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第陸集:病

「ここは……」

「○○ちゃん起きなさーい。もうお昼ご飯の時間になっちゃうわよー?」

「お、お母さん……?」

「どうしたの? 私、顔に何かついてるかしら」

「え、いや、でも……」

「○○寝ぼけてるんじゃないの? 昨日遅くまで本読んでたみたいだし」

「お、お兄ちゃん⁉」

「まったく、年頃の娘が彼氏も作らず夜な夜な読書って、枯れすぎじゃね?」

「○○お兄ちゃんも……」

「お姉ちゃーん? 起きてこないと一緒にお買い物行ってあげないよー?」

「○、○○まで、どうして……」

 死んだはずじゃ……。

 わたしは長い夢を見ていたの?

 本当は、本当は事故なんかなかったってこと……?

「よかった……。みんな生きて……」

 そう呟きかけた次の瞬間、瞬きほどの速さで愛する家族が音を立てて崩れ去って行った。

 燃え盛る部屋、焦げ落ちるカーテン、溶けて行く家族の顔、灰になって飛んで行く思い出たちはまるで白黒映画。

 喉が焼けるような熱さの原因は、油のような可燃性のものが焼ける臭いと刺激。

 バラバラと音を立てて崩壊していく中で涙越しに見えたのは、次々と復元されていく崩れかけていた遺体。

 突然の沈黙とともに鮮明になった空間には、細長い通路にたくさんの座席が並んでいた。

 ここは――飛行機の中だ。

 肌寒い、いや、凍えそうだ。

 どうやら飛行機は凍っているようだ。

 寒い。

 肌がヒリヒリする。

 煙のせいなのか、何か他の力のせいなのか、うまく目を開けることができなくなってきた。

 寒い、痛い、暗い、怖い。

 幸福が煤になっていく。

 降り積もる塵がこんなにも黒いなんて。

 喉が焦げ付く。

 再び映像の主導権を取り戻した時には、思うように声が出なくなっていた。

「ま、待って! わたしも連れて行って! お願い、お願い! なんで魔法が使えないの⁉ わたしは何のために強くなったの⁉ お願い、行かないで! 行かないでよ!」

 声になっているのかすらわからない。

 もう、なにも感じない。

 わからない。

 心だけが、泣き叫んでいるようだ。


「……さま、ギフトさま!」

「ギフト! ギフト!」

(わたしの、名前……?)

「ギフト! ああ、気がついたのね! よかった、よかった……」

 両親と兄妹を殺した殺人鬼が、ベッドに横たわるギフト(わたし)の頭上で泣いている。

(こいつは、でも、ファージ……)

「あ、ああ……、夢か」

「身体、どこか痛いところはない? 苦しくない? 吐き気は? 頭痛は? 大丈夫なの? ギフト?」

「あ、え、えっと……、大丈夫みたいです。ただの悪夢ですよ」

「そう……」

 ファージは今までに見たことのないくらい悲しそうな顔をしていた。

 その目にはいつから泣いていたのかわからないほどの充血が見て取れた。

 カノンは薬湯を用意しているのだろうか。

 薬のような鼻をつく臭いが漂ってくる。

 キールは外で何かを指示しているようだ。

 聞いたことのない怒鳴るような声。

「わたしは……、どのくらいうなされていたのでしょうか?」

 ファージは言いにくそうに、困ったように微笑んだ。

「三日間よ」

「……は?」

「あなたは三日間ずっとうなされていたのよ。本当に、本当に戻ってきてよかった……。救えて良かった……」

 ファージの手はボロボロだった。

 爪にはなんの色も残っておらず、それどころか無残に割れてしまっている。

 何度も何度もわたしを助けようと強い魔法を使った痕が、無数の傷となって残っていた。

 ベッドの脇に転がるいくつもの儀式道具がその壮絶さを物語っている。

 このひとにとってギフト(わたし)はなんなのだろう。

 自分に何が起こったのかはよくわからないが、あまりいいことでは無いのだろう。

(なぜ助けたんだ。なぜ泣いているんだ。どうしてそんなに愛おしそうにわたしを見つめるんだ)

 また、心が混乱しそうだった。

「もしかして……、わたしは呪われたんですか?」

「ふふ、あんたって本当にストレートに聞くわよね。その通りよ、あなたは〈心壊(しんかい)の呪い〉という呪術をかけられたのよ」

(あの映像は……、呪いのせいだったのか……)

