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プロローグ:革命は常に辺境から始まる

 皆様、初めまして。武田信頼と申します。

この作品は、有名な史実から時には眉唾物のうんちくまで混ぜ込んだ『痛快(?)異説歴史ファンタジー』です。一部、小難しく描かれている部分がありますが、あくまでファンタジーですので気持ちを軽く楽しんで頂けると嬉しいです。

 これから長いお付き合いになれるよう頑張って参りますので、どうぞ宜しくお願い致します。






          ※※ プロローグ ※※




 明けて久寿きゅうじゅ二年<1155>。三月(やよい)も過ぎようとしていた。

 ふと文机(ふづくえ)から顔を上げると、北廂(きたひさし)から切馬道(きりめどう)越しに見える内庭の紅梅はすっかりと散り、どこからか雲雀(ひばり)(さえず)りが聞こえてくる。

 格子(こうし)隙間(すきま)から差し込む暖かな光と匂い立つ春の香が、そよ風となって(ほお)()でた。流石にまだ肌寒く、冷えは身体よりも心にしんみりと(こた)える。


「うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しも独りし思へば――なんてね……」


 ぼやくように独り言を(こぼ)した時、妻戸(つまど)の開く音がした。


大伴(おおともの)家持(やかもち)の歌ですか、胤子(たねこ)様。まあ……こんなに日和(ひより)が良いのに心()きことばかり続くと、つい物悲しくなってしまいますが――て、こんなものを読んでばかりいるので『腹黒(はらぐろ)小侍従』だの『姥童(うばわらわ)の女軍師』だのと陰で(ささや)かれるのですよ」


 簀子(すのこ)から、北廂(きたひさし)上臈(じょうろう)(つぼね)に入ってくる女蔵人(にょくろうど)常陸(ひたち)である。不平を鳴らして、所狭しと広がる『孫子』や『六韜(りくとう)』『三略(さんりゃく)』を拾い上げるお付き女房は、幼馴染であった佐藤義清(よしきよ)の娘であり、幼子おさなごの頃より(ゆえ)あって胤子(たねこ)が手元に置いている。今や妙齢(みょうれい)の十七歳、いつ殿方が通って来てもおかしくないくらい美しく聡明な女房へと成長したが、女童(めのわらわ)のような無邪気さと、歯に(きぬ)着せぬ物言(ものいい)いが少々割引だ。


姥童(うばわらわ)って……。せめて姥桜(うばざくら)と呼んでほしいわ」


 もはや三十路(みそじ)を越えた胤子(たねこ)は年増の自覚がある。しかし、四尺八寸満たない背丈で見た目は十一・二歳の女童(めのわらわ)見紛(みまが)うばかり。振分髪(ふりわけがみ)(そろ)えず細長(ほそなが)汗衫(かざみ)といった童装束を(まと)えば『源氏物語』の若紫や、かくあらんといった感じだ。

 たわいもないが失礼な発言にふつふつと怒りを煮やしていると、常陸はぺたんと正面に座り、ずいっと膝行寄(いざりよ)る。


「そんな、滅相(めっそう)もありませんわ。『姥桜(うばざくら)』とは娘盛(むすめざか)りが過ぎても、なお色気が残ってる美しい女性を差しますが、胤子(たねこ)様の場合は、むしろ咲き続けて(さか)りが()きぬ『白子の不断桜』と申し上げるべきでしょう」


 思いがけない常陸(ひたち)の反論に、胤子(たねこ)は思わず言葉が()まる。(ちまた)の噂は(しか)り、胤子(たねこ)を差す風聞は悪罵(あくば)に近い。ゆえにお世辞でもなく裏表(うらおもて)がない普通の賞賛が面映(おもは)ゆいのだ。


「そ、そうかしら」


 柄にもなく素直に照れる胤子(たねこ)を前に、


「さすがは天神様のお血筋だけあって、その不思議なお力が大変お(うらや)ましく思いますわ。いつまでもお可愛らしいお姿の()()でいらしてくださいまし」


 賞賛も悪口(あっこう)忖度(そんたく)なく言いのけた。歓喜から落胆へ突き落された胤子(たねこ)(とが)めるような目つきで深く嘆息する。


「と、とにかく人様の容貌(かたち)を軽々しく口にするものではないわ。まあ……私にとって、成長しないこの身体(からだ)(のろ)い以外の何ものでもないと思ってるけどね。

