第三話：知は其の知らざる所に止まれば至れり
大変ご無沙汰しております。
更新速度に関しては、大変申し訳ございません。。。。
お楽しみ頂ければ嬉しいです。。。
※※ ０３ ※※
久寿二年＜１１５５＞三月廿六日の昼下がり。
胤子は実弟の紀成清を三条殿に呼び寄せ、母親である小大進の葬儀について、鳥辺野の行事を郎党の葛貫能隆、河越重頼、江戸重継、比企掃部允遠宗と共に最終の打ち合わせをしている時だった。
突如、簀子から激しい衣擦れと足音が重なって、青い顔をした平清盛が廂へ飛び込んできた。
「高陽院・泰子様が御不予となられたッ」
母屋の奥まで聞こえて来たその声に、主人である胤子よりも先に、御簾そとに控えていた常陸が驚きの声を上げる。
「まさか、石清水臨時祭を終えたばかりですよ！ よもや……」
よもや『還立』を中止にしたせいではないか――辛うじて女房という身分から踏み止まり、その言葉を腹の底に飲み込んだ。皇后・多子の主上に対する腐心と苦悩をわが身のごとく感じている常陸は高ぶる思いを抑えつつ、しかし忸怩たる思いを隠し切れずに御簾奥の胤子に視線を送る。胤子としても驚愕の中でいまいち釈然としないまま、ゆっくりと深呼吸して心を落ち着かせた。
（女院が病を得た？ 今上帝から鳥羽の法皇、美福門院に続いて！？）
高陽院――藤原泰子は摂関家の総領姫として生まれ、幼少より后がねの姫として育てられた。しかし白河院は待賢門院・藤原璋子を鳥羽天皇に入内させると、その一か月後には中宮に冊立し他の姫の入内を禁じる。
将来を閉ざされ入内も結婚も見通しが立たなくなった泰子は無為の時期を過ごし、とうに大治四年＜１１２９＞七月、白河院の崩御を機に長年政界から追放されていた同母弟の関白・忠通が復活すると、花の盛りも越えた３９歳の泰子は鳥羽上皇に入内することとなった。
長承三年＜１１３４＞、異例の女御宣下に加え皇后宮に冊立された。しかし忠通よりも頼長を摂関家の後継者と望んだ父・忠実の計らいで、頼長が皇后宮大夫に任じられ、さらにその後ろ盾として泰子の庇護下に入れたのである。もともと不仲な兄弟であったが、この事件が左大臣・頼長と関白・忠通の対立をより決定づけてしまった。だが二人の姉である泰子という緩衝のおかげで表立った抗争には至らなかったのである。
しかし今回の不予で、弟たちの軋轢を抑えられるのも限界かもしれない。
（この事態は、きっと左府にとって糾弾されてもやむを得ない最悪な状況だわ。『還立』の一件があるので多子様に危害が及ぶことはないと思うけど、この時期に養父と後ろ盾を同時に失うのはマズイわね）
殿舎の空気は完全に凍り付いていた。今起きた椿事に郎党たちが直垂の袖先にある太刀を握る。清盛は三条院には前触れもなく参上できる人間の一人であることは胤子共々郎党たちも理解はしているが、非常に間が悪かった。
慮った初老の比企遠宗が胤子に向かって平伏す。
「畏れ多くも軽々しく口の端に上らせることではなく、皇后のご養父であらせられる左府からもお館様に対して要らぬ誤解を招きかねまする。どうやら安芸守様はご気分が優れぬのでしょう。早々にお引き取り頂くよう願います」
「な、なにをッ――」
思わず言葉を発した清盛であったが、比企遠宗の鋭い剣幕に押し黙る。偽りか真か、それとも謀か、気が付けば居並ぶ郎党たちの射抜くような視線に晒されていた。
（本当に間が悪いわよね。母上は高陽院様の女房だったわ。しかも待賢門院様の御衣を盗んだという嫌疑まで掛けられてた。『還立』の件から逃れるために左府から高陽院様の御不予は母上の穢れのせいだとこじつけられる可能性があるわ。遠宗もそれを危惧したんだろうけど……）
胤子は遠宗と清盛のやり取りを聞きながら沈思していた。やがて弄んでいた檜扇をぽんぽんと手のひらで整えて、とつぜん厚畳の縁を叩く。
