音のない帰路
静かなギルドだった。
ついさっきまで確かにあった喧騒が、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。笑い声も、ジョッキのぶつかる音も、依頼のやり取りも、遠くへ押しやられたみたいに薄い。
両手には、飲みかけのジョッキがある。
並々と注がれていたはずのオレンジジュースは、半分ほどに減っている。さっきまで甘くて爽やかだったはずなのに、喉を通る気配がない。
視界の端に、受付に並ぶ人たちが映る。
その列の中に、ミアレがいる。
背筋を伸ばして、順番を待っている。
——ここに戻る途中、ミアレは何かを言っていた。
励ますような、慰めるような声だったと思う。
でも、何を言っていたのか思い出せない。言葉が耳に届く前に、どこかへ吸い込まれていったみたいに、意味が残っていない。
そして気づく。
受験者の中で、私だけが、ここにいる。
あの小部屋で、封筒を開けた瞬間。
プツリと音が消えた。
そのまま、世界が一枚隔てられたみたいに遠くなった。
バルクは言っていた。
「簡単」だと。
実際、その通りだと思っていた。筆記の内容は難しくなかった。手応えはあった。むしろ自信さえあったはずなのに。
なのに。
ああ、納得がいかない。
どうして。
私は、あそこに並んでいる人達より、ずっと強いはずなのに。
おかしい、強いって、なんだっけ。
兄様ならどうしただろう。
胸の奥がじわりと締め付けられる。呼吸が浅くなる。息を吸っても、うまく肺に届かない。
ジョッキを掴む手に、無意識に力が入る。
指先が白くなるほど握り込んでいることに、しばらく気づかなかった。
一口、飲もうとする。
甘酸っぱいはずのオレンジジュースは、舌に触れた瞬間、妙に苦く、酸っぱく感じた。喉が拒む。飲み込めない。
——こんな味だっただろうか。
違う。
変わったのは味じゃない。
私だ。
この場に立っていること自体が、どこか場違いな気がしてくる。
ここは、合格した者が次へ進む場所。
次の依頼を受ける場所。
未来へ歩き出す場所。
私だけが、そこに入れない。
置いていかれた。
裏切られた。
そんな言葉が、胸の奥で渦を巻く。
誰に?
試験に?
ギルドに?
それとも、自分に?
わからない。
ただ、ここに立っていることが耐えられない。
ミアレの空になったジョッキの横に、自分の飲みかけを置く。カタン、と小さな音がした。
杖を手に取る。
——ミアレは、こちらを見ていないか。
一瞬だけ視線を走らせる。彼女はまだ受付に並んでいる。私に気づいていない。
それを確認した瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
今なら、行ける。
私は踵を返し、駆け足でその場を離れた。
ギルドの扉へ向かう途中、視界が狭くなっていく。人の声も、足音も、遠い。自分の鼓動だけがやけに大きい。
——離れなきゃ。
——ここから。
その瞬間。
ドンッ、と衝撃が走った。
視界が揺れ、身体が後ろへ弾かれる。尻もちをつき、床の硬さが伝わる。
「おい、どこ見て歩いてんだ!」
男の怒鳴り声が降ってくる。見上げると、見知らぬ冒険者が眉を吊り上げている。何かを言っている。口が動いている。
けれど、言葉が意味を結ばない。
頭が、処理を拒んでいる。
ああ、関係ない。
怒られたって、どうでもいい。
強いか弱いかも、今はどうでもいい。
ただ——
ここから離れなきゃ。
行かなきゃ。
宿に。
自分の部屋に。
扉を閉めて、誰にも見られない場所へ。
じゃないと。
じゃないと、私——
どうにかなってしまいそうだ。
胸の奥の何かが、崩れてしまいそうで。
そのまま、壊れてしまいそうで。
立ち上がり、謝罪の言葉も曖昧なまま、私は再び走り出した。
背後でまだ何か声が聞こえた気がしたが、振り返らない。
振り返ったら、立ち止まってしまう。
立ち止まったら、全部を受け止めなければならない。
不合格という事実も、
自分が思っていた強さの意味も、
ミアレの「どこまで行けるのかな」という言葉も。
今は、無理だ。
ギルドの扉を押し開け、外の光に飛び出す。
眩しさに目を細めながら、私はただ走る。
音のない世界から、逃げるように。