 いずれにしろ、昨晩は弟の成清から母上がお隠れになられたと(ふみ)を寄こしてきたし、菅原氏長者(うじのちょうじゃ)だった叔父の在長(ありなが)殿も先月お隠れになったものの、従兄の在茂(ありもち)殿では身分が低すぎるし……本当に心憂(こころう)きことばかりだわ。今は常陸(ひたち)のように、とても前向きには考えられないわね」


 常陸(ひたち)の言う天神様とは菅原道真(みちざね)公のことであり、胤子(たねこ)から八代前の先祖にあたる。

 そもそも菅原家は桓武の御代に土師宿禰(はじすくね)古人(ふるひと)が菅原姓を願い出てから始まった。子の清公(きよきみ)は苦学の末、文章博士となり地方官を歴任した後、中央官僚として抜擢される。この時、桓武天皇の第三皇子である葛原親王(かずらわらしんのう)式部少輔(しきぶのしょう)として見出され、持てる能力を存分に発揮した。その経験から学問の重要性に気付いた清公きよきみは子弟養成場として、私塾『山陰亭』、通称『菅家廊下(かんけろうか)』を開校したのだ。

 しかし、元々の身分が低い。清公きよきみ都腹赤(みやこのはらか)讒言(ざんげん)によって播磨権守に左遷(させん)された。それを救ってくれたのが葛原親王(かずらわらしんのう)だった。菅原の人間は代々、御陵(みささぎ)に足を向けて寝ることは許されないのである。

 のちに、三十三年間に渡って育ててきた式部省を葛原親王(かずらわらしんのう)清公きよきみの子・是善(よれよし)(ゆず)り、これより菅原氏長者が式部大輔(しきぶのたいふ)を継承していくことになるのだが――この氏長者が胤子(たねこ)にとって大きな悩みの種であった。


在茂(ありもち)殿の身分が上がるまでは待ちきれないし。本家筋の長守(ながもり)殿は従四位上・大学頭で身分は申し分ないけど、養子だからと固辞したし……。やっぱり私になっちゃうよね)


 祖父の在良(ありよし)以降、式部大輔(しきぶのたいふ)補任(ほにん)されておらず、従四位下・式部権少輔(しょう)の菅原在長(ありなが)身罷(みまか)られた時点では、嫡男の在茂ありもちは文章博士とはいえ、未だ六位相当。氏長者宣下(せんげ)(いただ)くには身分が()く過ぎた。

 菅原氏長者は氏族の中で一番位の高い者が任じられる。そこで白羽の矢が立ったのが胤子(たねこ)だった。今上帝の皇后・多子(まさるこ)に仕え、信任が厚く、正四位(しょうしい)(じょ)されている。

 更に問題があり、藤原氏や源氏と異なって一度補されると原則として終身その地位を(まっと)うしなければならない。女子(おなご)である胤子(たねこ)には荷が重すぎた。そこで『姥童(うばわらわ)の女軍師』と名高い胤子(たねこ)が、次世代の氏長者を育てるまでの代理ということで一応収まったのである。


小大進(こだいじん)様が身罷(みまか)られたのはとても残念です。お可愛(かわ)がられた故花園左府様の姫・懿子(よしこ)様に先立たれ、悲しみに沈んでらっしゃったのに……ようやく九日の春季臨時任王会(にんのうえ)にて懿子よしこ様の皇子・孫王様が清らかに誦経(ずきょう)するお姿を垣間見(かいまみ)ることが出来て、これからお(すこ)やかにならようという時に……」


 そっと(そで)で目頭を隠して押し黙った。常陸(ひたち)も幼い頃、小大進(こだいじん)に礼儀作法を学んでいた。思い出も色々あるのだろう。が、気持ちと話題を切り(かえ)えるように顔を上げた。


「そうでした。父・義清――西行法師殿から文を(あず)かって参りました。どうやら左府様の件で……と、いうことです」


 そう言って常陸(ひたち)は、(そで)の中に忍ばせていた結び文を胤子(たねこ)に渡す。同じ左府でも故花園左大臣・源有仁(ありひと)のことではない。(ちまた)で『悪左府(あくさふ)』の異名を持つ、今の左大臣・藤原頼長(よりなが)のことだ。ちなみに()()悪は『悪人』の意ではなく、言動・性格・人柄等押し()べて型破りであるため、畏怖(いふ)が込められた表現なのである。