「落ち着きなさい、清盛。いづれにしろ高陽院様の件は今ここで騒ぎ立てるものではないわ」
胤子の押しがある声に、清盛はわれに返って自分の失態を自覚した。居たたまれない思いで立ち尽くすその奥から、もう一人の公達が戸惑いがちに現れる。
「皆様がた……どうもお騒がせしております。安芸守殿はせっかちでいけませんなァ、ともあれ速やかに小侍従殿のお耳に入れねばならぬことがありますのでお取次ぎ願います」
控え目で冷静な公達の声で、その場の出来事が多少和らいだのか、郎党たちの怪訝な気配が消えた。それを察した清盛は気恥ずかしさを声に乗せる。
「あ、ええっと……この御仁は成憲卿だ。石清水臨時祭の折より何かと懇意にしておる」
貴公子の来訪に、胤子の隣に控える女房が檜扇の裏でうっとりとした顔をしている。濃い二藍に浮線蝶文様の直衣を見事に着こなして、なかなかの美男子である藤原成憲は、藤原通憲、今や出家して鳥羽法皇の軍師といわれる信西入道の長男にあたる。現在、散位ではあるが、従五位下を戴く殿上人で内裏でも優秀だともっぱらの評判だ。
「……とにかく、お二方のお席を用意してちょうだい」
顛末はどうあれ、呆れ果てたというように胤子は言った。廂の奥に控えていた常陸が母屋に座を作るため茵を二つ運び出す。背の君である清盛に対し、普段は扇をかざす程度の距離なのだが、客人が同伴しているため御簾を隔てた対面となる。廂の手前、御簾むこうに控えている遠宗に視線を移し、胤子は手の中で檜扇を軽く鳴らした。
「母上の棺を運ぶ、鳥辺野のまでの行列の差配は遠宗に任せます。能隆、重頼、重継はしっかり棺を守ってね。それと、成清」
「はい、姉上」
胤子の同母弟で石清水八幡宮別当の紀成清は、萌黄の狩衣の袖を広げて御簾前まで進み出た。
「あんたが母上の葬儀の喪主なんだから、しっかりおやりなさい」
「はいッ」
励ましの言葉に、すっかりと安堵した成清は喜色満面で声をはずませた。胤子も弟の頼もしさに大きく頷くと、廂に控える郎党たちにも声をかける。
「今日は皆、ご苦労様。下がっていいわ」
「はっ」
遠宗が白髪交じりに折烏帽子の頭をゆっくりと下げる。残りの若武者たちも揃って平伏した。
日は酉の方角へ落ち、女房達が大殿油に火を灯し始めた。ちりちりと芯が燻る音に重なって衣擦れと床を踏む足音が近づいてくる。
やがて常陸の先導で廂に衣冠姿の頼盛が現れた。おそらく新院＜崇徳院＞の御所での宿直明けの後で、そのまま三条殿に車を寄せたのだろう。しかし、疲労を表情に全く見せないで、明るく笑った。
「姉上、私をお呼びだとか」
「うん。とりあえず、これへ」
暗い中の灯とはいえ、御簾を隔てて指さす胤子の仕草をどこまで見えていたのか、頼盛は笑顔を絶やさず女房の用意した茵に腰を下ろした。目の前に炙った干魚が乗った高坏が置かれると、無邪気に盃を取って常陸に差し出す。少々呆れながらも嬉しそうに常陸は盃に白濁の酒を注ぎ、頼盛は満足げに大きく呷った後、ようやく母屋に座している清盛と成憲に気が付いた。
「これは失礼いたしました。出仕後に妻から頂く一杯が、何よりの楽しみでして」
にこやかに告げる頼盛の言葉に、蝙蝠で口元を隠した成憲は穏やかな微笑みを返す。
「おお、そういえば頼盛卿は小侍従殿の猶子となって常陸を娶ったのであったな。まことに祝着至極に存ずる」
厳密にいうと常陸が胤子の娘と判明した時点で、頼盛は『婿入り』したことになる。加えるならば胤子は清盛の正室となっても遜色ない身分であった。しかし、ひた隠さねばならない事情により、それらを公表できないのだ。代わりに頼盛を猶子としたことで胤子と清盛の関係性を明らかにした。
この場にいる当事者たちは、大きく頷く所作で、秘めた真実を心の底に押し込めた。
「成憲卿、ありがとうございます」
