婚約破棄の黒幕
軽い気持ちで読んでいただければと思います。
「エミリー。……君には申し訳ないが、君との婚約を破棄してもらえないだろうか」
目の前で、決まり悪そうに目を伏せたターナーを、エミリーはじっと見つめた。
(短くはない付き合いだったけれど。
終わる時は、こんなに呆気ないものなのね)
幼い頃に家の間で婚約が調い、今まで長い時間を一緒に過ごしてきたターナーに、エミリーは頷いた。
「ターナー様、承知致しました。元より、ターナー様の方が家格も上にございます、私に拒否権はございませんわ。
……一応、ご事情を伺っても?」
「真に愛する女性を見つけたんだ。
彼女は貴族ではなく平民の出なのだが、しっかりしている君とは違ってか弱く繊細で、僕が守ってやらないといけない。そう強く感じたんだ」
どこかうっとりとするような表情を浮かべたターナーに対して、エミリーは呆れたように小声で呟いた。
「まあ、それはいったい何人目でしょうか」
「ん、今何か言ったかい?」
「いえ、何でもございませんわ」
エミリーは小さく咳払いしてから続けた。
「左様でございましたか。
もうご両親にはそのことを伝えていらっしゃいますの?」
ターナーの顔に、明らかな動揺が走る。
「い、いや、まだだ。
まず君に伝えてからと思ったのだが、これから説得するさ。
それから、もちろん、慰謝料はきっちり支払うよ。君に贈ったその婚約指輪も、慰謝料の一環に充ててくれ」
エミリーは静かに頷くと、先日彼から贈られた、左手薬指に光る大きなダイヤの指輪をちらりと見やってから口を開いた。
「……差し出がましいかもしれませんが、お相手の方の素性は確かなのですか?」
ターナーはむっとしたように、エミリーに返した。
「僕は彼女のことを愛しているし、彼女も僕のことを愛している。確かに彼女は平民で、歴史ある貴族の家柄ではないけれど、それが何だっていうんだ?」
エミリーは静かに溜息を吐いた。
「承知致しました。
……それでは、もう貴方様と会うこともきっとございませんわね。ご機嫌よう」
最後にターナーに優雅な一礼をして、くるりと後ろを向いたエミリーは、振り返ることなくその場を後にした。
ターナーは、エミリーのすっと背筋の伸びた、艶のある金髪が輝く後ろ姿に、美しいエミリーを手放してしまったことに一抹の惜しさを感じつつも、その姿を見送ったのだった。
***
エミリーが屋敷に帰ると、兄のジェイクとその親友のヒースが応接間で談笑していた。
「エミリー、お帰り。今日は少し遅かったね?」
「ただ今帰りました、お兄様。
……先程、ターナー様に呼び出されて、婚約破棄されたところですの」
「何だって!?」
エミリーを溺愛しているジェイクの顔に怒りが浮かぶのを、ヒースが窘めた。
「……ジェイク、君だって、いくら彼の家格が君の家より上だとはいえ、エミリーを彼などに嫁がせるのは惜しいと言っていたじゃないか?」
「まあ、無論そうなんだが。
それでも、可愛いエミリーに、そんな仕打ちをするなんて……」
元々が、幼いターナーによる、エミリーへの一目惚れをきっかけとした婚約だった。ターナーが親に頼み込み、エミリーと婚約する運びになったのだ。エミリーの意思にはお構いなしに調った婚約だったけれど、エミリーが、それでもターナーに歩み寄ろうと努力している姿を見ていただけに、ジェイクはターナーのことが許せなかった。気の多いターナーに、女性の影が見えても辛抱強く耐えていたエミリーが、あまりに哀れに思われた。
けれど、エミリーはそんなジェイクの心配をよそに、明るくすっきりとした顔をしていた。
「お兄様、もう終わったことです。私は納得していますので。
それに、ヒース様が経営なさっている興信所のお世話にもなって、ターナー様の浮気の裏も取れましたし、いよいよ彼に愛想を尽かしたところでしたから」
「それならいいんだが。
……ヒース、君、変わった事業もしてるよな」
「まあな。長男の君とは違って、僕は次男だから、家は継げない。自分の事業を興すしかなかったからね」
ヒースはやり手の事業家として、近年頭角を現している1人だった。さらりと流れる黒髪に、強い黒曜石のような黒目をした、かなりの美男子である彼を狙っている令嬢も多いという。当の本人はそんな令嬢方にはまったく無関心らしく、彼に女性の影はなかったけれど、付き合いの長い親友の妹であるエミリーのことは、昔から可愛がっていた。
「ヒース、君の興信所って、どんな案件を扱ってるんだい?
