第二話:人を相するは古の人有ること無きなり
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※※ 02 ※※
胤子が菅原氏長者――北野長者と共に引き継いだのが三条殿の邸である。内裏から二条通を東へ進み、東洞院大路にぶつかると右折して押小路通まで行く。そこには約一町ほど、中流貴族にしては広大過ぎる邸宅があった。
三条殿は三条帝が譲位後に住まわれた旧三条院であり、寛仁元年<1017>に崩御された後、長年空き家として売りに出されていたのだが、菅原孝標が上総介の任期が明けて上京した際に購入した。その娘が記した日記によれば、購入時は鬱蒼とした森だったらしい。
しかし今や、築地塀が屋敷を取り囲み、漆喰の白壁に桧皮葺の中門廊を潜って単廊が巡った東中門を過ぎると、大きな池がある南庭が一望できるようになった。庭のあちこちで焚かれた篝火の炎が水面を照らし、艶やかに咲いた赤や白の花桃が彩りよく咲いている。さらに緋色の木瓜や馬酔木の鈴なりに咲いた白い小さな花が春の宵に溶け込んでいた。
車寄廊に到着した牛車から降りて、軒先から春の美しい花々を愛でていた胤子は、出迎えの者を見て憮然とした表情に変わる。
「なんで、あんたがここにいるの?」
衣装は春を意識した早蕨のかさね。紫の上着に裏は幸菱文に固地綾の青。二陪織の袿の上に鈍色の素服に身を包んでいる従妹の菅原熙子(後の殷富門院大輔)だった。
「ひどいわ、姉様。『庭気色増せば晴沙緑なり。林容輝を変ずれば宿雪紅なり』って言うじゃない。宮仕えで冬枯れのように疲れ切った姉様も、元気一杯のあたしの姿を見れば、春の訪れを感じて生き生きとした気分が漲るはずだと思ったのよ」
「……確かに、さっきまでは春の訪れに心が癒されてたけどね」
不機嫌な胤子は、熙子をしり目に簀子を歩き始めた。後から白い頬を膨らませて熙子が付いてくる。丁度その横に控えていた常盤が、
「今の漢詩……って、鬼と美女を賭けた双六勝負をして勝った長谷雄が百日の禁忌を破り、九十九夜に美女と契ったため、美女は水となって流れてしまう。しかも長谷雄はそれが原因で病にかかり、その災いを天神様が取り除いたおかげで春のように気分が晴れやかになった、という逸話が起こりだと聞いてます。ちょっと胤子様に例えるには相応しくないと思いますが」
言外に自分の主人が軽んじられたのでは、と怒りを露わにする常盤を、熙子は平然とした表情で、
「あなた、貞衡叔父様みたいなことを言うのね。いい? 詩は歴史書ではないのだから原典や言葉の意味を真面目に考えちゃ駄目よ。ましてや文法とか、そもそも漢字の起源とか……全く論外だわ」
何やら思い出したように唐橋貞衡を罵倒し始めた。菅原一族の中では珍しく漢詩や和歌が苦手な文章博士である。しかも弓馬にも傾倒しており、公家というより武家に近い。熙子は武骨で真面目な叔父が好きではないのだ。
「古今集の仮名序にも『……心に思ふことを見るもの聞くものにつけていひいだせるけり』とあるわ。要は直感と感性。言葉は道具、詩は美しい情景を思い浮かべればいいのよ」
「あんたは直感と感性だけで生きてるよね」
あれこれ語り続ける熙子に、胤子は瞳を眇めて揶揄した。褒められたと思い込んでいる熙子はお気楽な様子で声に喜びの色を混ぜる。
「ふふふ。そんな大したことでもないわ」
諦念の嘆息を吐いて胤子は怪訝な声で水を向ける。
「で、ホントのところは何?」
「左府の件で」
熙子の口調ががらりと変わった。
「父様が『詩経』の講義のため、左府の屋敷を訪れたら――「菅原家では女も『詩経』に精通してるらしいが『論語』を教えた方が良いのではないか。『五美を尊び四悪を屏ければ、斯れ以て政に従うべし』と申す。女軍師を気取るのも良いが身の程を心得るべきだろう」と、言ったそうよ」
「左府が時登殿にそんなことを……それで?」