 実際、二年前の四月(さつき)の頃、頼長(よりなが)の命を受けて追捕(ついぶ)していた検非違使(けびいし)が罪人を石清水八幡宮の寺社領に追い込んだ。本来ならば、不入地(ふにゅうち)へ逃げ込んだ罪人の追捕(ついぶ)権は別当(べっとう)である胤子(たねこ)の弟・紀成清(きのなりきよ)にあり、寺社の手によって捕縛(ほばく)された罪人を領界線で検非違使(けびいし)に引き渡すのが基本原則なのだが、それを無視し、強引に乗り込んで捜索(そうさく)した挙句に流血事件まで起こしたのだ。

 面目を(つぶ)された成清は、頼長(よりなが)の養女・多子(まさるこ)に仕える胤子(たねこ)に泣き付いた。しぶしぶ苦言を(てい)したところ、綱紀粛正(こうきしゅくせい)の名のもと一笑(いっしょう)に付されてしまった苦い経験がある。

 このようなことが続き、慣習や協調を無視した政策を()し進める藤原頼長(よりなが)は今や中・下級貴族から完全に嫌われているのだった。


「……あまり良い内容ではないようね」

「さあ、私には分かりませんが、多分」


 常陸(ひたち)()え切らない返事に、胤子(たねこ)はわざとらしい苦悩の表情を見せた。香を()きしめた薄様(うすよう)の料紙を開くと、(みや)やかな水茎の跡が(うるわ)しい。一見、恋文のように見える文を渋面(じゅうめん)のまま読んでいく。読み終わって、嘆息(たんそく)と共にひと言。


「とにかく、母上の葬儀(そうぎ)もあるし……。皇后多子(まさるこ)様に里下(さとさ)がりのお願いをしてくるわ。常陸(ひたち)、三条殿へ車の用意を。それと――」


 胤子(たねこ)は料紙を取り出し、素早く文を(したた)めると、それを常陸の(たもと)に滑り込ませた。たちまち表情を硬くする常陸(ひたち)は立ち上がり、

 

「承りました」


 機敏な動きで()を引き付け、(きびす)を返して(ひさし)から簀子(すのこ)へ出て行った。衣擦(きぬず)れの音が遠ざかってゆくのを確認した後、胤子(たねこ)遣戸(やりど)を開いて東孫廂(まごしさし)に出る。北母舎を横切って弘徽殿(こきでん)額間(がくのま)を抜けた頃、南母舎の東(ひさし)(ひか)える女房達のやりとりが聞こえて来た。


「左府様がその様なご無体をッ! 石清水臨時祭は貞観の御世(みよ)より粛々(しゅくしゅく)と執り行われた儀式。しかも昨今坂東(ばんとう)が騒がしく、主上におかれましても御気色(みけしき)が優れぬと拝察し、皇后たっての希望なのですよ。それを急に還立(かえりだち)(おこ)わないとは何故(なにゆえ)ですか」

「……しかし左府が昨日の試楽(しがく)をご覧になって『華美に過ぎる』と申されまして。今日の朝議で更に『重なる出費に加え、坂東の不穏から追捕使(ついぶし)の派遣も検討しなければならない。今は国庫に負担を掛ける時ではない』と申されたとのことです」


 一段と声を張り上げた上臈女房に対し、公達らしい男性の声が弱々しい。胤子(たねこ)は眼前に檜扇ひおうぎをひろげて東(ひさし)へ進む。横目で見ると、どうやら女房側は加賀(かが)小丹波(こたんば)、公達は右近衛権少将・三条実長(さねなが)のようだ。

 会話は途切れ、弘徽殿の万事を(つかさど)る上臈の見参に、南廂に控えていた中臈(ちゅうろう)女房の武蔵局(むさしのつぼね)下野(しもつけ)丹後内侍(たんごのないし)、そして女蔵人の(かめ)(まえ)がかすかな緊張と共に深く頭を下げた。

 胤子(たねこ)は東(ひさし)を抜け、南母舎から少し離れた場所で膝をつく。


「小侍従、多子(まさるこ)様にお願いの儀で参上いたしました」


 胤子(たねこ)凛然(りんぜん)とした声に、御簾(みす)奥で繧繝縁(うんげんべり)の畳に唐綾(からあや)(しとね)を重ねた座でくつろぐ小袿姿の多子(まさるこ)の影が衣擦(きぬず)れの音を立てて身を乗り出した。


「小侍従がお願いとは(めず)しいことですね。いったい何かしら」

「恐れながら……。実は母・小大進(こだいじん)身罷(みまか)ったと文を受けました。つきましては里下(さとさ)がりのお願いを言上(ごんじょう)いたします」


 取り()ました表情で(かしこ)まり、深く頭を下げたまま胤子(たねこ)多子(まさるこ)の言葉を待つ。御簾(みす)のむこうではよほど(あわ)てているのか、浮足(うきあし)立った気配が数間ほど起きた後、