規模も急拡大してるって聞いてるし、随分評判になって、繁盛しているらしいじゃないか」
「人の調査に関することなら、何でも。
婚約者の浮気を疑った調査の依頼とか、最近すごく多いよ。別れさせて欲しいなんていう依頼もあるしね」
「私がヒース様のところの興信所に依頼したのも、ターナー様の素行調査でしたの。
……あの方、今までに何人もの女性と浮気なさって、お相手の女性を泣かせていましたのよ。いくら、家格が高くて見目が良いからって、人としてどうかと思いますわ。
私ももう限界でしたから、慰謝料を受け取ってお別れできることになって、せいせいしておりますの」
晴れやかな表情で微笑むエミリーの頭を、ヒースは優しく撫でた。
「今まで、よく辛抱したね」
「はい。
……長年婚約していたターナー様から婚約を破棄されて、もし私の落ち度とみなされたら、この家の名前に傷を付けてしまうかもしれません。それに、私自身も傷物として見られるでしょうし、まともな縁談を見付けることは、今後きっと難しくなりますわ。それが怖くて、これまで我慢していましたの。
でも、ヒース様にご相談して、興信所で浮気の証拠も押さえていますし、ターナー様自身、自らの心変わりによる婚約破棄を認めていらっしゃるので、少なくとも、家に迷惑を掛けることはなさそうです。もう、それだけでも十分だと、今はそう思っています」
ジェイクはエミリーの言葉に頷くと、ヒースの方を向き直った。
「ヒース。……エミリーは、君も知っての通り、とても朗らかで美しい、よく出来たいい子だ。兄の欲目を除いてもね。
君には浮いた噂はないけれど、エミリーのことをどう思う?
僕には、君以上にエミリーに相応しい相手はいないように、そう思えるんだがね」
ヒースの頬に、さっと赤味が差す。エミリーも、恥ずかしそうに目を伏せた。
「エミリーは、僕にとって理想の女性だよ。実のところ、僕は今まで、エミリー以外の女性はまったく見ていなかったんだ。彼女が婚約していると知っていてもね。
……婚約破棄したばかりの君に伝えてよいか迷っていたけれど、もし君さえ良ければ、僕と婚約してもらえないか?」
「まあ、ヒース様。本当に、私でよろしいのでしょうか?
私で良かったら、喜んで」
ジェイクは、3人で会っている時のヒースとエミリーの雰囲気から、2人の気持ちを察していたのだった。幸せそうに頬を染める2人の様子に、ジェイクはにっこりと大きく笑った。
***
ジェイクが気を利かせて、ヒースとエミリーの2人を応接間に残して席を外した。
エミリーが、ヒースにはにかむように微笑み掛ける。
「ターナー様のことで悩んでいる私の相談に、ヒース様が乗ってくださるようになってから、少しずつ、私もヒース様に惹かれていたのです。婚約している身でしたので、気持ちを抑えなければと、自分に言い聞かせていましたが。
……ターナー様から婚約破棄されて、今日は心から安堵しましたわ。それに、ヒース様と婚約できるなんて、夢のようです。
ヒース様が興信所を始めてくださったのも、確か、私がターナー様の浮気の疑惑をぽろっと口にしてしまったのがきっかけでしたよね?」
「そうだね。君のような悩みを抱えている令嬢が多いと知って、興信所を始めたからね。ある意味、興信所の事業の成功は君のお陰だよ。
……事業より何より、ターナーが幾度も浮気している事実に腹が立ったけれど、それで君の気持ちが彼から離れていったのだから、僕にとっては幸運だったのかもしれないね」
「ところでヒース様、1つ気になったことがあるのです。
ターナー様が今愛していらっしゃるという女性のことも、ヒース様のところの興信所で調べていただいたのですが、そうしたら、その方が名乗っている名前が、どうも偽名らしいのです。
平民で、貴族のように出自がそもそも掴みづらい方が、偽名を騙る必要もないでしょうし、どうにも不自然に感じるのです。ヒース様、どう思われますか?」
「……それはおかしいな。わざわざ偽名を騙ってターナーに近付いたというのなら、その女性自身に本名を名乗れない何らかの事情があるか、または彼を陥れようとしたり、彼と君との仲を割こうとした可能性もある。彼女の行動の背景を調べてみようか?」
エミリーは首を横に振った。
「いえ、もう過ぎたことですから。
ただ少し、気になっただけで。おかしなことを聞いてしまってごめんなさい。
……私、ヒース様に婚約を申し入れていただけるなんて、本当に嬉しくて。
ふつつか者ではありますが、どうぞ、末永くよろしくお願いいたします」
ヒースは、その美しい顔に愛しげな笑顔を浮かべると、ターナーとの婚約指輪が外されたエミリーの左手に、そっと自分の手を重ねた。
「……僕の方こそ、君と婚約できるなんて、まるで夢を見ているように幸せだ。
僕は、君だけを見て大切にすると誓うよ」
***
ヒースが帰りの馬車に乗り込み、屋敷から帰って行くのを、エミリーとジェイクが並んで見送っていると、エミリーがぽつりと呟いた。
「やっぱり、お兄様でしたのね」
「ん、何が?」
「さっきはしらばっくれていらっしゃいましたけど、お兄様も、ヒース様の興信所を使っていらしたのではなくて?
