帰路の灯
ナイフが擦れる音が、湿った空間に細く響いていた。
皮が削がれ、肉が裂かれ、骨に刃が触れる鈍い音が伝わるたび、洞窟の空気はわずかに震える。
松明の火が揺れ、影が伸び縮みするたびに、そこに横たわるオークの巨体は、もはや魔物というより巨大な素材の塊へと変わっていった。
血と肉と骨。
鼻腔を刺す鉄の匂いに、私はほんの少しだけ肩を強張らせる。
掌にじっとりと汗が滲むのがわかった。
嫌悪感ではない。
ただ、これが冒険者の現実なのだと、ゆっくりと身体に染み込ませるように受け入れているだけだった。
ミアレと森オオカミを捌いた時にも見た光景。けれど、目の前のそれは規模も迫力も、何もかもが違っていた。
「内臓がぐちゃぐちゃになってるな……」
ロニオが胸部を切り開き、内部を覗き込む。
私は思わず視線を逸らしそうになったが、ぐっと堪えた。
「持って帰ろうと思ったのか?」
バルクが気のない調子で問う。
「いや、そのつもりはない。ただ……それだけの威力がある魔法だと思ってな。少し、怖くなっただけだ」
怖い。
その言葉の意味が、私にはすぐには理解できなかった。
頼もしい、ではなく、怖い。
自分の魔法が誰かにそう映ることがあるのだと、その時になってようやく知る。自分の手を見て、その言葉は胸のどこかに引っかかり、静かに沈んでいった。
作業は手際よく進み、オークの形はみるみる崩れていく。
首と腕が落とされ、内臓が抜かれ、残った胴体はただの大きな肉塊となった。
膝下を落とされた腿。
分厚い二の腕。
ロニオとバルクは慣れた手つきでそれらを布に包み、背負えるように紐を結んでいく。
私は二の腕の塊を手渡された。
人の太ももほどもある太さ。ずっしりとした重量が肩にのしかかる。布越しに伝わる生温かい湿り気が、遅れて嫌悪感を呼び起こした。けれど、それを表に出すことはしなかった。これは仕事だ。これもまた、冒険者の一部なのだと、自分に言い聞かせる。
「じゃあ、帰るか」
「ああ、すぐ動こう」
短いやり取りの後、ロニオは残った腕先や足先、そしてオークの頭部を、帰路とは別の方向へ次々と投げ捨てていく。
私は思わずその軌道を目で追った。
「捨てるんですか?」
問いかけると、バルクは口の端を上げる。
「まぁ、見てろって」
答えはすぐに現れた。
どこからともなく、空気を叩く羽音が近づいてくる。洞窟の天井を掠めるような、あの不快な振動音。私は反射的に身構え、杖を握りしめた。
だが、ジャイアントバットたちは私たちには向かわなかった。
散らばったオークの肉片へと群がり、足で掴み、噛みちぎり、互いに威嚇し合いながら奪い合う。数は多くない。それでも、あの羽音が耳に届くだけで、胸の奥がざわついた。
「解体してる時に血の匂いで寄ってきたんだよ。全部は持って帰れねぇ。おこぼれを分けないと、今度は俺たちが襲われる」
バルクはそう言い残し、踵を返して歩き出す。
合理的で、現実的で、そして容赦がない判断だった。
心臓の鼓動が速くなる。
さっき襲われた瞬間の記憶が、鮮明に蘇る。牙、翼、鋭い鳴き声。喉の奥がひゅっと詰まり、息が浅くなる。私は小走りに足を動かし、二人の背中を追った。
背後では、肉を引き裂く音と羽ばたきが混ざり合っている。
振り返らない。振り返ってはいけない気がした。
揺れる松明の灯りが、足元の影を揺らす。
背負った肉の重みと、金具が小さく触れ合う乾いた音だけが、私がまだここにいることを教えてくれる。
これが冒険者の帰り道。
血の匂いと、わずかな達成感と、拭いきれない緊張を抱えたまま進む、暗くて細い道。
それでも私は歩く。
振り返らず、足を止めず、灯りの届く方へと。




