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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
12話
62/80

黒パンと帰る場所




 昇格試験の申し込みを終えたあと、結局その日はもう依頼を受けなかった。



 受付の前で少し迷ったけれど、ミアレが言ったのだ。


「やっぱり今から行くと、帰りが暗くなっちゃうから」


 それなら仕方ない、と私は頷いた。



 夜は危ない。

 魔物の一部が、昼とはまるで別の生き物のように活発になる時間帯。


 頭では分かっている。けれど同時に、夜の冒険というものに憧れがあるのも事実だった。



 野営とか、野宿とか。

 焚き火を起こして、布で風よけを作って、小さな寝床を確保して。


 ホーンラビットを丸焼きにしたり、オークの肉を焼いたり。


 煙の匂い、ぱちぱちと弾ける火の音。


 それはきっと、いかにも冒険者という感じがする。



 ――楽しいだろうな。




 そんなことを考えている時間が、私は好きだった。


 まだ起きていない未来を想像していると、胸の奥が温かくなる。

 自分が本当に冒険者になったのだと、実感できる気がするから。





 宿の食堂は、夕方前の静かな時間帯だった。

 数人の客がぽつぽつと座っているだけで、昼の喧騒はもうない。


 私はカウンター席に腰を下ろし、目の前の皿に向き合っていた。



 木製のスプーンを握り、陶器の皿に軽く落とすと、コツンと乾いた音が鳴る。


 それを滑らせるようにして、スクランブルエッグを掬い上げ、口に運んだ。



 ふわり、と香りが立つ。

 油の匂いと、塩と香味。


 柔らかく、ほとんど噛まずに飲み込める食感。

 舌に残るほんのりした甘み。




 ――おいしい。



 自然と手が進む。


 朝に出てくる、固くて味気ないパンと、やたら塩辛いベーコンとは比べものにならない。


 毎日これでいい、と本気で思う。



「おいしいかい?」


 不意に声をかけられて顔を上げると、宿のおばさんがにこやかに立っていた。


 腕を組み、こちらを見ている。


「おいしいです」


 私は正直に、笑顔で答えた。

 嘘をつく理由もないし、本当においしいのだから。



「黒パンは、あんまり好きそうじゃなさそうだねぇ。毎朝、嫌そうな顔してるよ、あんた」



 ぎくり、とした。

 思わずスプーンを握る手に力が入る。

 まるで心を読まれたようだった。



「あ、れは……美味しくは、ないです」


 しぶしぶ口に出すと、おばさんは声を立てて笑った。


「素直だねぇ」


 それから少し間を置き、指を三本立てる。


「味はまずいけどね、あれはあれでいいところがあるんだ。

 安いこと、保存が利くこと、食べりゃあ腹の中で膨らむこと。

 だからさ、冒険者の中でも持ってく奴は多いよ」



 冒険者なら。

 その言葉に、胸が少しだけ高鳴る。



「そうなんですか? 冒険者は、あの、美味しくないパンを……好きで持ってるんですか?」



「ああ、そうだよ。朝に持っていくかい?」



 おばさんは、どこか楽しそうに私を見る。

 からかっているわけではない。ただ、見守っているような目だった。



「いいんですか?」



「いいよ、いいよ。大金もらったからにはサービスさ。また朝に声をかけておくれ」



「ありがとうございます」



 皿はもう空になっていた。

 スプーンをくるりと回すと、陶器の底で軽く音を立てる。


 おばさんはそれを見て、ふっと息をついた。


「ところで、冒険者の生活には慣れてきたかい」


「はい!」



 私は勢いよく顔を上げた。


「オークとか、大ネズミとかやっつけました! 私の魔法で一撃です!」


 自信満々に、両手で杖を持ち直してみせる。

 誇らしい気持ちが、胸いっぱいに広がっていた。



「オークをかい? すごいねぇ!」


 おばさんは目を丸くして笑った。

 その反応が嬉しくて、私はさらに胸を張る。



 しばらく他愛のない話をして、笑って。

 時間はゆっくりと過ぎていった。



 そして最後に、おばさんはぽつりと言った。


「これから色々あるだろうけどね。ちゃんと、ここに帰ってくるんだよ。

 帰ってこない日は、心配するからね」


 その声は、少しだけ低くて、柔らかかった。

 私は一瞬、何も言えなかった。


 心配する。

 帰ってくる場所。


 冒険者になるということは、外へ出ることだと思っていた。

 強くなって、遠くへ行って、知らない場所を歩くことだと。


 でも――帰ってくる、という言葉は、どこか胸の奥に引っかかった。


「……はい」


 小さく頷くと、おばさんはまた笑った。

 いつもの、気さくな笑顔に戻っていた。


 けれど私は、さっきの声を忘れられなかった。

 少しだけ寂しそうに聞こえた、その一言を。



 


 私はしばらく、空になった皿を見つめていた。


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