水曜日の午前6時、会社のデスクで「疲れた」と呟く
「猫になりたい」なんて馬鹿馬鹿しい願い事を、本気で考えるようになったのはいつからだろう。
数年前に亡くなった愛猫を、羨ましく感じてしまう。
家でゴロゴロして、食べて、遊んでもらって。
お仕事といえば飼い主を癒やすこと。
素直に羨ましいし、嫉妬もする。
けれども私を癒やしてくれる存在は、非常に役に立っていた。健全な心のまま生きていけていたのは、間違いなく愛猫のお蔭だった。
ああ、そっか。
愛猫が亡くなった日からか。
本気で猫になりたいと考えるようになったのは。
そして、私は猫のような自堕落な生活を羨ましかったのではないことに気付いてしまった。
思い出すのは、可愛いらしい安らかな寝顔。
亡くなった時も、普段と変わらない寝顔だった。
病気も怪我もせず、月に一回あるかないかの散歩を楽しみにしてくれる優しい子だった。
私はただ、愛猫の安らかな死を羨ましがっている。
13年という短い寿命を生きて、痛みも悩みもなく眠るように死ぬこと。
いや、悩みはあったかもしれない。もっと散歩に行きたかったとか。
でも、私という人間に間違いなく愛されて、看取られた。
私は人間に愛されて、痛みもなく安らかに死ぬなんてできそうにない。
パソコンの青白い光に看取られて、仕事に愛されて死ぬのだろう。
ガチャという音が鳴り、向かいのデスクに座る人影。
そんな存在に目もくれず、私は愚痴を見てもらおうと携帯を開いていた。
いつも通り『死にたい』と打ち、送信しようとした時。
「突然すみません。
**さんって、犬と猫どっちが好きですか?」
名も知らない同僚から、話しかけられた。
何故話しかけたのか、そもそも誰なのかを聞こうとして、やめた。
会話を続けるなんて疲れることしたくない。
「猫」
「**さんは猫なんですね。
私も猫なんですよ。仲間ですね」
パソコンを間に挟んだ会話。
お互い顔すら見えないのに、彼は饒舌であった。
どこか上機嫌でもあり、私との温度差は比べるまでも無かった。
「って、あれ。パソコンにエラーが出てますね。
ヤバイヤバイ。今日締切のやつあるのに!」
だが、この温度差は心地良い。
最近は似たような温度の人とばっかり関わっていたから、このぐらいが丁度よいかもしれない。
犬のようにキャンキャン鳴いていて煩くて、眠たい頭にガンガン来るのは変わらないけれど。
「**さん。あの、ちょっと助けてくれませんか」
助けを乞う声に、渋々デスクから立ち上がる。
既に朝から疲れるだろうことが分かり、ため息を付きながら反対側のデスクへ向かおうとした。
しかし、俯いたせいか携帯の『死にたい』という文字が見えてしまった。
「……あの、やっぱり、駄目ですかね。
すみません。自力でやってみます」
助けてと呼ぶ声に反応しなかったからか、彼は尻すぼみに謝罪とさっきの助けを撤回した。
これではいけない、と何かが私を動かした。
「駄目ではないです。
今、どんな状況ですか」
「え、大丈夫なんですか!
それじゃあ、早速! 今はこんな状況で――」
そして、後悔した。
こんな朝から疲れるようなことをするなんて馬鹿らしい。
『死にたい』というくだらない文字列を消して、『疲れた』という文字列を打ち込んで送信。
やっぱり、飼っていたのは猫で正解だった。
犬みたいなやつと関わるだけでも疲れるのに、飼うなんてことは到底できそうにない。
でもまあ、お世話をするだけならやってもいいかな。