呼ばれた名
手を引かれ、そのまま一歩踏み出す。
部屋の敷居を越えた、それだけのこと。
世界が変わるわけじゃない。昨日の試験結果が覆るわけでも、胸の奥に残る引っかかりが消えるわけでもない。
それでも。
この一歩は、ようやく踏み出せた一歩のような気がした。
「いつまでも黙ってないで話してよ」
振り返った少女が、明るく言う。
「私ね、エルネ。昨日から冒険者になって、ここに泊まることにしたの。見て、これ。冒険者証!」
誇らしげに、首から下げた冒険者証を指でつまみ、私の目の前に掲げる。まだ傷一つないその表面が、朝の光を受けてかすかに光った。
ニッコリと歯を見せる笑顔。
ズキン、と胸が痛む。
少し前——いや、昨日までの私が、そこにいる。
期待と、希望と、自分はきっとやれるという疑いのない顔。
ああ、この子は知らない。
私が今、どんな気持ちでいるのか。
胸の奥に沈んだ重さも、Eランクの文字を見たときの息苦しさも。
でも、それをわざわざ口に出すことでもない。
「私は……リュシア、です」
絞り出すような声。自分でも驚くほど覇気がない。
「ねぇ、冒険者ランクは?」
無邪気な問い。
その一言に、喉が詰まる。
呼吸が、一瞬止まる。
目を逸らし、唇を開く。
「E、ランク」
短い言葉なのに、やけに重かった。
「へぇ〜! 試験にいなかったから? じゃあ先輩だ!」
エルネはぱっと顔を輝かせる。
「リュシア先輩って呼んでいいです?」
先輩?
私が?
昨日、自分の未熟さを突きつけられたばかりの私が。
こそばゆいような、居心地の悪いような感覚が胸をかすめる。
「いい、ですけど……」
「うん、決まり!」
その勢いに押されるように、私たちは通路を抜け、宿のカウンターへ出た。
「おはよう」
宿のおばさんが、気さくに声をかけてくる。
「おはようございます」
返事は、思ったより普通に出た。
部屋の外に出てしまえば、意外と呼吸はできる。気持ちが晴れたわけじゃない。ただ、誰かと一緒にいると、思考が一点に沈まずに済む。
「朝ごはんにするかい? ちゃんと宿泊代金を払ってる子には出すようにしてるんだからね」
おばさんは、テーブルに突っ伏して眠る、いつもの酔っぱらいのおじさんを横目で見る。どうやらまだ夢の中らしい。
「やったー。食べまーす!」
エルネが元気よく返事をする。
ほどなくして、テーブルに並んだのは、いつもの朝食。
黒パン。
塩辛いベーコンと目玉焼き。
豆入りのスープ。
特別でもなんでもない、見慣れた光景。
「黒パン……」
隣から、少し落胆した声が漏れる。
その気持ちはわかる。黒パンは固くて、味気ない。焼きたてでもなければ、特別美味しいものでもない。
けれど私は、昨日の昼にジュースを飲んでから何も口にしていなかった。
手が、自然と動く。
黒パンはスープに浸して、少し柔らかくしてから口へ運ぶ。
目玉焼きは、塩気の強いベーコンと一緒に食べると、ちょうどいい。
黙って食べる私を横目に、エルネも慌てたように食べ始める。
最初の一口は不満そうだったけれど、空腹には勝てないらしい。次第にペースが上がっていく。
温かいスープが胃に落ちる。
それだけで、胸の奥の固まりが少し緩む気がした。
「おばさん。ありがとうございます。私、この子と一緒にギルドに行ってきます」
言葉が、自然と出た。
自分でも少し驚く。
お腹が満たされると、心にも余裕が生まれるらしい。
視界が広がる。周囲の音が戻る。
エルネはその言葉を聞いて、さらに急いで食べ終える。
「私、準備してきます! 待っててください!」
ぱたぱたと駆け足で去っていく。
その背中を見送りながら、私は静かに息を吐いた。
少しだけ、笑いそうになる。
あんなふうに、何も迷わず前を向けるのは、どんな気持ちなのだろう。
私も、昨日までは——。
考えかけて、やめる。
私は立ち上がり、部屋へ戻る。
レザー装備を身につけ、ポーチの中身を確認する。杖を手に取ると、冷たい感触が掌に馴染む。
軽く深呼吸。
部屋を出る。
カウンター席で待っていたエルネが、ぱっと顔を上げる。
「それじゃあ、行こ! 私、まだ全然わからないことが多いから、一人で行くには心細かったの」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れる。
心細いのは、私のほうかもしれない。
「ほら、黒パン、持っておいき」
おばさんが、布に包んだ黒パンを差し出す。
「ありがとうございます」
ポーチにしまい、エルネの隣へ並ぶ。
宿の扉を押し開ける。
朝の光が、まぶしい。
昨日と同じはずの街並み。
同じ石畳。
同じ空。
何も変わっていない。
それでも。
隣にいるこの子の足取りは軽く、私の歩幅を引き上げる。
世界は変わらない。
でも、歩く方向は、自分で決められる。
Eランクのままでも。
迷いを抱えたままでも。
私は、歩いている。
その事実だけが、今は少しだけ救いだった。