 ギフトを救うためにかなり頑張ったのだろう。

 いつもとは違って声に覇気がないファージの口から出たのは、あまり聞き覚えのない呪術名だった。

「心壊の呪い?」

「そう。呪いの中でもかなり難しくて、呪術者側にも大きな犠牲を必要とする闇の魔術よ」

「大きな犠牲って……、動物を供物にするとかですか?」

「いいえ、ちがうわ。心壊の呪いに使うのは自分の身体の一部よ」

「えっ……」

 ギフトはゆっくり布団をめくり、思わず自分の身体を見た。

 自分の身体をたかだか気にくわない奴を呪うためだけに切り離すなど、ギフトには考えられなかった。

「身体ならどこでも使えるわ。腕だろうが、足だろうが、眼球だろうがね。内臓なら効果は桁違いよ。あなたにかけられた呪いはあまりにも強かった。おそらく、肝臓を半分使ったか、腸をいくらか切り取ってるわね」

「自分の身体を切り開いてまで、そのひとは……、わたしを殺したかったってことですか?」

 これは鋭利ではない、錆びついたアイスピックのようなもので背筋を撫でられたような、気持ちの悪さがある悪意だ、とギフトは思った。

「殺す、というよりも、苦しめて苦しめてあなたが音を上げるのを待っていると言った方が近いかしら。ギフトが『いっそ殺して』と懇願するのを待っているんだわ」

「はは……、ファージさんよりタチの悪いやつっているんですね」

 死への懇願を待つ異常者。

 そこまで憎まれるなんて、運命の相手に出会うよりも稀有なことなのではないだろうか。

「あらー、わたしなんて可愛いもんよ。とにかく、あんたを呪ってきた奴はわたしが責任を持って殺すわ」

「わぁ、殺すんですね……。でも、なんでわたしが? こんなことされるほどその人を苦しめてしまったんでしょうか。知り合いなんてまだほとんどいないのに」

「まぁ、この世界でも有数の名家に突如現れて贅沢な生活を送っているからかしらね? あんた顔も可愛いし、着てるものも良いものばっかりだし」

「って、それ、わたし全く悪くないですよね?」

(……お前のせいじゃねぇか)

「まぁまぁ、どんな世界にも(ひが)んで逆恨みしてくるやつはいるってことよ! はぁ、びっくりした。ご飯食べれそう? もうすぐ朝だからお風呂にでもゆっくり浸かってそのまま起きちゃいなさい」

「はーい」

 腑に落ちない回答だったが、無事だったのだからもうどうでもいい、と、ギフトは考えることを諦めた。

 カノンがくれた薬湯を飲んだらホッとして気が抜けたのか、一気に疲れが現れた。

 だるい身体を引きずってベッドを這い出し、バスルームへと向かった。

(はやくお風呂に入ろう)

 妖精たちは呪われながら寝ているギフトに絶えず魔力を補給し続けてくれたらしく、疲れた顔で微笑むと、ベッドで崩れ落ちるように寝始めてしまった。

(もしかして……、みんな三日間寝てないの?)

 バスルームの手前でよろめいたところをゴブリンたちに支えられ、そのまま担がれながら大浴場へと向かった。

 ギフトは後ろを歩くカノンにそれとなく聞いてみた。

「お屋敷のみなさん、その、もしかして、わたしが起きるまでずっと……」

 カノンはギフトの気持ちを察し、優しく微笑みかけた。

「わたしたちオーガやゴブリンといった種族は体力自慢で有名なのですよ。徹夜だったら十日間は余裕でできます。だからお気になさらないでください。それよりも、ギフトさまが無事でいてくださったことが何よりも嬉しいのです」

 オーガという種族は、人間や魔法使い、魔女と比べて肌が赤みがかっている。

 カーテンが締め切られていた薄暗い自室では気づかなかったが、廊下はランプの輝きと朝焼けのおかげで明るい。

 そのため、よく見えてしまった。

 カノンの頬には何度も涙を拭った痕があった。

 ギフトは胸がいっぱいになってしまい、ただまっすぐ大浴場へ通じる廊下を見つめることしかできなかった。

 うつむいたり、カノンの微笑みに応えようと笑顔を浮かべたりしようものなら、容赦なくこの瞳は視界不良に陥るだろう。

「カノンさん、今日の朝ごはんは何が出てくるでしょうか」

 声が震えた。

 バレなければいい、と思った。

 話題はきっとあっている。

 平常時のギフト(わたし)なら、きっと朝ごはんを気にするだろうから。

「そうですねぇ、きっとギフトさまが大好きなダシマキタマゴとトンジルを用意してくださっていると思いますよ」

「わぁ、嬉しいな」

 ギフトは逃げるようにゴブリンたちから降りると、大浴場までの数歩を駆け出した。

 広い脱衣所へ入り、急いで扉を閉める。

 サンドブラストをほどこしてあるステンドグラス越しに、みんながわたしに頭を下げているのが見えた。

「あのひとたちはわたしのことを大事に思ってるんだ。ファージも、キールも……。でも、でも、わたしには忘れてはいけない、忘れたくない家族がいるの! いつか殺すって誓ったの、誓ったんだよ……」

