普通でない僕ら
「…んっ……ぁ」
白と黒を基調とした一室で、甘い声が響く。
部屋に置かれたソファには2人の男女が座っており、さらりとした黒髪を持つ男、雪兎は腕に抱きしめている彼女、優月の柔らかい髪を楽しむかのように梳いていた。
もう片方の手は彼女が逃げられないように腰を支え、優月の額、瞼、鼻、頬、そして唇へとキスを落としていく。耳まで真っ赤にした彼女が愛らしくて、触れるだけのキスが深くなっていくのにそう時間はかからなかった。
閉ざされている唇を舌で無理やりこじあけ、彼女の舌をとらえるとぴくりと反応した。それが可愛くて抱きしめる腕にさらに力を込めて彼女を味わっていると、彼女が限界だと言わんばかりに背中を叩いてくる。
本当は嫌だが渋々口を離すと、顔を真っ赤にした彼女が涙目になりながら乱れた息を整えていた。
「可愛い…」
「…っ」
「相変わらず優月は慣れないね。ちゃんと鼻で呼吸してと何度も言っているのに」
そう言うと雪兎は感触を確かめるように彼女の可愛らしい唇をぷにぷにと触る。
「慣れるまで練習するしかないね。大丈夫、僕がいくらでも付き合うから安心して」
にっこりと笑いながら彼女をソファに押し倒すともう一度唇を重ねる。背中を叩いて抗議する彼女を無視して舌を入れ込んだ。
中をゆっくりと味わいながら彼女の鋭い歯に自身の舌をあて、そのまま力を入れた。痛みとともに切れた舌から血があふれでるのを感じる。ちらりと彼女に目を向けると、普段は黄色みがかっていた瞳が赤く彩られていた。先程まで抗議するように背中を叩いていた手は雪兎の服をぎゅっと掴んで離さない。
とろりと熱に浮かされたような赤い瞳が雪兎を見つめていた。
「ん…っ……ゆき、くん…」
もっともっととねだるように雪兎の舌に吸い付いてくる優月を見て、何とも言えない幸福感で満たされる。可愛くてたまらない。
もっと彼女に触れてどろどろに甘やかして可愛がりたいところだが彼女に嫌われたくはないので我慢した。体から堕とすのも考えなかった訳ではないがさすがにまだ高校生の優月にそれを強いるのは酷だろう。だから彼女の心を全て自分で埋め尽くしてしまおうと日々努力しているつもりだ。
しばらくの間彼女のふわふわな髪の感触を楽しんでいると、優月は雪兎の舌をぺろりと優しく舐めてゆっくりと口を離した。徐々に彼女の瞳が本来の色を取り戻していく。
「美味しかった?」
雪兎の問いかけに優月は小さく頷いた。
雪兎の血は他の人よりも格別らしい。吸血をした直後の彼女はいつも酔っているかのように意識がぼんやりしている。瞳はまだとろんとしており、上気した頬が色っぽい。正直に言うと滅茶苦茶犯したい。いや、我慢するけれども。
「はぁ……可愛い」
ボソリと漏らした本音を聞いた優月が嬉しそうにはにかむから余計達が悪かった。彼女に体重をかけないようにぎゅっと抱きしめる。
「あの、ゆきくん…?」
「ん?」
「からだ大丈夫?気分悪くなってない…?」
「これぐらい平気だよ」
本当に?と心配そうに見てくる優月を安心させるように軽いキスを落とした。
「ごめんね…」
眉を下げて申し訳なさそうに謝る優月にもう一度キスをする。
優月にならいくらだって血をあげるのだから気にしなくていいのに。もっともっと欲しがって雪兎の血でしか満足できない体になってほしい。そうしたらもう彼女は雪兎から離れることができない。それはなんと素晴らしいことだろう。…ある意味これも体から堕としているうちに入るのだろうか。自身の血ぐらいで優月が手に入るなら安いもんだ。
「好きだよ、優月」
だからはやく、僕のところへ堕ちてきておいで。
顔を真っ赤にした優月を見下ろしながら雪兎は笑みを浮かべていた。