相槌を打ちつつ、先を促した。
「よっぽど姉様にケチって言われたのが悔しかったのね。でも安心して、父様は姉様の味方よ。
父様は「『論語』ですか。確か『詩三百を誦しこれに授くるに政を以てして達せず、四方に使いして専り対うること能わざれば、多しと雖ども亦た奚を以て為さん』とも申します。自分が優秀だと思っている君子ほど、国に有害なものはありませんな。もちろん我が姪の事ですよ」と嘯吹いてお暇を頂いたらしいわ。
左府の人柄はともかく、お給金だけは良かったのに、と残念がってたわよ」
遺憾の念を表情に見せた胤子を、熙子は肩を竦めて苦笑した。
「ところで姉様。一剋ぐらい前から若虎義兄様が母屋でお待ちよ。随分と久しぶりだけど不承不承な顔をしてたわ。一体何をお願いしたの?」
切り出した熙子に、眉をひそめた胤子は少し言い澱んで、
「……まだ、何も頼んでないわよ。来てるのは若虎――清盛だけ?」
白々しく誤魔化すように言った。だが熙子はにやりと笑うだけで詮索することはなく、あっさりと答える。
「一緒に、重盛殿と基盛殿、 経盛殿に教盛殿と……狛若――頼盛も来てたわ」
胤子は得心したように大きく頷く。すでに長男の重盛は十八歳にて従五位下・中務少輔に叙されている。この度、十七歳の次男・基盛が元服を機に、来月の平野祭供奉として祭除目で鳥羽の院判官代・左兵衛尉の官位が与えられることが決まったのだ。
清盛の異母弟であるが従五位下・ 経盛と従五位上・教盛は新院<崇徳院>の許で殿上人であり、頼盛も正五位下・新院蔵人であった。
「ああ、そうね。私が呼んだんだから。あと、常盤も十七歳になって髪上を済ませた立派な大人だわ。今回は下がらずに傍で控えてなさい。あなたにとっても大事なお話だから」
しみじみと呟く胤子に、手燭で足元を照らす先導役の常盤は不思議な顔になる。今までになかった出来事に訝しさを覚えながらも無言で母屋まで付き従った。
正殿となる寝殿に近づくにつれ、笛の音が聞こえて来る。胤子は衣擦れと廂を踏む足音に気を付けながら、母屋に入った。
「ああ、姉上が渡られましたよ」
笛の音が止まり、廂でくつろいでいた経盛が顔を上げた。流石は笛の名手と呼ばれるだけあって耳ざとい。
「確かに侍従の薫物だ」
同じく廂に座る基盛も公家らしい台詞を言った。ふわりと香が鼻をかすめる程度に薄く焚き染めていたのだが、それを言い当てるとは、なかなかどうして美男ぶりではないか。胤子は嬉しさを隠して窘める。
「基盛はもう立派な公達ね。でも武芸はしっかり励むのよ」
「はいッ」
明朗で若々しい声を聞きながら、重ね袿の裾を払って茵に腰を下ろした。御簾が下りた先には、ただ一人母屋に上がっている清盛の縬織に白地浮線綾文の直衣に裏は萌黄の平絹、紫色鳥襷の指貫に身を包んで壮年期を迎えるのに相応しい装いが影として浮かび上がる。当時、童だった胤子は今も容貌は変わらぬまま。かつて幼さが残る若者を兄のように寄り添い初めて慕った清盛はすっかり洗練されて、雅やかと貫禄を兼ね備えた立派な公卿へと変わっていた。
「ねこ。相変わらず俺の都合も考えずに呼び寄せるのだな」
「あら。それでも若虎はいつも来てくれるじゃない」
無愛想に言う清盛に胤子は、からかいの言葉で返した。御簾の向こうで、ぎこちなく動く清盛の顔が赤く染まり、戸惑いがちに低く呟く。
「ま、まあ……北野長者である、ねこに呼ばれちゃあ、平氏の棟梁としては仕方ないだろう」
胤子の事を本名――『ねこ』と呼ぶ清盛は公にしていないが背の君である。
今から数十年前、待賢門院の養父である白河院の崩御を機に鳥羽院の寵愛は美福門院・藤原得子に移りつつあった。さらに関白・藤原忠実は娘である泰子<後の高陽院>を鳥羽院の皇后として入内させた。