 急いで服を脱ぐ。

 大浴場の扉を開けると、ギフトは身体も洗わずに浴槽へと飛び込んだ。

「う、う……」

 手のひらにあるものはお湯なのか、涙なのか、頭の中はかき乱されたようにぐちゃぐちゃになっていた。

 今はもう見慣れてしまったけれど、なんて幼く、弱々しい、小さな手なのだろう。

 自分一人守れやしない。

 みんなの前で泣けるほどの無邪気さもない。

 殺意で保ってきたプライドと生存理由があまりに脆く、儚いものになっていることに気づいてしまった。

「夢で数分前に見ていた家族の顔が、思い出せない。なのに、ファージの笑った顔もキールの優しい眼差しも、カノンさんのあたたかい声も何もかもが簡単に思い浮かぶ。わたしは、わたしは……」

(いっそ、いっそのこと……)

 ギフトが心の中で願望を言葉にかえそうになった時、大浴場の扉が勢いよく開かれ、鬼のような形相をしたファージが入ってきた。

 乾いた音が響き渡った。

 頬が熱い。

 きっと痛いのは一緒だ。

 ファージの手も、わたしの頬も。

「あんた、今何を考えてた⁉ しっかりしなさい! あなたの目標は何? わたしを殺すことでしょう? なんのために今まで頑張ってきたのよ! 簡単に諦めないで。わたしのこと、ちゃんと殺しに来なさい。自分の無力さに心が折れそうなら、もっと強くなればいいのよ。わたしはあんたが強く賢く逞しくなるためなら、望むものはなんでも与えてあげるわ。だから泣きたい時はただそれだけにしといて。泣くこと以外、しないでちょうだい」

 ファージは泣いていた。

 大粒のクリスタルのような涙は、もう止まることは無いのかと思われるほど、ポタポタとお湯の上に落ち続けた。

 ギフトはただただ言葉にならない声を上げて泣くことしかできなかった。

 それが自分の家族の仇に縋ることになっても。

 ファージの声は、今のギフトの世界の全てのように優しく響き渡った。

「ギフト、決して相手の思惑に乗ってはダメ。あなたが自死を願ってしまったら、その瞬間にあなたの心は相手の思考と繋がってしまう。あなたの心を渡してはダメ。あなたの心はあなたのものなのよ。だから隠しておかなきゃダメよ。そのために心は見えないのだから」

「うっ……、ひぐっ……、はい……、ううっ……」

 信じたい、と、直感で感じたものを信じる勇気が欲しい。

 そう、強く願った。


「……で、ママ、わたし素っ裸なんでそろそろ出てってもらっていいですか」

 弱みを見せてしまったが、ギフトに後悔はなかった。

 少しの恥ずかしさを、お風呂のせいにして、わざと生意気な言い方をした。

「あーらやだー、いっちょ前に女なのねー」

 ファージはいつもの調子に戻ると、お尻をフリフリしながら大浴場から出て行った。

「普通に歩けないのかな、あのおっさん」

 ギフトも自分が泣いていたことなど棚に上げ、もう平気で悪態をついている。

 立ち直りが早くなったのは、きっとファージの影響だろうが、それを認めるのが嫌なためについ悪態をついてしまうのだ。

「はぁ、なんだか余計にお腹すいてきた。さっさと出よーっと」

 ギフトは素早く頭と身体を洗うと、スタスタと大浴場を後にした。

 脱衣所ではいつもは妖精たちが塗ってくれる香油を、今日は自分で適当に塗ってタオルで軽く水分をふき取り、下着と用意されていた服を身につけた。

 どうやら今日は白い立ち襟シャツのチュニックに黒いフロッグ(ボタン)のカーディガン、下は臙脂色の短パン、足元は黒いタイツに猫足のスリッパだ。

 猫耳のカチューシャも置いてあったが、ギフトは無視することにした。

 脱衣所の扉をあけて廊下に出ると、そこには全く見知らぬ内装が広がっていた。

「あ、あれれー?」

 ここはどこなのだろうか。

 まさか、また転移でもしたのではないかと疑うほど、派手に模様替えがなされていた。

 全体的に焦げ茶色になっている。

 以前の床は白っぽい大理石に赤系の絨毯だったのに。

 今足元には絨毯ではなく、焦げ茶色のつるつるに磨かれた板間に琉球畳みが一直線に埋め込まれるようにして敷かれた廊下が広がっている。

(廊下に畳って……)

