揺れる心
次の朝は、あっという間にやってきた。
眠ったのかどうかもわからない。ただ、目を閉じていた時間が終わり、薄い光がカーテンの隙間から差し込んでいる。それだけで「朝」だと告げられる。
依頼に行く気分ではなかった。
ずっとこうしていたい。
動きたくない。
世界が私を置いて進むなら、せめてこの部屋の中だけは止まっていてほしい。
枕に顔を押しつけると、かすかに自分の髪の匂いがした。昨日よりも濃い。寝返りを打つたびに、香りが布に移っていったのだろう。
目を閉じたまま、布団の上で横になる。
落ち着く気配はない。
むしろ、静かだからこそ、余計に考えてしまう。
——どうして。
その一言が、頭の中を巡る。
兄様なら、どう答えるの。
強い背中。迷いのない言葉。
きっと「次に活かせばいい」とか、「必要なものが足りなかっただけだ」とか、そういうふうに整理してくれるのだろう。
姉様は違う。
小さい頃に、
「魔法さえあればそれでいい」
そう言っていた。
魔法があればいい。
悪い魔物を倒せる力があれば。
私は、その通りだと思っていた。
筆記試験の問題を思い浮かべる。
パーティーと魔物の対峙したとき、対処法。
ちゃんと答えた。迷いもなかった。
そのあと、ミアレがぽつりとこぼした言葉。
「難しかった」
あの時の彼女の顔。
少しだけ眉を寄せて、それでもどこか納得しているような横顔。
私は難しいなんて思わなかった。
モンスターを倒して、気をつけることを書くだけ。
ちゃんと問題の答えも出していた。
それなのに。
結果は、Eランクのまま。
布団の中で、指先をぎゅっと握る。
きっと、誰も私のことをわかってくれない。
そんな考えが、胸の奥に沈む。
強いのに。
魔物を倒せるのに。
なのに、どうして評価されないのか。
ただ——泣かなかった。
泣いてしまったら、本当に自分に負けた気がする。
悔しいと認めることが、弱さを認めることのようで。
それだけは、したくなかった。
音のない部屋。
まぶたの裏は暗く、考えごとだけが渦を巻く。
シーツだけが、私を優しく包んでいる。
その静寂を、乱暴に叩き割る音が響いた。
ドンッ。
心臓が跳ねる。
体が反射的に起き上がる。視線は扉へ。
誰だろう。
宿のおばさんは、あんな叩き方をしない。もっと遠慮がちで、二回ほど控えめにノックする。
じゃあ、ミアレ?
姉様?
わからない。
でも、もしミアレだったら。
顔を合わせる勇気がない。
あの優しい目で見られたら、余計に惨めになる気がする。
それなのに、半分は——
そうであってほしい、と思っている自分もいる。
矛盾に気づいて、視線を落とす。
ベッドの縁に座り、そっと床に足をつける。
体重を乗せると、床板がわずかに軋んだ。
ドンッ。
また一つ。
そして間を置かず、両手で叩くような連打。
バン、バン、バンッ。
流石に煩い。
眉をひそめながら、忍び足で扉へ近づく。
杖は持たない。ただ、息を殺す。
扉の前に立ち、ノブを握る手が震える。
深呼吸を一つ。
ゆっくりと、ギィ、と音を立てて扉を開けた。
そこに立っていたのは、知らない少女だった。
くすんだ金髪。少し跳ねた前髪。
くたびれた袖の服に、レザーの胸当て。
首から下げた真新しい冒険者証が、朝の光を受けて小さく光る。
年は、私とそう変わらない。
でも、その目は。
「出てきた」
真っ直ぐだった。
まるで迷いを知らないみたいに、私を見ている。
その瞳に映る自分の顔は、きっとひどい顔をしているのだろう。
「ねぇ、おばさんから聞いたけど、あなた冒険者なんでしょ!」
明るい声。
間髪入れず、続ける。
「一緒に行こうよ!」
——一緒に?
思考が一瞬止まる。
部屋の前に立って、いきなりそんなことを言うなんて。
戸惑いと、苛立ちと、ほんの少しの驚き。
彼女は私の事情を知らない。
Eランクのままだということも、昨日の試験のことも。
それなのに。
まるで私が当然、外へ出る前提で話している。
胸の奥が、わずかに揺れた。
動きたくないと思っていたはずなのに。
布団の中で、世界から隠れていたかったはずなのに。
目の前の少女の真っ直ぐな瞳が、それを許さない。
私は、何かを言おうとして、口を開く。
声が出るまで、ほんの少し時間がかかった。