日が落ちて暗くなった頃、雪兎に家まで送ってもらった優月は自室に入ると着替えもせずにそのままベッドに飛び込んだ。制服が皺になってしまうのもかまわずに枕に顔を沈めて足をバタつかせる。優月の頭の中は恋人である雪兎のことでいっぱいだった。
従兄でもある雪兎は顔が整っており、昔から格好よかったのだが成長するにつれてどんどんイケメンに磨きがかってきている。しかも面倒見がよくて年下の優月を妹のように可愛がってくれていたものだから、もう1人の兄のように慕っていた。それがいつの間にか恋心となり、まさか恋人になるとは夢にも思わなかったけれど…。
優月はそっと自身の唇に触れた。練習といって何度もキスをしてくれた雪兎を思い出す。上手くできない優月に呆れることなく優しくしてくれる彼に胸がぽかぽかする。しかも優月が吸血するのを躊躇っているのを察してか、彼はいつも自分から吸血を促してくれていた。下手したら気味悪がられてもおかしくないのに、痛みを我慢して血を与えてくれる。ただでさえ彼には幼い頃から迷惑をかけているのに、体に負担をかけ続けるのは嫌だ。以前にそう言って吸血を断わろうとしたことがあるのだが、彼は頷いてはくれなかった。我慢しようとしても彼の芳しい血を目の前に差し出されてしまえば私には抗うことはできない。
もし自分が吸血鬼でなければ……普通の人であればと考えないことはない。普通の女の子だったら、彼と普通の恋人のようにいられたのだろうかと考えてはため息をつく。いくら考えたって現実は変わらない。でも不安なのだ。彼が私みたいな子じゃなくて普通の女の子を好きになる日がくるのではないかと。その時は…その時は潔く離れよう。だからそれまでは傍にいさせてほしい。
「ゆきくん…」
好きだよと呟いたとき、急に扉が開かれて隙間からひょいっと男の人が覗いてきた。
「優月~飯だってさ……何してんの?」
「…っ。お兄ちゃん急に入ってこないでよ!」
「あーごめんごめん」
ノックもなしに入ってきた優月の兄、朋矢は悪びれもせずにへらっと笑っている。優月と同じく緩いウェーブがかかった淡い茶髪とヘーゼルカラーの瞳も相まって全体的に色素が薄い。両親の整った顔も受け継いでいるためイケメンなのだが…本人の言動もあり正直言ってチャラい。大学生になってからはさらに彼女をとっかえひっかえしているらしく、兄としては好きだけどお友達にはなりたくないタイプである。
じとっとした目で見つめてくる優月を見て、朋矢は首を傾げた。
「お前、今日も雪兎に会いに行ったのか?」
「お、お兄ちゃんには関係ないでしょ」
「…うまいからってあんまり雪兎の血を吸うなよ?依存しすぎると他の血を受け付けなくなるからな。離れられなくなるぞ」
「分かってるもん…」
指摘されたくないところをつつかれてしまい、抱きしめていた枕に力を入れてしまった。
私だって分かっている。すでに最近は雪兎の血以外を口にした時に満足できないことが起きているのだ。このままいけば、雪兎から別れを切り出された時に優月は雪兎なしでは生きられなくなるだろう。いや、どっちにしろ雪兎と別れたら辛すぎて生きるのが苦しくなるから死んでもいいような気もする。
どんどんと落ち込んでゆく優月を見て、朋矢は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「雪兎のやつ…ほんとやべーな…」
独り言をこぼした朋矢は頭をがしがしと掻くと、「俺はしーらない」と言って部屋を出ていった。優月のことはそれなりに大事な妹ではあるが、自分の身のほうが一番大事である。藪をつついて蛇を出したくはない。とりあえず離れたところから静観しようと朋矢は心に決めたのだった。
ホームルームを終え、クラスメイト達が部活へと向かうなか、帰宅部である優月は荷物をまとめると足早に学校を出た。向かう先は雪兎の家だ。
