加減
草陰に身を潜め、八つ目の罠を覗き込む。
膝を折り、呼吸を浅くして、周囲の音に耳を澄ませた。
葉が擦れる、かすかな音。
枝が揺れる、風の気配。
視線を先へ送る。
――白い影は、ない。
ホーンラビットの姿は見当たらなかった。
「ミアレさん、ホーンラビット……捕まってないみたい」
思わず肩の力が抜ける。
張り詰めていたものが、すっとほどけた感覚。
ミアレの方を見ると、彼女は私を見ず、罠の方に視線を固定したまま、ゆっくりと身を乗り出した。慎重に、音を立てないように。
「これは……」
ミアレは口元を手で覆い、しばらく地面を見つめてから、私の方を振り返った。
「リュシアちゃん、ここ……これを見て」
指差された先には、はっきりと残る痕跡があった。
散らばったベリーナッツ。
地面を蹴りえぐった跡。
そして――輪っかが、ない。
ツルは途中から千切れ、複数の獣の足跡が重なっている。土に滲んだ、わずかな血の跡。
「たぶん、人の仕業じゃないね。森オオカミに横取りされちゃったみたい」
ミアレはしゃがんだまま周囲を一通り見渡し、それから顔を上げて私を見る。
少しだけ、困ったような表情だった。
「それじゃあ、ほかの場所も早く見に行かないといけないですね!」
思わず声が弾む。
一匹分が減ったのは確かだけれど、落ち込むより先に、次を確かめたい気持ちが勝っていた。
「ね」
ミアレは短く返事をして、立ち上がる。
その足取りは軽く、迷いがなかった。
罠は互いに近い距離に仕掛けてある。
場所はミアレの頭の中に正確に入っているらしく、私はその背中を追いながら、朧げな記憶を辿るだけだった。
九つ目の罠。
そこに――いた。
白くて、ふわふわした小さな体。
つぶらな赤い瞳。
額に小さな角。
ホーンラビット。
「リュシアちゃん、お願い」
ミアレの声は低く、けれど迷いがなかった。
「……はい」
返事をして、草陰に身を沈める。
革越しに、杖を握る手に汗が滲む。
緊張しているわけじゃない。
怖くもない。
むしろ――いつもより、頭が冴えていた。
派手にやる必要はない。
必要なのは、最小限。
流量。
精度。
調整。
魔力を抑え、圧縮し、範囲を絞る。
弾けさせない。ただ、押すだけ。
――原型を残す。
そう強く意識して、杖を構えた。
「……エアーブロー」
声は、驚くほど静かだった。
放たれた風の塊は、矢ほど速くはない。
けれど、迷いなく、まっすぐに流れていく。
そして――命中した。
風に押し出されるように、ホーンラビットの体が跳ねる。
同時に、足に絡んでいたツルがぷつりと千切れ、その小さな体は地面を転がった。
――動かない。
一瞬、息を忘れた。
……できた。
原型を留めている。
血も出ていない。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
安堵と一緒に、ほんの少し――誇らしさ。
「ミアレさん、見て! 私、やったよ!」
振り向いた先で、ミアレと目が合う。
「うん。ちゃんと見てたよ」
彼女は弓を腰に戻し、穏やかに微笑んだ。
「リュシアちゃんなら、できるって思ってた」
「……!」
「でもね、半分くらいは、ウサギちゃん爆発しちゃうかな、って、ちょっとハラハラしてたけど」
「しませんっ!」
思わず声を張ると、ミアレがくすくすと笑う。
つられて、私の口元も緩んだ。
私が倒した。
自分の手で。
その事実が、胸の中で静かに形を持つ。
私はナイフを取り出し、ホーンラビットのそばに膝をついた。
小さな体。軽い命。
瞳が合うと、指が止まった。
これは魔物だ。
一度、深く息を吸ってから、首元に刃を当てる。
指に力を込め、ためらいなく引いた。
赤い線が走る。
胸が少しだけ、きゅっと縮む。
それでも、目は逸らさなかった。
これは、私が選んだ依頼。
私が踏み込んだ、一歩。
森の中で、葉の擦れる音がまた戻ってくる。
小さな命をひとつ越えた。
その感触を、私は確かに、胸の奥に刻んでいた。