……ターナー様と、私の婚約を破談にするために」
ジェイクは一瞬口を噤んでから、エミリーをじっと見つめた。
「君は聡いからね。
まあ誤魔化すこともできたのかもしれないが、君には正直に話しておこう。
ああ、その通りだ。可愛い君を、あんな男にやるなんて、僕には許せなかった。今後君が苦労するのが目に見えていたからね。いくら向こうの家格が上だとはいえ、そのせいでこの婚約をこちら側から断ることすらできないことを、ずっと悔しく思っていたよ。
ターナーが、浮気を繰り返しながらも君のことを手放さずに、君に婚約指輪まで贈った時、僕はかなり焦っていた。……君が想像する以上に、僕は以前から君のことを心配していたんだよ。
君のような素敵な女性がいながら、脇見をやめない彼を僕は見限って、1つ計画を仕掛けたんだ。今まで彼について調べた結果から、彼が好む容姿や特徴をすべて兼ね備えた女性を用意して、彼に近付かせたんだよ。その結果がこれさ。
……どうだい、こんな兄に幻滅したかい?」
「いいえ。ターナー様から形だけの婚約指輪を贈られた時、私の心はすっかり彼から離れていましたもの。
少し驚きましたが、むしろ、お兄様がそこまでしてくださって嬉しく思いますわ。こんなことをするとしたら、ヒース様か、お兄様しかいないだろうとは、薄々感じておりました。
……私、これでも、長年のよしみでターナー様に忠告しましたのよ?これからきっとご両親に、その彼女を紹介なさろうとしているのでしょうから、彼女の素性はわかっているのかと確認したのです。
それでも、聞く耳すら持っていただけませんでしたから。真の愛という言葉も、幾人もの女性に語っていたようですし、思慮が浅くて気の多い彼と結婚せずに済んで、本当によかったですわ。
私を彼から解放してくださって、ありがとうございます」
「僕としても、ヒースと君が想い合っている姿を見ていて、歯痒かったからね。
それにヒースなら、君のことを安心して任せられるからな」
ジェイクが優しい手付きでエミリーの髪を撫でると、エミリーも嬉しそうに微笑んだ。
***
ターナーが身勝手に、自ら望んだはずのエミリーとの婚約を破棄したと知って、ターナーの両親は怒り心頭だった。しかも、ターナーが心を決めたという女性は、どこかに姿を消してしまったという。
彼の両親は、そんな浅薄な行動をした彼ではなく、次男に家督を継がせることに決めた。
傷心のターナーは、雲隠れしてしまった彼女を見つけることもできず、女性の表面的な部分しか見ていなかった自分の愚かな行動の結果に打ちひしがれながら、我慢強く長い間自分に尽くしてくれた美しいエミリーのことを、恋しく思い出した。
彼女に詫びに、そしてできることなら自分との復縁を願って、その後彼女の元を訪れたターナーだったけれど、さらに美しく洗練されたエミリーの横には、ヒースがぴたりと寄り添っていて、幸せそうな2人の間にターナーの入り込む余地はまったくなかった。