大学生である雪兎は一人暮らしをしており、マンションの一室を借りている。いつでも来ていいよと雪兎からは合鍵をもらっていた。講義の予定表をもらっているため、優月が着くぐらいの時間には雪兎も家に着いているだろう。一応訪問する旨を連絡してから彼の家へと向かった。
マンションのロビーについた優月は雪兎の部屋のインターホンを鳴らすが反応がなかったため、鞄から鍵を取り出してオートロックを解除した。どうやら優月のほうが先に着いてしまったらしい。最初の頃は雪兎が帰ってくるまでマンションの前で待っていたのだが、危ない?からと部屋で待つように言われていた。エレベーターに乗って目的の階で降り、彼の部屋の前にいく。自分の家ではない部屋の扉を開けるのはいまだに少しドキドキする。ガチャリと扉を開くと、見覚えのある男の人の靴が目に入った。
「あれ…?」
インターホンにもスマホにも反応がなかったため、てっきりまだ帰宅していないのかと思ったのだが…。
「ゆきくん?」
少し大きめの声で呼びかけるが反応がない。
お邪魔しますと言って部屋に上がり、廊下の先にあるリビングの扉を開く。テレビの音もしない静かな部屋の中、静かに足を進めてソファの前に回り込むと雪兎の姿があった。どうやら寝ているらしく瞳は閉じられており、胸は規則正しく上下していた。成長してからは寝姿を見る機会がなかったため、雪兎の寝顔は貴重だ。もっと近くで見ようと思い、ソファの横に膝をついてみる。いつもは大人の男性として格好いいのだが、寝ていると少し幼くみえるから不思議だ。
寝汗なのか額にかかっている前髪をはらおうと手を伸ばした時、パシりと手首を掴まれ気付けばソファに押し倒されてしまっていた。いつもは優しい雪兎が鋭い目でこちらを見下ろしていることに優月は思わず体を強ばらせる。嫌われたかと一瞬思ったが、すぐに雪兎の目はいつものように優しい色合いに戻っていた。そして小さくため息をつくと「ごめん、寝ぼけてた」と言ってそのまま優月を抱きしめる。
「ごめんなさい。急に私が触ろうとしたから…」
「いや、優月は悪くない。…ごめん、赤くなっちゃったね」
雪兎に掴まれていた部分が少し赤くなってはいたがそれくらいどうってことはない。それよりも治療するかのように手首に何度もキスするのをやめてほしい。正直くすぐったい。
「もう大丈夫だよ」
「そう?」
彼はそのまま手首から腕、肩、首、そして唇へとキスを落としていった。優しく触れるだけのキスがくすぐったくて少し笑ってしまう。
こちらを見つめる雪兎の瞳はまるで飢えているかのように熱を帯び始めていた。
「優月…」
「ん……」
今度は深くキスをしてくる雪兎を一生懸命に受け入れる優月。絡み付いてくる彼の舌も、抱きしめてくる彼の腕も全てが熱くて心も体もぽかぽかしてきた。息が苦しくてすがり付くように彼の背中に腕を回すと、汗で濡れたシャツが張り付いているようだった。
「優月…好きだよ…」
キスの合間に囁きながら彼の手が優月の太ももへと伸びる。白くて滑らかな肌を楽しむかのようにゆっくりと撫でながら制服のスカートを少しずつめくりあげていく。もう片方の手はシャツの下へと侵入しており、臍から徐々に膨らみへと手を伸ばそうとしていた。
彼に触れられている場所全てが熱い。
「ゆき、くん…」
彼の動きを止めようと腕を掴むが中々止まってくれない。ならばと彼の胸に手を置いて押しのけようとするが逆に両手を掴まれて頭上で固定されてしまった。
「ゆきくん……ごめんなさい」
「ぅ……っ」
どすっという鈍い音とともに呻き声をあげた雪兎の下から素早く這い出た優月。一応加減をして鳩尾の辺りを膝で突いたのだが、顔をしかめている彼をみると少し不安になってきた。
「ゆきくん、大丈夫?」
「優月がキスしてくれたら大丈夫になるかも…」
