見えない角
ギルドの中は喧騒だった。
木の床を踏む靴音、笑い声、酒の匂い、金属が触れ合う乾いた音。
そのどれもが耳に入っているのに、私は気にすることもなく、視線だけを依頼掲示板へ向けていた。
自然と、Dランクの依頼を流し見る。
「リュシアちゃん、それはDランクの依頼だけど気になるの?」
隣から届いたミアレの声に、私は少し肩を揺らした。
「あ、うん。ちょっと、どんなものがあるのかなって思って」
紙に並ぶ文字を追う。
採集、駆除、素材納品。
その中に、オークの文字はなかった。
少しだけ、残念に思う。
あのお肉は美味しかった。もしまた手に入ったら、ミアレにも食べてもらいたい。そんな気持ちがあった。
視線を落として、さらに下の依頼を見る。
薬草類の採集。
大ネズミの駆除。
ホーンラビットの素材。
――素材?
私はその依頼書を手に取った。
ホーンラビットの肉、八匹分。
報酬、銀貨四枚と銅貨五枚。
薬草の依頼より、遥かにいい。数字だけ見ればそう思えた。
横から「あ……」と、ミアレの小さな声が聞こえた気がした。
振り向くと、何でもないよ、と微笑まれる。
一瞬だけ目が合い、すぐに逸らされる。
何か言いたそうで、言わない顔だった。
「リュシアちゃんがそれを選ぶなら……」
そう言いながら、ミアレは掲示板の依頼を指で一つずつ数えるように見ていく。
そして、別の紙をそっと手に取った。
木の実の納品依頼。
赤と紫の実を、籠いっぱい――一キロ。
報酬、銀貨三枚。
私は覗き込む。
ミアレは少しだけ顔を離した。
それが多いのか少ないのか、正直よく分からない。
それよりも、果物や植物の見分けがつかない私にとって、その依頼は意味を成していなかった。
何より――
私は強い。
オークだって、一撃で倒せた。
あのときの風の衝撃。
杖を振り下ろした瞬間、空気が弾けた感覚。
手に残っている、あの確かな手応え。
今の私なら、きっと何でも倒せる。
「ミアレさん、その、それってわかるんですか?」
目線が合う。
ミアレは少し頭を傾け、やわらかく微笑んだ。
「分かるよ。もし分からなかったら、リュシアちゃんにも教えてあげるね?」
つまんだ依頼書を揺らすと、紙がかさりと鳴る。
「受付のお姉さんのところ、行こ?」
私は頷いて、ミアレと一緒に列へ並んだ。
場所は平原だった。
バルクとロニオと行った大空洞のダンジョンへ向かう途中、遠くに見えていた草原。そこだ。
道を挟んだ反対側には森が広がっている。
どちらにも生息しているらしい。
風が頬をなでる。
ギルドの混ざった匂いはもうなく、湿った土と草の匂いだけが残っていた。
膝ほどの高さの草が、波のように一面に揺れている。
立っているのは、私とミアレだけ。
ホーンラビット。
平原に入ってから、まだ一匹も見つかっていない。
私は杖を両手で抱え、堂々と歩いているつもりだった。
けれど、何かがおかしい。
何か、思っていたのと違う。
静かすぎる。
「ねぇ、ミアレさん。ホーンラビットってここで合ってるの?」
確認のために問う。
ミアレは周囲を見回して、小さく頷いた。
「うん。ここにいるよ」
少し間を置いて、続ける。
「でも……臆病だから。気配を感じると、すぐ逃げちゃうの」
そのとき、草が一斉に揺れた。
風ではない何かが、低く走った気がした。




