一度だけ助けられたことがある。危うく囲まれかけたとき、魔物を叩き伏せてくれた曖昧な記憶。


 そのことを、今ここで言う必要はない。


「ねぇ、先輩、あの人知ってるの?」


「少しだけ」


 息を吸って、吐く。


「Dランクのガルドさんだって。冒険者の中では有名な人みたいです」


「Dランク? ふぅん」


 エルネはすぐに表情を切り替える。


「じゃあ、私もすぐDランクになって、我が物顔でギルドにいれるように頑張ろ。冴えないおじさんみたいじゃなくて、キラキラの冒険者に!」


 無邪気な宣言。

 その足取りは軽く、私との足音のリズムがズレた気がした。


 Dランク。


 その響きが胸に刺さる。


 Dランクにすらなれなかった私。

 筆記で落ちた。実技はなく、紙の上の問題で。


 強ければいい。

 勝てばいい。

 成果を出して、誰かが「強い」と言ってくれた。


 そう思っていた。


 でも、ギルドは違う。



 何を評価したいのか、まだ分からない。


 ——でも、また受ければいい。


 そう思う。


 隣を見る。

 エルネは未来しか見ていない。


 次の昇格試験。

 もし私がまた落ちたら。


 そのとき、エルネはDランクになっているかもしれない。


 じゃあ、私は?


 視線が自然と地面へ落ちる。


「リュシア先輩」


 ぐい、と手が引かれる。


「下を見ないで前を見ましょう!」


 反射的に顔を上げる。


 目の前には城門。

 その向こう、陽光に照らされた街道が続いている。


 風が吹き抜ける。

 外の空気は、ギルドの中よりずっと軽い。


 前を見ろ。


 さっきのガルドの言葉が、遅れて胸に落ちてくる。


 前を見ないでぶつかったのはエルネ。

 でも、本当に前を見ていなかったのは、私の方。


 ランク。

 評価。

 過去。


 全部、足元ばかり。


 エルネが笑う。


「行きましょ、先輩!」


 引かれるまま、一歩踏み出す。


 城門を抜けると、光が視界いっぱいに広がった。


 何も変わっていない。



 それでも。


 私は顔を上げたまま、陽の差す先へと駆け出した。


 前を向く理由は、まだはっきりしない。

 けれど隣にいる誰かが、そう言ってくれるなら。


 それだけで、足は止まらなかった。

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