「もう……」
そんな冗談を言えるのならば鳩尾の方は心配しなくてもよさそうだった。優月は小さくため息をつくと彼の額にそっと手を当てた。汗でしめった肌からじんわりと熱が感じられる。体温計がなくても熱があるのは間違いないだろう。額に手を当てられた雪兎は気持ち良さそうに目を細めていた。
「ソファじゃなくてちゃんとベッドで寝ないと。歩けそう?」
「大したことないよこれくらい。でも風邪をうつしたら大変だから、暗くならないうちに優月は帰って」
「でも…」
「いいからいいから」
そう言って雪兎はソファから立ち上がると優しく、でも有無を言わさずに優月を玄関へと導いた。
「送ってあげられなくてごめんね。気をつけて帰ってね」
優月の頭にキスが落とされ、手を振る雪兎を心配気に見つめながら静かに扉は閉まった。
できれば彼がきちんとベッドで休むところを確認したかったが、何となく優月が寝室に入ることを拒んでいるように感じたため無理強いはできなかった。今まで家に上がらせてもらうことはあっても寝室に入ったことはない。確かに恋人であってもプライベートな空間は踏み入れられたくないだろう。きっと寝室が彼にとってのそれなのだ。
けれどもやはり心配なものは心配なわけで…。子供の時はともかく、大きくなってから雪兎が体調を崩すのは珍しい。それに今は一人暮らしのため看病してくれる人がいないのは不便かもしれない。薬や食料はあるのだろうか。考え出すときりがなくて、気付けば近くのコンビニで飲み物や食料等を買って戻ってきていた。
インターホンを鳴らすのを迷った結果、熱のある彼を歩かせるのは申し訳ないため合鍵でそっと部屋に入る。彼の容態をみて、渡すものを渡したらすぐに帰ろう。どきどきする胸を落ち着かせるために深呼吸しながら廊下を進んだ。何故こんなにも緊張しているのか。それはきっと彼に嫌われるのが怖い…からだと思う。帰り際に感じた彼からの拒絶。おそらくそこに深い意味はないのだと分かってはいる。これは優月の方に問題があるのだ。普通の女の子ではないことに引け目を感じており、いつ雪兎に捨てられてしまうのかと怯える自分。彼のことを本当に大事に思うのならば身を引くべきなのだろう。それができない自分がズルくて醜い。優月はまるで沼にずぶずぶと沈んでいくような錯覚がした。いっそのこと彼も一緒に沈んでくれたなら…。そんな考えが思い浮かんだ優月はそれを振り払うかのように頭をふった。
「しっかりしないと…」
俯いていた顔をあげて、そっとリビングへと入る。もしかしたらと思って一応ソファの方へと向かったが彼はいなかった。ちゃんと寝室で休んでくれているのだろう。
先程購入したドリンクを1本だけ取り出し、残りの食料品等は冷蔵庫にしまうと廊下へと出た。寝室の前に着き軽くノックをするが返事はない。さて、どうするか。勝手に入るのはまずいだろう。でも彼の様子は気になるし、薬や水分もちゃんと取っているのかわからない。薬を飲むなら食べ物を用意する必要だってある。優月はぐるぐると考えた結果、扉に手を掛けた。嫌われるのは怖いけれど、雪兎の体調の方がずっと大事だ。
ガチャリと音を立てて開くと中は薄暗かった。そっと体を滑り込ませるように入るとすぐにベッドが目に入る。そのまま足を進めようとして…優月はぴたりと止まった。違和感を感じる。焦点を当てていたベッドから目を逸らして見つけたのは壁から天井まで貼り付けられている大小様々な写真。薄暗くても分かるその写真に写っているのは優月だった。
先程とは違う緊張が走りバクバクと心臓がうるさい。何だろう、何だろうこれは。