頼盛の返礼を、女房から陪膳を受ける成憲は涼やかな笑顔で受けたが、清盛は待ちかねた態度を隠さず直截に訊く。
「頼盛。鳥羽の田中殿では、高陽院様の御不予がどのように伝わっておった？」
鳥羽田中殿とは鳥羽の離宮――通称『城南離宮』と呼ばれる敷地内にある御殿のひとつである。
そもそも鳥羽の地は鴨川と桂川が合流する交通の要所であり、さらに山陽道から山崎、淀川に沿った久我畷から上る際、京師の南を守る要害の一つにもあげられ、また坂東の荘園から送られる税も巨椋池を抜け一旦鳥羽に留まる、いわば外港とも言えた。
同時に公卿たちの別荘が立ち並ぶ風光明媚な行楽地でもあったため、市が次々と立ち並び、やがて大きな都市へと発展していく。
寛治＜１０８７～１０９４＞の頃、白河院の近臣であった藤原季綱が巨大な人造湖と別邸を献上した事から、さらなる大規模拡張工事の末、南殿・泉殿・北殿・馬場殿・東殿・田中殿と多くの御殿を持つ、歴史上類を見ない御所が完成した。
その田中殿も含めた一大都市である鳥羽で話題になっているであろう高陽院について清盛は頼盛に問うてきたのだ。
何をどう話すべきか、様々な人の立場を気にしながら頼盛は記憶を遡らせる。
「一番悲しんでおられるのは、やはり関白・忠通卿の娘であられる皇嘉門院・聖子様でしょう。なんせご自身の叔母にあたりますからね。その皇嘉門院様を親身に慰めておられる新院＜崇徳院＞が印象的でした。それよりも信西入道の噂が気になります」
そう言って、頼盛は成憲に視線を流す。傍にいる清盛が怪訝な表情を浮かべ、御簾越しに胤子と目を合わせた。
「何故か急に左府が賀茂詣を家司の親隆に命じたことに対し、翌月には釈迦の誕生を祝う灌仏会が行われるはずだったのに、宮中の決まりでは特に神事がなくとも、賀茂斎院御禊を行えば、灌仏会は停止せざるを得ない。石清水臨時祭の還立を中止に追い込んだ挙句に今度は灌仏会も中止に追い込む。これを許してよいのか……と、頻繁に美福門院様に奏上されてるとか」
件の話を聞きながら、成憲は緊張で顔を強張らせ、どんどん青ざめてゆく。その噂の信憑性は成憲の態度を見れば一目瞭然だ。しかし胤子は見て見ぬふりをして、
「実際、四月の朔日から神事を始めたとしても、灌仏が行われる年は九日から始めることが出来るわ。それほど目くじらを立てることではないでしょう。しかし、奏上する相手が違うのではないかしら」
要は当てこすりだ。しかも胤子は昔から左府・頼長と信西入道の仲が険悪なのは良く聞き及んでいる。気になるのは、わざわざ美福門院に奏上したと言う事だ。
美福門院・得子はもともと身分が低く、鳥羽院の寵愛を受け叡子内親王を出産した後でも女御宣下はなされなかった理由は、頼長を含めた公卿が『大夫腹』と称して蔑んでいたと聞いている。信西入道はどうして今さら火に油を注ぐ必要がある。息子である成憲もなぜ急に背の君である清盛に近づくのか。
成憲がこの場にいる違和感を頼盛も感じていたのだろう。恐らく成憲は何かを知っている。それを炙り出すのも平氏を守る北野長者としての責務だ。
（いい機会だわ。少し脅してみようかしら）
胤子は嘆息し、檜扇を大きく鳴らし立ち上がる。緋色の長袴の裾を捌いて一歩踏み出し、見た目が女童とは思えぬ押しの強い声で言う。
「知は其の知らざる所に止まれば至れり……『荘子』曰く世の中は知らないことばかり。だからこそ無理矢理に理屈を付けた知識は知ろうと思わない方がいい――と世間では言うけど。
いい？ それでも人は知らないことを知った時、それは知ってる人に対する嫉妬の始まりなの。嫉妬から向学心が生まれるわ。天神様も学問はお互いの切磋琢磨だと言ってる。
信西入道は美福門院様に己を売り込んで治世に乱を求めるつもりかしら」
成憲はぎょっとした顔をして蝙蝠を落とした。