「小侍従はこれへ」


 (なか)に入るよう、檜扇(ひおうぎ)の頭が御簾(みす)の端から(のぞ)き出た。胤子(たねこ)の身分から考えたら特段に驚くことではない。むしろ多子(まさるこ)が相談や悩みがある時、信頼できる女房を御簾内(みすうち)の母舎に入れることは良くあった。

 胤子(たねこ)は頭を上げて膝行寄(いざりよ)ると、身をすくませて中に入る。(ひか)えの女房は一人もおらず、淡黄(たんおう)(あざ)やかな二陪織(ふたえおり)(うちぎ)(ひとえ)は青の幸菱文(さいわいびしもん)固地綾(かたじあや)。十五歳という若さに嫋々(じょうじょう)たる美少女ぶりが良く()える(よそお)いで、脇息(きょうそく)()くように小さな肩を(ふる)わせていた。


「今、小侍従がいなくなってしまうと困るわ。待賢門院(たいけんもんいん)様の時だって()が明けたのは十三か月後だったのよ」

大喪(たいそう)の期間はおよそ一年ですが仁明(にんみょう)帝の御世(みよ)より喪に服するのは十三日間、一年は心喪(しんそう)に服せば良いとなされました。待賢門院様の諒闇(りょうあん)は『礼記(らいき)』を模範(きはん)とされたもの。新院(しんいん)並々(なみなみ)ならぬ愛情の表れと拝察いたします。

 私も十三日で明けましたらご心配なさらずに戻って参りますわ」


 胤子(たねこ)の努めて穏やかな声音(こわね)に、いまにも泣き出しそうだった多子(まさるこ)の顔が(わず)かに安堵(あんど)の色を見せる。


「小侍従が言うのではあれば間違いはないわ。でも今は……どうしたら良いと思う?」


 恐る恐る(そで)の中から指さす御簾(みす)のむこう側には、剣呑(けんのん)な顔の口元だけを扇で(かく)して胡乱(うろん)な目つきを向けている加賀(かが)小丹波(こたんば)、ひどく気まずげに視線を()らしている右近衛権少将・三条実長(さねなが)が無言で控えていた。


還立(かえりだち)の件、ですか……」


 還立(かえりだち)とは石清水臨時祭の翌日、帰京した使(つかい)の一行を清涼(せいりょう)殿の東庭(とうてい)にて東遊(あずまあそび)を舞い、饗宴(きょうえん)(もよお)してその労をねぎらうものである。あくまで臨時祭の一時的な(もよお)し事であり、早くから(すた)れていた。

 そもそも石清水臨時祭は本祭とは別の恒例行事として行われており、朱雀帝の御世(みよ)に起きた将門・純友の乱を(しず)めるために祈祷(きとう)したことから始まる。

 昨今、再び坂東が乱れ始めている時節に合わせて今上帝は(いちじる)しく病気がちになり、一時失明の危機まで(おちい)った。今も床に()せている身を案じて多子(まさるこ)が願ったのが還立(かえりだち)の復活だった。

 儀式の復活には多くの公卿が賛同した。帝だけでなく鳥羽の法皇、そして美福門院までもが病に(おか)されている現状で、特に関白・藤原忠通(ただみち)、大納言・藤原伊通(これみち)がこれを後押しした。だが、突如還立(かえりだち)の復活に待ったをかけたのは()左府・頼長であった。

 いくら太政大臣・三条実行(さねゆき)が祖父で懇意(こんい)している頼長が直属上司とはいえ、こんな言伝(ことづて)を言い渡された実長(さねなが)胤子(たねこ)は同情を禁じ得ないが、唯々諾々(いいだくだく)として受けるつもりもなかった。


(さて、どうしたものか)


頼長は多子(まさるこ)の養父でもある。よしんば皇后として意向を(つらぬ)いたとして後ろ(だて)の機嫌を(そこ)ねてしまった場合、主人である多子(まさるこ)の立場が悪くなるだろう。ゆえにここは薄氷(はくひょう)()む思いで慎重に進めなければならない。