たくさんの自分に囲まれているのに、どの写真も目線はこちらには向かっていない。撮られた記憶もないため、おそらく盗撮だろう。何故という疑問とともに、そういえば昔に観たドラマに出てくるストーカーがこの部屋と同じようなことをしていたような気がする。では雪兎はストーカーなのか。いや、しかし彼は優月の恋人だからストーカーではないのか?でも恋人だからといって盗撮は許されるものではないのでは?冷や汗をかきながら固まって動けないでいると、不意に背後から誰かに抱きしめられた。振り向かなくても分かる。
「帰りなって言ったのに。悪い子だね、優月」
息が触れるほどの距離で彼が囁いた。吐息が熱い。
「びっくりしたかな?ごめんね」
彼は何がおかしいのかくすりと笑うと、優月の背を押してベッドへと寝かせた。そして抵抗できないでいる優月に覆い被さると彼女の髪をゆっくりとすき始める。
「これらはね、最初は何となく真似してみただけなんだ。興味本位というか…ね。もちろん本物には叶わないけど、意外と悪くなかったかな」
雪兎はまるで世間話かのように語りながら、今度は優月の頬を指でさすった。
「…どうして、こんな……」
「どうしてだって?」
何とか絞り出すようにして疑問を口に出すと彼はまたおかしそうに笑った。
「そんなの決まってるでしょ?優月のことを愛しているからだよ」
なぜそんな当たり前の事を聞くのかというように彼は笑みを深めた。
「あい、してる…?」
「そうだよ?僕は優月の全てが欲しくてたまらない。体も心も全部僕のものにしたいし、優月を僕だけで満たしたい。ねえ、知ってる?優月が僕の血だけを求めている時、僕はどうしようもなく歓喜に震えるんだ。もっともっと僕だけを求めて、依存して、そしてこの腕の中に堕ちてきてほしいってね…。そうしたら君はもう僕から離れられないだろう?」
どんよりと昏くなっていく彼の瞳から目が離せない。頬を撫でていた指は優月の口の中へと侵入し、彼女の鋭い歯を慈しむように撫で始めた。ほんの少し力を入れれば、その皮膚の下に流れる芳しい血が口の中に広がることだろう。優月は思わず喉を鳴らしてまった。
「欲しい?いいよ、全部優月のものだからね。その代わり優月を全部ちょうだい」
そう言うと彼は優月の顔中にキスを落とし始めた。そして空いている方の手でシャツの下へと手を伸ばす。まるで先程のソファでの出来事を再現するかのような展開に優月は慌てた。
「ま、待って…っ」
懇願するように叫べば、彼は不満そうな顔をした。だが手は止まっており、一応優月の意思を尊重してくれた…らしい。ほっと息をもらして優月は一杯になっていた頭を落ち着かせようとした。
雪兎から目をそらした先に見えるのは盗撮された優月の写真。盗撮の割には意外と綺麗に撮られていることに少しだけ感心した。最初はびっくりしてしまったけれど、これはつまり愛ゆえの行動。きっと普通の行為ではないだろうけど、そもそも私だって普通ではないのだ。それに彼の私に対する一種の執着のような感情は全然不快ではなかった。むしろ、ここにいていいのだと安堵感に包まれていた。
「ゆきくん、好き」
それだけで十分。
雪兎は嬉しさと安堵、そして切なさをないまぜにしたような顔で優月を見つめる。
「僕も好きだ」
雪兎の顔が近づいてきたと思った時には唇が奪われていた。触れるだけの優しいものではない荒々しいキスはすぐに優月の息を乱れさせる。
「ゆっ、きく、ん…。だめ…」
彼の体はまだ熱く、体調が悪いことを思い出させた。これ以上は駄目だと引き離そうとすると、彼はまた不満そうに顔をしかめる。
「優月…」
「ちゃんと休まないと駄目だよ」
「これぐらいすぐ治る」
「だから駄目だって。ほら、汗で体が冷えるよ。着替えないと…」
「まだこれから汗かくんだからいいよ」
そう言うと彼は優月のシャツのボタンに手をかけた。一つ、二つと外されていくボタンを見て、慌てて止めに入る。
「な、何してるの?」
