15、比叡山迷宮のこと
カナさんが小川の水を飲むと、避難して来た人達は、恐る恐る、小川に近寄っていく。
おそらく彼女は、小川の水が飲めることを示したのだろう。ただ飲みたかっただけかもしれないが。
小川の水を飲んだ人達は、すっごく驚いた顔をしていた。生まれてから一度も、山の湧き水のようなものを飲んだことがないからか。
「カナちゃん、剣をお返しします」
「あぁ、うん。しかし魔剣士かぁ。迷宮の主人には最適かもね。まだ1階層しないからわからないだろうけど、階層が増えると、迷宮は、主人にチカラを貸すようになるわ。これもアンドロイドの機能よ」
(もう貸してくれたけど?)
だがそこは、秘密にしておく方が良いか。
「そうですか。それより、あちこちの争いは食料ですか?」
「ええ、この迷宮には2,000食しか届いてないわ。その倍は集まっているわよね?」
(人数もわかってないのか)
銀色の猫が約1万人だと言っていたけど、それは伝えない方が良さそうだ。たぶん普通のアンドロイドには、まだそこまでの能力はないのだと思う。
「もっと多いような気がしますが」
「そう? 困ったわね。もう、外には出られないわ。比叡山迷宮がおかしなことをしなければ、灼熱低気圧は明日の朝には抜けて行くだろうけど」
(比叡山で、呪いを受けたんだよな?)
彼女の表情には、恐怖心というより怒りがにじんでいる。アラフォーの姿にされた恨みか。
「比叡山のダンジョンが、何かするんですか」
「ええ、比叡山迷宮は、この迷宮特区ができる前に造られたものが多いんだけど、さっきの奴らのような愚かな者達のせいで、バランスが崩れたのよ」
「バランス? 乗っ取りですか」
「奪って自分達が管理するなら、まだいいのよ。所詮、弱肉強食の世界だからね。だけど、奪った迷宮のボスに負けて、ダンジョンコアをモンスターに奪われた帰還者が何人もいるのよ」
「はい? モンスターが、ダンジョンの主人になったんですか?」
僕がそう尋ねると、彼女はコクリと頷いた。
(少し、話が見えてきたな)
おそらく、その比叡山迷宮に、カナさんの帰還者迷宮があったのだろう。それを取られただけじゃなく、奪った帰還者には制御できず、モンスターが主人になったのか。
バランスが崩れたという意味は、いくつか考えられるが……彼女のダンジョンはそれなりにチカラがあったと考えると、その主人は、厄介なモンスターに育ったということだ。ダンジョンの主人は、迷宮のエネルギーを使えるからな。
「比叡山迷宮には、どれくらいの数のダンジョンがあるんですか?」
「無数にあるわ。モンスターが主人となったいくつかの迷宮は、増殖し始めたのよ」
(あー、なるほど)
一定の増殖器官を持つモンスターは、爆発的に増える。ダンジョンコアを取り込みダンジョンと一体化すると、ダンジョンの増殖も可能だろう。
「そのエネルギーとなるのが、台風ですか」
「ええ、そうよ。今回は灼熱低気圧だけどね。さすがに丸呑みはしないけど、進路を塞いでエネルギーを吸収するのよ。そうなると被害が増すわ」
「灼熱低気圧が抜けるには、もっと時間がかかるのですね。スピードが遅くなるから、明日の夕方くらいまでは、熱風が吹き荒れるかな」
僕がすんなりと納得したことが不思議だったのか、彼女はキョトンとしている。
『マスター、ポンコツは難しい話は思考停止するようです。それより、弁当の奪い合いが激化しています』
(どうしようか。やはり果実の樹が良くない?)
僕は草原を見回してみた。人は多いけど、アンドロイドが助けてくれているのか、あちこちの様子が見える。
『果実の樹は他の迷宮にあるので、人間は食べ物だと認識しています。出現させるとすぐに醜い争いになります』
(なるほど。小川は知らなかったから、騒ぎになってないんだな。まだ飲んでない人の方が多いみたいだし)
『はい、そうだと予想できます。ただ、食料がない状態だと永遠に争いが続き、多くの死人を復活させるためにエネルギーを使うことになります』
(そう。それも、もったいないね)
『はい! もったいないです。ですがマスターが施しを与えすぎると、この迷宮には、次の台風のときに人間が押し寄せます。人間は強欲です』
(無償で提供すると、次のカモにされるのか。それも困るよな)
「ねぇ、キミ! 誰かと話してる?」
(あっ、バレた)
「カナちゃん、僕の頭の中を覗いたんですか」
「キミの迷宮で、キミの考えは覗けないわよ。私が強い術を使えば見えるだろうけど、大勢の前では使えないわ」
(阻害してくれてるんだな)
あっ、そうだ。こんなに大勢が集まっているのは、ある意味チャンスだ。企業迷宮が壊れて仕事がしばらくできない人もいるよな?
「カナちゃん、拡声器みたいなものはないですか?」
「念話を使えるんじゃないの?」
「集まってる皆さんに、話があるんですよ。あちこちで争いが起こってるから、聞こえないでしょう?」
すると近くにいた職員が、そーっと何かを差し出した。無線機のようなマイクのような機械だ。
僕は軽く会釈をして、それを受け取る。
キィンと嫌な音が出た。わざとやったわけじゃないけど、争いが少し収まった気がする。
『皆さん、聞こえますか? この迷宮の主人の五十嵐です』
少し待つと、離れた場所で争っていた人達もこちらを向いたようだ。
『壁から15メートル以上離れてください。ちょっと改装します。それと、この1階層で働いてくれる人を募集します。まずは、僕が何をしたいのかをお見せします』
階段を降りた左奥には、ダンジョンコアがある。だから、右側の壁添いに、建物を造ろうとイメージした。
(完璧だな)
改装は、光が瞬くようにできるみたいだ。突然、僕がイメージした建物が現れ、人々はシーンと静まり返った。
蟲の魔王アントが治める国の一般的な建物だ。この草原によく合う。
白い石造りの堅固な5階建のアパートのようなものが、5つか。1階部分は店舗、2階は倉庫スペース、そして屋上には、草原からは見えないが畑がある。
『アパートの1階はすべて店になります。ここで働いてくれる人には、迷宮内の住居を提供すると共に、給料を食料で支払います。いかがでしょうか』