表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
14話
68/80

音のない帰路

 


 静かなギルドだった。


 ついさっきまで確かにあった喧騒が、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。笑い声も、ジョッキのぶつかる音も、依頼のやり取りも、遠くへ押しやられたみたいに薄い。


 両手には、飲みかけのジョッキがある。


 並々と注がれていたはずのオレンジジュースは、半分ほどに減っている。さっきまで甘くて爽やかだったはずなのに、喉を通る気配がない。


 視界の端に、受付に並ぶ人たちが映る。


 その列の中に、ミアレがいる。


 背筋を伸ばして、順番を待っている。


 ——ここに戻る途中、ミアレは何かを言っていた。


 励ますような、慰めるような声だったと思う。


 でも、何を言っていたのか思い出せない。言葉が耳に届く前に、どこかへ吸い込まれていったみたいに、意味が残っていない。


 そして気づく。


 受験者の中で、私だけが、ここにいる。


 あの小部屋で、封筒を開けた瞬間。

 プツリと音が消えた。


 そのまま、世界が一枚隔てられたみたいに遠くなった。


 バルクは言っていた。

「簡単」だと。


 実際、その通りだと思っていた。筆記の内容は難しくなかった。手応えはあった。むしろ自信さえあったはずなのに。


 なのに。


 ああ、納得がいかない。


 どうして。


 私は、あそこに並んでいる人達より、ずっと強いはずなのに。



 おかしい、強いって、なんだっけ。

 兄様ならどうしただろう。


 胸の奥がじわりと締め付けられる。呼吸が浅くなる。息を吸っても、うまく肺に届かない。


 ジョッキを掴む手に、無意識に力が入る。


 指先が白くなるほど握り込んでいることに、しばらく気づかなかった。


 一口、飲もうとする。


 甘酸っぱいはずのオレンジジュースは、舌に触れた瞬間、妙に苦く、酸っぱく感じた。喉が拒む。飲み込めない。


 ——こんな味だっただろうか。


 違う。


 変わったのは味じゃない。


 私だ。


 この場に立っていること自体が、どこか場違いな気がしてくる。


 ここは、合格した者が次へ進む場所。

 次の依頼を受ける場所。

 未来へ歩き出す場所。


 私だけが、そこに入れない。


 置いていかれた。


 裏切られた。


 そんな言葉が、胸の奥で渦を巻く。


 誰に?


 試験に?

 ギルドに?

 それとも、自分に?


 わからない。


 ただ、ここに立っていることが耐えられない。


 ミアレの空になったジョッキの横に、自分の飲みかけを置く。カタン、と小さな音がした。


 杖を手に取る。


 ——ミアレは、こちらを見ていないか。


 一瞬だけ視線を走らせる。彼女はまだ受付に並んでいる。私に気づいていない。


 それを確認した瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。


 今なら、行ける。


 私は踵を返し、駆け足でその場を離れた。


 ギルドの扉へ向かう途中、視界が狭くなっていく。人の声も、足音も、遠い。自分の鼓動だけがやけに大きい。


 ——離れなきゃ。


 ——ここから。


 その瞬間。


 ドンッ、と衝撃が走った。


 視界が揺れ、身体が後ろへ弾かれる。尻もちをつき、床の硬さが伝わる。


「おい、どこ見て歩いてんだ!」


 男の怒鳴り声が降ってくる。見上げると、見知らぬ冒険者が眉を吊り上げている。何かを言っている。口が動いている。


 けれど、言葉が意味を結ばない。


 頭が、処理を拒んでいる。


 ああ、関係ない。


 怒られたって、どうでもいい。


 強いか弱いかも、今はどうでもいい。


 ただ——


 ここから離れなきゃ。


 行かなきゃ。


 宿に。


 自分の部屋に。


 扉を閉めて、誰にも見られない場所へ。


 じゃないと。


 じゃないと、私——


 どうにかなってしまいそうだ。


 胸の奥の何かが、崩れてしまいそうで。


 そのまま、壊れてしまいそうで。


 立ち上がり、謝罪の言葉も曖昧なまま、私は再び走り出した。


 背後でまだ何か声が聞こえた気がしたが、振り返らない。


 振り返ったら、立ち止まってしまう。


 立ち止まったら、全部を受け止めなければならない。


 不合格という事実も、

 自分が思っていた強さの意味も、

 ミアレの「どこまで行けるのかな」という言葉も。


 今は、無理だ。


 ギルドの扉を押し開け、外の光に飛び出す。


 眩しさに目を細めながら、私はただ走る。


 音のない世界から、逃げるように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