「んー、運動をしてたくさん汗をかけば風邪が治るって言うでしょ?せっかくだから優月に協力してもらおうかなと思って」
彼は楽しそうに笑うとシャツを押さえていた優月の手を取り、素早くボタンを外す。はだけた胸元からは水色の刺繍とフリルが施された白のブラが見えていた。
「あ、汗をかいたからって治るわけじゃないよ…?」
「やってみないと分からないでしょ?」
味わうかのように雪兎の指が鎖骨を優しく撫でていく。それがとても艶かしく感じられて優月の顔は真っ赤になっていた。
「それとも優月は僕のこと嫌い?」
そんなことはない。そんなことはないけれど…。
戸惑いを隠せずに視線をさ迷わせていると頭を撫でられた。優月を落ち着かせるため…実際には勢いで丸め込もうとしているだけなのだが、まんまと騙されている優月は少しだけ力を抜いた。
優月は雪兎のことが好きで、雪兎は優月のことが好き。雪兎なら優月にひどいことはしないだろうし、いつかは彼と深い関係になりたいと思うけれど如何せん心の準備ができていなかった。
「好きだけど…でも、まだ…」
「そっか…じゃあ仕方ないね」
諦めてくれたと安心したのも束の間、彼は優月の口の中に指を入れると鋭い歯に押し当てた。皮膚を突き破る感覚とともによく知っている味がじわりと口腔内に広がっていく。優月は無意識の内に雪兎の手首を離すまいと掴んでいた。
「大丈夫だよ、優月。怖いことなんて何もないから。全部僕に任せて?」
よしよしと髪を撫でながら雪兎が何かを言っていたが、もう優月の耳には届いていないようだった。舌を絡め、雪兎の指から血を絞り出すように甘噛みをしつつ酔いしれている。彼女は今、本能のまま雪兎を求めていた。
「それでいいんだよ」
赤く染まった瞳を見つめながら雪兎はうっとりと笑ったのだった。
資料を淡々と読み上げていくだけの講義を聞き流しながら、雪兎は襲いくる眠気にたえつつ欠伸を噛み殺していた。時折離れた席に座る女子達から視線を送られて煩わしかったが、話しかけたり接近してきたりはしなかったため無視をきめる。がしかし、雪兎の隣に誰かが座ってきたことによって周囲の視線がより煩わしくなってしまった。
「ここ座ってもいい?」
ヘラリと笑いながら荷物をおろした彼、朋矢は雪兎が嫌そうな顔をしているのも気にせず鞄から筆記用具を出していく。また、こちらに熱い視線を送ってくる女子にはひらひらと手を振り返していたため雪兎はさらに不機嫌になった。
「…お前、向こう座れよ」
「えーむりむり。女の子は可愛いけど修羅場にはあいたくないし?」
「手を出しすぎるからだろ」
「一応相手は選んでるけどね~」
ははっと笑う朋矢を睨み付けてため息をつく。どうせ何を言っても変わらないのだから相手にするだけ無駄だった。
「そういえば風邪引いたんだって?」
「もう治った」
「それはよかったよかった。んで、妹に何したの?」
頬杖をついてこちらを見る朋矢はへらりとしていたが目は笑っていなかった。
「別に何も」
「ふ~ん?ま、俺も身内の恋愛に首を突っ込みたくはないんだけどね。大事にしてくれるならそれでいいんだよ」
「言われなくても」
「くれぐれも犯罪まがいなことはしないでくれよ~?」
いい加減煩わしくなったため睨むと朋矢は肩をすくめて前を向いた。
言われなくても大事にするし、そもそも女子を弄ぶ朋矢に言われる筋合いはない。犯罪まがいなことは…まあ余程のことがない限りしないつもりだ。既に盗撮という立派な犯罪を犯していることは棚に上げて雪兎は開き直っていた。
今さら彼女を手離すことなどできるはずがない。だからもし彼女が離れようとするのならば、雪兎はどんな手を使ってでも優月を縛り付けようとするだろう。
必ず、絶対に。だから彼は願う。
早く僕のところへ堕ちてきて、と。