 胤子(たねこ)御簾(みす)越しに右近衛権少将・三条実長(さねなが)見据(みす)えた。


「少将殿。お聞きかと思うが、皇后は坂東の不穏(ふおん)主上(おかみ)御心(みこころ)(やす)からずと拝察(はいさつ)し、今回の還立(かえりだち)をお決めになられたのですよ。左府様の言い様も分からなくはございませんが、まずは石清水臨時祭を恙無(つつがな)()り行うことで御心(みこころ)を安んじて頂き、坂東へは徳のある(まつりごと)によって(おさ)めるべきではありませんか」

「はあ……、いちいちご(もっと)もかと。同じ意見を皇后宮大夫兼右衛門督(うえもんのかみ)・徳大寺公能(きんよし)様も(おっしゃ)っておりました。しかし……」


 しどろもどろの実長(さねなが)に業を煮やした加賀(かが)が激しく畳みかける。


右衛門督うえもんのかみ様は皇后のお父君ではありませんか。一体何があったのです、はっきりと(おっしゃ)って下さいませ」

「実は……」


 実長(さねなが)は言い澱んで一度言葉を切り、遠慮しがちに続ける。


「それを聞いた左府は『孟子(いわ)く、人を治め天に(つか)うるは、(しょく)()くは()し、と申す。つつましくあることが徳を生み、その積み重ねが国を保つ。浪費を(おさ)えいざという時のために(そな)える事こそ国の大事』と右衛門督うえもんのかみ様を押し(だま)らせてしまいました」

「なんと!」


 加賀(かが)(くや)しげに大きな声を上げた。小丹波(こたんば)を始め、南廂(みなみひさし)(ひか)えて一部始終を聞いていた中臈(ちゅうろう)女房の武蔵局(むさしのつぼね)下野(しもつけ)丹後内侍(たんごのないし)、女蔵人の(かめ)(まえ)も当然愉快ではなかった。

 隣に控える胤子(たねこ)から多子(まさるこ)が目に見えて意気消沈してゆく。特に責められる罪を犯したわけでもないのに目線を膝の上に落としたまま表情を曇らせる。

 落ち込んだ多子(まさるこ)に何か声を掛けようとした時、実長(さねなが)がおもむろに再び口を開いた。


「左府が特にこちらの方々に申し伝えるようにとのお言葉がありまして――」


 胤子(たねこ)の目に警戒の色が浮かぶ。これ以上何があるというのか、しかし自分たちの言い分も通すべく機会を(うかが)おうと平静を取り戻した。


「なんでしょうか」


 胤子(たねこ)の促しに実長(さねなが)は深々と頭を下げ返答を()けた。どうもはっきりしない態度に(いぶか)しさを覚える。やがて意を決したのか、やや緊張の面持(おもも)ちで、


「――『武韋(ぶい)(わざわい)あらんや』と」


 声は震えていた。不遜(ふそん)を承知で言ったのだろうが、年若い多子(まさるこ)にはあまりにも酷な諫言(かんげん)であった。恐らく伝言の目的は多子(まさるこ)叱責(しっせき)することではなく、お付きの女房――特に胤子(たねこ)に対して釘を刺しているのだろう。皇后・武則天(ぶそくてん)が引き起こした帝位簒奪(さんだつ)と混乱になぞらえて女性の身で政治に介入するなという警告だ。それにしても不本意過ぎる。

 衝撃のあまり多子(まさるこ)は泣き出し、他の女房達は反論の言葉も浮かばなかった。胤子(たねこ)だけは静かな怒りに燃えた。いくら養父といえど左大臣といえど、言っていいことと悪いことがある。ここまでコケにされて(だま)っていられるはずがない。


「少将殿」


 実長(さねなが)はびくりと肩を(ふる)わせた。当てつけを()らうのだろうと身構(みがま)えている目の前の公達(きんだち)胤子(たねこ)は優しく語りかける。


「左府様のお()いつけ、しかとお受けいたしました。しかし小侍従には何を以て無駄と申してるのか全く理解が出来ません。この時期に軍勢を整えることが国の大事なのでしょうか。ぜひ左府様には『女は毛詩(もうし)を見ざるや。糾糾(きゅうきゅう)たる葛屨(かっく)以て霜を()()し』とお伝え下さいませ」


 右近衛権少将・三条実長(さねなが)()たたまれなくなり、逃げるように弘徽(こき)殿から出て行った。

●胤子のうんちく


 物語は久寿二年<1155>三月より始まります。保元の乱より一年前、合戦前夜というところでしょうか。

 これから様々な人の思惑と利害が重なり、あるいは離反していゆく時代の黎明、平安末期から鎌倉時代草創期の動乱を描く大河ドラマ風ファンタジーが始まります。どうぞお楽しみ下さいませ。

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