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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
14話
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呼ばれた名



 手を引かれ、そのまま一歩踏み出す。


 部屋の敷居を越えた、それだけのこと。


 世界が変わるわけじゃない。昨日の試験結果が覆るわけでも、胸の奥に残る引っかかりが消えるわけでもない。


 それでも。


 この一歩は、ようやく踏み出せた一歩のような気がした。


「いつまでも黙ってないで話してよ」


 振り返った少女が、明るく言う。


「私ね、エルネ。昨日から冒険者になって、ここに泊まることにしたの。見て、これ。冒険者証!」


 誇らしげに、首から下げた冒険者証を指でつまみ、私の目の前に掲げる。まだ傷一つないその表面が、朝の光を受けてかすかに光った。


 ニッコリと歯を見せる笑顔。


 ズキン、と胸が痛む。


 少し前——いや、昨日までの私が、そこにいる。


 期待と、希望と、自分はきっとやれるという疑いのない顔。


 ああ、この子は知らない。


 私が今、どんな気持ちでいるのか。


 胸の奥に沈んだ重さも、Eランクの文字を見たときの息苦しさも。


 でも、それをわざわざ口に出すことでもない。


「私は……リュシア、です」


 絞り出すような声。自分でも驚くほど覇気がない。


「ねぇ、冒険者ランクは?」


 無邪気な問い。


 その一言に、喉が詰まる。


 呼吸が、一瞬止まる。


 目を逸らし、唇を開く。


「E、ランク」


 短い言葉なのに、やけに重かった。


「へぇ〜! 試験にいなかったから? じゃあ先輩だ!」


 エルネはぱっと顔を輝かせる。


「リュシア先輩って呼んでいいです?」


 先輩?


 私が?


 昨日、自分の未熟さを突きつけられたばかりの私が。


 こそばゆいような、居心地の悪いような感覚が胸をかすめる。


「いい、ですけど……」


「うん、決まり!」



 その勢いに押されるように、私たちは通路を抜け、宿のカウンターへ出た。


「おはよう」


 宿のおばさんが、気さくに声をかけてくる。


「おはようございます」


 返事は、思ったより普通に出た。


 部屋の外に出てしまえば、意外と呼吸はできる。気持ちが晴れたわけじゃない。ただ、誰かと一緒にいると、思考が一点に沈まずに済む。


「朝ごはんにするかい? ちゃんと宿泊代金を払ってる子には出すようにしてるんだからね」


 おばさんは、テーブルに突っ伏して眠る、いつもの酔っぱらいのおじさんを横目で見る。どうやらまだ夢の中らしい。


「やったー。食べまーす!」


 エルネが元気よく返事をする。


 ほどなくして、テーブルに並んだのは、いつもの朝食。


 黒パン。

 塩辛いベーコンと目玉焼き。

 豆入りのスープ。


 特別でもなんでもない、見慣れた光景。


「黒パン……」


 隣から、少し落胆した声が漏れる。


 その気持ちはわかる。黒パンは固くて、味気ない。焼きたてでもなければ、特別美味しいものでもない。


 けれど私は、昨日の昼にジュースを飲んでから何も口にしていなかった。


 手が、自然と動く。


 黒パンはスープに浸して、少し柔らかくしてから口へ運ぶ。

 目玉焼きは、塩気の強いベーコンと一緒に食べると、ちょうどいい。


 黙って食べる私を横目に、エルネも慌てたように食べ始める。


 最初の一口は不満そうだったけれど、空腹には勝てないらしい。次第にペースが上がっていく。


 温かいスープが胃に落ちる。


 それだけで、胸の奥の固まりが少し緩む気がした。


「おばさん。ありがとうございます。私、この子と一緒にギルドに行ってきます」


 言葉が、自然と出た。


 自分でも少し驚く。


 お腹が満たされると、心にも余裕が生まれるらしい。


 視界が広がる。周囲の音が戻る。


 エルネはその言葉を聞いて、さらに急いで食べ終える。


「私、準備してきます! 待っててください!」


 ぱたぱたと駆け足で去っていく。


 その背中を見送りながら、私は静かに息を吐いた。


 少しだけ、笑いそうになる。


 あんなふうに、何も迷わず前を向けるのは、どんな気持ちなのだろう。


 私も、昨日までは——。


 考えかけて、やめる。


 私は立ち上がり、部屋へ戻る。



 レザー装備を身につけ、ポーチの中身を確認する。杖を手に取ると、冷たい感触が掌に馴染む。


 軽く深呼吸。


 部屋を出る。


 カウンター席で待っていたエルネが、ぱっと顔を上げる。


「それじゃあ、行こ! 私、まだ全然わからないことが多いから、一人で行くには心細かったの」


 その言葉に、胸の奥が小さく揺れる。


 心細いのは、私のほうかもしれない。



「ほら、黒パン、持っておいき」


 おばさんが、布に包んだ黒パンを差し出す。


「ありがとうございます」


 ポーチにしまい、エルネの隣へ並ぶ。


 宿の扉を押し開ける。


 朝の光が、まぶしい。


 昨日と同じはずの街並み。

 同じ石畳。

 同じ空。


 何も変わっていない。


 それでも。


 隣にいるこの子の足取りは軽く、私の歩幅を引き上げる。


 世界は変わらない。


 でも、歩く方向は、自分で決められる。


 Eランクのままでも。


 迷いを抱えたままでも。


 私は、歩いている。


 その事実だけが、今は少しだけ救いだった。


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