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風の氏族の末娘は、冒険者を知らない  作者: 林檎野山
10話
51/82

加減



 草陰に身を潜め、八つ目の罠を覗き込む。

 膝を折り、呼吸を浅くして、周囲の音に耳を澄ませた。


 葉が擦れる、かすかな音。

 枝が揺れる、風の気配。


 視線を先へ送る。


 ――白い影は、ない。


 ホーンラビットの姿は見当たらなかった。


「ミアレさん、ホーンラビット……捕まってないみたい」


 思わず肩の力が抜ける。

 張り詰めていたものが、すっとほどけた感覚。


 ミアレの方を見ると、彼女は私を見ず、罠の方に視線を固定したまま、ゆっくりと身を乗り出した。慎重に、音を立てないように。


「これは……」


 ミアレは口元を手で覆い、しばらく地面を見つめてから、私の方を振り返った。


「リュシアちゃん、ここ……これを見て」


 指差された先には、はっきりと残る痕跡があった。

 散らばったベリーナッツ。

 地面を蹴りえぐった跡。

 そして――輪っかが、ない。


 ツルは途中から千切れ、複数の獣の足跡が重なっている。土に滲んだ、わずかな血の跡。


「たぶん、人の仕業じゃないね。森オオカミに横取りされちゃったみたい」


 ミアレはしゃがんだまま周囲を一通り見渡し、それから顔を上げて私を見る。

 少しだけ、困ったような表情だった。


「それじゃあ、ほかの場所も早く見に行かないといけないですね!」


 思わず声が弾む。

 一匹分が減ったのは確かだけれど、落ち込むより先に、次を確かめたい気持ちが勝っていた。


「ね」


 ミアレは短く返事をして、立ち上がる。

 その足取りは軽く、迷いがなかった。


 罠は互いに近い距離に仕掛けてある。

 場所はミアレの頭の中に正確に入っているらしく、私はその背中を追いながら、朧げな記憶を辿るだけだった。



 九つ目の罠。


 そこに――いた。


 白くて、ふわふわした小さな体。

 つぶらな赤い瞳。

 額に小さな角。


 ホーンラビット。


「リュシアちゃん、お願い」


 ミアレの声は低く、けれど迷いがなかった。


「……はい」


 返事をして、草陰に身を沈める。

 革越しに、杖を握る手に汗が滲む。


 緊張しているわけじゃない。

 怖くもない。


 むしろ――いつもより、頭が冴えていた。


 派手にやる必要はない。

 必要なのは、最小限。


 流量。

 精度。

 調整。


 魔力を抑え、圧縮し、範囲を絞る。

 弾けさせない。ただ、押すだけ。


 ――原型を残す。


 そう強く意識して、杖を構えた。


「……エアーブロー」


 声は、驚くほど静かだった。


 放たれた風の塊は、矢ほど速くはない。

 けれど、迷いなく、まっすぐに流れていく。


 そして――命中した。


 風に押し出されるように、ホーンラビットの体が跳ねる。

 同時に、足に絡んでいたツルがぷつりと千切れ、その小さな体は地面を転がった。


 ――動かない。


 一瞬、息を忘れた。


 ……できた。


 原型を留めている。

 血も出ていない。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 安堵と一緒に、ほんの少し――誇らしさ。


「ミアレさん、見て! 私、やったよ!」


 振り向いた先で、ミアレと目が合う。


「うん。ちゃんと見てたよ」


 彼女は弓を腰に戻し、穏やかに微笑んだ。


「リュシアちゃんなら、できるって思ってた」


「……!」


「でもね、半分くらいは、ウサギちゃん爆発しちゃうかな、って、ちょっとハラハラしてたけど」


「しませんっ!」


 思わず声を張ると、ミアレがくすくすと笑う。

 つられて、私の口元も緩んだ。


 私が倒した。

 自分の手で。


 その事実が、胸の中で静かに形を持つ。


 私はナイフを取り出し、ホーンラビットのそばに膝をついた。

 小さな体。軽い命。


 瞳が合うと、指が止まった。

 これは魔物だ。


 

 一度、深く息を吸ってから、首元に刃を当てる。

 指に力を込め、ためらいなく引いた。


 赤い線が走る。


 胸が少しだけ、きゅっと縮む。

 それでも、目は逸らさなかった。


 これは、私が選んだ依頼。

 私が踏み込んだ、一歩。


 森の中で、葉の擦れる音がまた戻ってくる。

 小さな命をひとつ越えた。


 その感触を、私は確かに、胸の奥に刻んでいた。

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