死の対岸
大きな梨を食べ終えた三人はすぐに研究室には戻らず、満腹の胃が少し軽くなるまでの間だけ、静かな中庭で和やかな時間を過ごした。
「それにしても、ルイーザらしいですわね。もう少し歳を重ねれば落ち着くのでしょうけれど、困ったお馬鹿さんだこと。兄弟が迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
異母兄弟の破壊行為を聞かされたレナが、ティーに深々と頭を下げた。
レナは、ティーが自分は人族だということをうっかり失念してしまうくらい、ティーに対して誠実且つ好意的だった。しかも勤めてそうしているのではなく、とても自然である。それは、彼女の深層意識に、人族への偏見や嫌悪が無い事の現れだった。
―― だめだ。一般常識を見失いそうだわ。
この二人といると、己のおかれている社会的環境を忘れそうになる。
ティーは眉間を揉んだ。
新人類も人族も例外なく、子供たちは大人から国の歴史を教わる。その中で、人族の祖先である旧人が行った破壊行為の内容を知る事は、国の歴史を学ぶのみならず、生活を営む中で避けて通れない通過儀礼の様なものだった。
新人類たちは歴史を学ぶ中で、生活を営む中で、旧人達がもたらした災いを知り、それらを実感してゆく。結果、人族は新人類に疎まれ蔑まれるというのが通例だった。
短命であろうと身体が弱かろうと、人族に対して同情する者などこの国には一人もいない。むしろ同情する余地などない、というのが、新人類たちが作り上げてきた社会の見解である。
中には人並み外れた豊富な知識と卓越した技術を持つが故に『賢者』と呼ばれた人族も過去にはいたらしい。しかし、そういった例は極少数だった。
商いでは割り切った関係が築かれているものの、やはり私情を挟むと、人々の態度は一変する。
勿論、彼らが世論に振り回されている、と言えなくはない。だがやはり、新人類の多くは人族に冷ややかな感情を抱くのが普通だった。
王女である身の上からより多くの情報に触れる機会もあり学者でもある以上、レナ自身、好んで勉学に励んだはずである。そして、彼女も少なくとも一度は、人族を嫌悪したはずである。しかし彼女自身が下した判断は、神殿に実った熟れた梨を一人の人族のためにもぎ、兄弟の無礼を心から詫びる、という世論を超越したものだった。
コムル村の村人やルパと同じように、レナは稀少な人種といえるだろう。
慣れは禁物。そう己自身に忠告しつつ、ティーはレナに話しかける。
「レナさんは、一日の殆どをここで過ごしているんですか?」
『さん』は不要です。と笑ってから、レナは実に賢帝の娘らしい答えを返してきた。
「趣味みたいなものですけれど、少しでも民の役に立てればと思いまして」
会話を進めてゆく中で、レナは根っからの研究者だということが判明した。研究に熱中しすぎると、いつの間にか夜になっている日も少なくないのだという。だから、こうやって訪問してくれると忘れず食事ができるので有り難いのだ、とレナははにかんだ笑みを浮かべた。
レナの話に仕事中の自分と共通するものを覚えたティーは、ますます彼女に好感を持った。
ティーに見てもらい意見を聞きたい資料も沢山あるからまた神殿に来てくれというレナからの頼みも快諾した。
資料の話題が出たので、ティーは書庫に保管されていたガラスケースの中身について訊ねる。
「ガラスケースの中にあった、あの大量の資料は本物?」
レナは大きく頷き、「正真正銘、本物です!」と誇らしげに胸を張った。
「遠征隊を組んで、いろんなところから拾い集めています。砂漠の遺跡の中や、森林に埋もれた廃屋。中には対岸から集めたものもありますわ」
対岸、という言葉にティーは耳を疑った。
「対岸?“死の大陸”に行くの?」
思わず訊き返す。
「私やお兄様も何度か行きましたわ。お父様には内緒ですけれど」
人差し指を口に当て、レナは悪戯っぽく笑った。
「あそこは地喰いの巣窟のはずよ。怖くないの?」
「こちらが何もしなければ、あちらも何もしてきませんもの。怖いのは地喰いよりも土や水ですわ。触れると皮膚が荒れるし、体内に入れば臓器が炎症を起こしますから」
どうやらレナ王女は、その可憐で愛らしい外見とは裏腹に、驚くほど行動的で冒険家らしい。
―― いや、そんな問題ではなく。と、ティーは思考を修正させた。
あの対岸に足を踏み入れる者が居たことが驚きである。
エメラルドグリーンの海の向こうに、まるで亡霊のようないでたちで人々を脅かしている対岸は、かつては旧人の大都市だった。しかし現在は、岸自体が汚染の塊でしかない。そこに住めるのは、染物質を好んで喰う、とてつもなく頑丈な地喰いという生物だけだ。
もし今現在、対岸に人族が踏み込むのなら、それはその人物が死を覚悟した時だけである。
「・・・人族なら死の恐怖を味わうところを、あなた達は肌荒れや炎症で済んでいるのね」
ティーは改めて新人類の強さを思い知り、呆然と呟いた。
対岸は、地喰い達が有害物質を食らうことで少しずつ浄化されている。これから何百年先、何千年先かは分らないが、きっと新人類は、対岸に新たな都を築くだろう。そしてきっと、そうやって徐々に生活の場を広げ、栄えてゆくに違いない。今はこうやって、旧人達の置き土産に苦しんでいても、いつかはその置き土産から解放されて、彼らの本当の楽園作りが始まるはずだ。
その頃には人族は、この地から姿を消しているかもしれない。かつてこの地にはびこっていたある一種の絶滅種として、古生物学や考古学の中に登場する資料の一つに変わるはずだ。
「ティー、聞いてるか?」
はるか未来への物思いに取りつかれていたティーは、ルパに肩をたたかれ現実に戻った。




