ローブを纏わぬ宮廷魔術師
通りすがりに兵も侍女も頭を下げる。
それは礼儀であり、制度であり、そしてこの城に染みついた習慣でもあった。
セレナはそれに応じない。
会釈も、微笑も、言葉も返さない。まっすぐ前だけを見て歩き、足取りの速さすら崩さない。彼女にとってそれは無礼ではなく、ただ余分な所作を省いただけの自然な振る舞いだった。
廊下に響く靴音だけが、彼女の存在を知らせている。そして、その背中で視線を感じた。
城門を抜け、朝の冷たい空気に触れる。外には手配していた馭者が既に待っていた。背筋を伸ばした壮年の男で、名をエドガーという。実直そうな顔立ちは、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。
「朝が早いですね、セレナ様」
「ええ、そうね。でも、まだ予定より少し早いと思いますが」
彼の口角がわずかに上がる。
「それも含めて仕事でしてね。待たせるなんて駄目でしょう?」
「ええ、そうね。殊勝なことだわ」
何度目になるか分からないやり取り。
今日もまた外回り、迎賓と挨拶、視察のようなもの。争いの少ない後方国では、宮廷魔術師の仕事は魔物討伐よりも存在の提示に近い。そこにいるという事実が、人々を安心させ、国の威光を保つ。
だからこそ、彼女は魔法の研鑽よりも、礼式や立ち振る舞いについて指摘されることの方が多くなった。
城壁沿いの花壇の縁に腰を下ろす。整えられた花々は、季節に合わせて色を変えるだけで、配置はほとんど変わらない。変わらぬ景色は、安定の象徴であり、同時に停滞の証でもあった。
「お菓子は食べますか?」
先に口を開いたのはセレナだった。
「王宮の菓子ですか? いただけるなら是非」
ポケットから小さな包みがくしゃりと鳴る。
それを取り出し、歩み寄って掌に乗せる。
薄茶色の小さな塊。キャラメルだった。
「口に合わなかったんで?」
「私には少し甘かったみたい」
体温でわずかに柔らかくなっている。
それでも彼は気にせず受け取り、包みを開けて口に放り込んだ。
セレナは再び縁に腰掛け、視線を泳がせる。
花壇、城壁、門、空。どれも昨日と同じだ。
――リュシアなら、喜ぶだろうね。
甘いものに目を輝かせる妹の顔が、ふと浮かぶ。
同時に、その顔を直接見なかったことへの静かな後悔も胸の奥で揺れる。
その時、擦るような足音と杖の音が重なって響いた。
コツン、コツン、と規則的な音。
振り向けば、壮年を越えた男が歩いてくる。宮廷魔術師ローレンス。土の大魔法で一国を救った英雄にして、今は杖なしでは長く歩けない老齢の魔術師だ。
「杖はどうした。ローブは?」
開口一番、それだった。
「部屋に置いてきました」
「魔法使いとしての象徴だ。ローブも宮廷魔術師の証。一国の責任を背負う者の義務だぞ。ゆめゆめ忘れるな」
鋭い視線。これもまた何度目か分からない。
セレナは軽く息を吐き、「ええ、わかっています」とだけ返した。
彼はかつて、魔物の大群を土壁で押し留めた。その壁は今も町外れに残り、城壁の一部として使われている。人々は彼を英雄と呼び、同時に過去の人とも囁く。
セレナは馬車の扉を開け、彼の手を取った。
「足元にお気をつけて」
半分は介護、半分は恩返し。
作法を教えたのも、宮廷での立ち位置を整えたのも彼だった。
二人が乗り込むと、馬車はゆっくりと動き出す。
「妹に会いに行ったんだろう? どうだったんだ」
ローレンスの問いに、セレナは一瞬だけ視線を落とした。
「行きました。けど、会いませんでした。ギルドの方と確認だけ。直接会うと……今度は私が、ローレンス様みたいになってしまいますので」
「……貴様」
短い沈黙が落ちる。
「それでよかったのか?」
「はい」
窓を見る。
馬車の車輪が石畳を打つ音が、やけに大きく聞こえた。
「会えば、気が済むものを。いつ別れの言葉になるや分からんものを」
「あまり、酷いことを言わないでください」
窓の外、変わらぬ城壁が後ろへ流れていく。
会わなかったのは、弱さか、優しさか。あるいは保身か。自分でも判別がつかない。ただ一つ確かなのは、会えば役職よりも姉であろうとしてしまうということだった。
宮廷魔術師セレナ。
権威を持ち、発言力を持ち、国に名を刻む立場。
けれど彼女は、その象徴たるローブも杖も身に着けない。
それは反抗ではなく、息継ぎだった。
権威の内側ではなく、外側で呼吸をするための、小さな抵抗。
馬車は朝の光の中を進む。
彼女はただ静かに、揺れに身を任せていた。




