前を向く理由
依頼書に受領印が押される乾いた音が、やけに大きく聞こえた。
ベリーナッツの収集と、薬草集め。
どちらもEランクらしい、地味で確実な依頼。
紙を受け取りながら、私はもう一度内容を目でなぞる。
薬草の特徴。葉の形。茎の色。採取方法。
——根は残す。乱獲はしないようにと。
ミアレに教わったのは、それくらいしか覚えていない。葉の縁が波打つとか、匂いが違うとか、説明は受けたはずなのに、肝心なところが曖昧だ。
視線を上げた瞬間、ぐい、と顔のすぐ前に影が差した。
「先輩、さっきから顔色悪いよ?」
エルネが覗き込むように距離を詰めている。
どきり、と胸が跳ねた。
手のひらにじわりと汗が滲む。乾いた喉を、唾を飲み込んで誤魔化す。
「……大丈夫です。外、出れば平気なので」
「ほんと?」
疑うような、でも責めるわけではない声音。
返事を待つより早く、エルネはくるりと踵を返して扉へ駆け出した。
「はやくはやく〜」
その背中を追いかけた瞬間、ギルドの扉が内側から開く。
黒い影。
エルネが小さな声を上げ、どん、と鈍い音とともに尻もちをついた。
一瞬、空気が張り詰める。
罵声は飛んでこない。
見上げると、そこに立っていたのは見覚えのある男だった。
Dランクの冒険者、ガルド。
「あ……ごめんなさい」
エルネは慌てて謝る。
ガルドは無言で手を差し出し、引き起こした。
「見ない顔だな」
低い声。
一瞬だけ私と目が合う。すぐに逸らされ、エルネへ落ちる視線。
その大きな手が、ぽん、とエルネの頭に乗った。軽く押され、彼女は半歩後ろへ下がる。
「前は見ろ」
それだけ言って、ガルドはいつもの隅の椅子へと歩いていく。
怒っているわけでもない。優しいわけでもない。
ただ、それだけ。
私は立ち尽くすエルネの背をそっと押した。
「行こ、エルネさん」
扉を抜けると、朝の光が差し込んだ。
石畳を二人分の足音が刻む。
「ねぇ、見てた? 私ちゃんと謝ったのに、あのおじさん素っ気なくて感じ悪かった」
少し頬を膨らませるエルネ。
私は曖昧に笑う。
ガルドと深く話したことはない。でも、一度だけ助けられたことがある。危うく囲まれかけたとき、魔物を叩き伏せてくれた曖昧な記憶。
そのことを、今ここで言う必要はない。
「ねぇ、先輩、あの人知ってるの?」
「少しだけ」
息を吸って、吐く。
「Dランクのガルドさんだって。冒険者の中では有名な人みたいです」
「Dランク? ふぅん」
エルネはすぐに表情を切り替える。
「じゃあ、私もすぐDランクになって、我が物顔でギルドにいれるように頑張ろ。冴えないおじさんみたいじゃなくて、キラキラの冒険者に!」
無邪気な宣言。
その足取りは軽く、私との足音のリズムがズレた気がした。
Dランク。
その響きが胸に刺さる。
Dランクにすらなれなかった私。
筆記で落ちた。実技はなく、紙の上の問題で。
強ければいい。
勝てばいい。
成果を出して、誰かが「強い」と言ってくれた。
そう思っていた。
でも、ギルドは違う。
何を評価したいのか、まだ分からない。
——でも、また受ければいい。
そう思う。
隣を見る。
エルネは未来しか見ていない。
次の昇格試験。
もし私がまた落ちたら。
そのとき、エルネはDランクになっているかもしれない。
じゃあ、私は?
視線が自然と地面へ落ちる。
「リュシア先輩」
ぐい、と手が引かれる。
「下を見ないで前を見ましょう!」
反射的に顔を上げる。
目の前には城門。
その向こう、陽光に照らされた街道が続いている。
風が吹き抜ける。
外の空気は、ギルドの中よりずっと軽い。
前を見ろ。
さっきのガルドの言葉が、遅れて胸に落ちてくる。
前を見ないでぶつかったのはエルネ。
でも、本当に前を見ていなかったのは、私の方。
ランク。
評価。
過去。
全部、足元ばかり。
エルネが笑う。
「行きましょ、先輩!」
引かれるまま、一歩踏み出す。
城門を抜けると、光が視界いっぱいに広がった。
何も変わっていない。
それでも。
私は顔を上げたまま、陽の差す先へと駆け出した。
前を向く理由は、まだはっきりしない。
けれど隣にいる誰かが、そう言ってくれるなら。
それだけで、足は止まらなかった。