暗転してゆく待賢門院・璋子の危機を感じた同母兄・徳大寺実能は、長女の幸子に忠実の息子・藤原頼長を婿に迎えたりと摂関家との関係を強めていった。また、実能の妹が花園左大臣・源有仁の正室ということもあり、その養女・故懿子に仕えていた小大進が臨時の女房として声が掛かったのだ。
一緒に連れ立った胤子が十四の時、そこで清盛と知り合った。最初は清盛の幼馴染で実能の家司であった佐藤義清を通じて、三人は筒井筒の仲であった。しかし男女が共にいて惹かれ合うのに時間はかからなかった。十七歳の春、胤子は清盛の娘を産んだ。だがひとつの大きな事件によって娘は義清の隠し子となったのである。だが今日を境に胸を締め付けてきた過去の傷がようやく癒える時が来たのだ。胤子は大きく息を吸い込んで常盤を見る。
「あなたが立派に成人したら真実を伝えることを私と清盛……ここにはいないけど義清殿との間で約束したわ。本当は私と清盛の子供だということを」
胤子の発言に清盛は安心しきった表情を浮かべた。だが常盤本人を始め、この場にいる全員が驚いて顎を落とす。
数間置いて、最初に呪縛から解かれた熙子が厭味ったらしく言う。
「てっきり姉様が幼いお姿でいるのは、清らかなままだからと思ってました」
「悪かったわね。実は汚れてて」
胤子は憮然とした面持ちで返した。卜定宣下を受けた内親王ではないので既婚だったことを責められる謂れはない。ましてや三十路をとうに過ぎているのだ、清らかな素振りを見せた覚えもなかった。
しかし成人した娘がいたことは予想外だったらしい。重盛が落としかけた檜扇を持ち直して、
「……ということは、常盤は私の異母妹ということになるのかな。それは確かに嬉しい話ですが、突然過ぎて頭が追いつきません」
戸惑う常盤も、
「そうです。胤子様を『お母上』とは呼べませんよ」
何を今さらとばかりに怪訝な顔をして言った。全てを承知の上で胤子は清盛に視線を移す。
「そこで一つ目のお願い。頼盛を私の猶子にしたいの」
「猶子!? 頼盛をねこの養子にしてどうする」
清盛が驚きの声を上げた。胤子も切り出した話を続ける。
「頼盛に常盤を嫁がせて、よしんば男子が生まれれば私が次期北野長者として育てるわ。平氏としても重盛という優れた跡取りがいるし、忠盛卿の正室の子供を他家に送ったほうが後継者争いにはならないでしょう」
しゃあしゃあと言う胤子に皆の反応は鈍かった。迂闊な物言いだが言い分は正しい。正鵠を射ているが手放しでは賛同しかねる策――胤子を世間で『腹黒』と言わしめる所以だ。苦悩の表情で清盛がなにか言いかける前、頼盛がその声を遮る。
「私は姉上の息子になっても構いません。世に名高い『姥童の女軍師』の許で兵法を学べます。武士冥利に尽きますよ」
「だがなァ……お母上の池禅尼様が何と申されるか」
なんとも複雑な感情を露わにして教盛が軽く唸った。
今の平氏棟梁は忠盛の長男である清盛だが庶子である。正室・池禅尼の長子、次男の家盛が棟梁になるはずだったのが、久安五年<1149>鳥羽法皇熊野詣の途中に病を得て、都に戻る前に悪化し宇治川で病没した。同じく正妻の子・頼盛は当時十五歳の元服前だったので、棟梁は長男の清盛に決まった。
だが平氏一門には叔父にあたる平忠正や息子の長盛など歯噛みしている者も多数存在する。頼盛がそんな輩どもの神輿に担がれる可能性を胤子は摘み取ろうとしているのだ。
平氏にとっても氏親である菅原――北野長者の猶子になるのだがら悪い話ではない。正論や道理を唱えれば、これ以上ない妙策と言えた。
「いえ、兄上。大丈夫ですよ。母上は姉上の思索を理解しておられます」
二人の異母兄、経盛と教盛は温厚な頼盛の物言いに大きく嘆息して黙ってしまった。様々な思いが交錯する中、熙子がちゃっかりと準備を進めていた御膳が女房達によって運ばれる。とうに夕餉の刻限を超えていた。
「なんにせよ、おめでたい席じゃない。今晩は天神様が大好物だった醤油の炊き込み飯もあるわ」
見目好く盛られた高坏を前に、熙子は上機嫌で笑った。