 金持ちがすることは本当によくわからない。

 いつから天井はアーチ状になったのだろう。

 長い金の縁取りが施された赤い布が、波打つ龍のように飾られていた。

 廊下の壁に沿うようにぶら下がっている極彩色のランタンはゆらりゆらりと優雅に揺れている。

 各扉の両脇にかかっている赤地に金で竜の模様が描かれている提灯はいつ買ったものなのか。

 所々に配置されている大きな白磁の壺や青磁の花瓶は?

 廊下に設置されている美しい朱色に原色で彩色された綺麗な木製のベンチの出処は?

 従業員の制服が東洋風の意匠を取り入れたものになっているのは何故?

 いつからここは世界が変わったのか。

「と、とりあえずリビングに行こう。場所は変わってないよね……」

(……あっれれー?)

 リビングの扉が引き戸になっていた。

 扉には商人の一族っぽい一行が丁寧な描写で扉に掘り込まれてる。

「中は……、あ、あぁ……」

 壁と天井に、白と青のタイルでモザイク画が施されていた。

 なぜここはあの大陸ではなくあの一神教の美術がとりいれられているのか。

 別に綺麗だからいいのだが。

 テーブルはどこかの高級大陸レストランのような、丸くてくるくる回る漆塗りの大きなものに変わっていた。

 椅子も一脚一脚に彫刻が施されており、ギフトの椅子だと思われるものには雅楽隊のような編成の天女が背面を彩っていた。

(……なんだあの二人の服!)

 時代と国を合わせないあたり完全にファージの趣味だった。

 キールもファージも豪華な漢服をモチーフにした服着ているようだ。

 ファージの胸元には鳳凰で、キールには龍の大きな刺繍。

 いつから王族になったのだろう。

 美しくて素晴らしい芸術性のあるものなら、なんでもかんでもミックスしてもいいと思っているのだろうか。

 なんとも節操のない光景だったが、自分が生まれ育ってきた日本だってあらゆるものをお祭りのように取り入れてきた国なので、ギフトはそっと心の目を瞑ることにした。

「おお! ギフト! 大丈夫か? もう身体は平気なのか?」

「あ、はいパパ。今はただただ内装に驚いています」

「ああ、これはぁ、心機一転っていうの? 気分転換に作り込んじゃったのぉ」

「ファージはセンスがいいからな!」

「あ、はぁ……」

 素敵かそうじゃないかで問われたら素敵だと答えるけど、いったいいつの間にやったのか。

 わたしはそんなに長い時間お風呂に入っていたのかな、とギフトは自分の手のひらを見つめた。

 指はべつにふやけていない。

 模様替えは魔法を使えばものの数十分でできるものなのだろうか。

 いや、ファージが変なのだろう。

 おそらく、優秀で素晴らしい技術を趣味に注ぎ込んでいるのだ。

「ギフトの部屋はもっと可愛いんだから! ご飯食べたらちゃんと見に行きなさいよね」

「あ、はい」

「よし! 家族そろったことだし、朝ごはんにしよう!」

「はーい」

 ギフトは気の抜けた返事をしつつ、席へと着いた。

 次々と運ばれてくる朝ごはんは、カノンが言った通りギフトの好物ばかりだった。

 ファージが旅しているときに買い揃えた料理本のおかげで、この違う世界でも遜色ない和食が食べられるのは本当にありがたかった。

 本日は寝込んでいたという事実が食欲に拍車をかけたため、ギフトは十二回もおかわりをした。

(いいねぇ、子供の身体は太らない)

 デザートが九龍球なところから見るに、ファージはだいぶアジアかぶれらしい。

 それが今回の呪い事件で爆発したのだろう。

 ストレス解消に身の回りを好きなもので固めたのだ。

「ごちそうさまでした。では、自分の部屋をみてきますね」

「超見て! 隅々まで見て! そして感じて! テーマは『昼は巡業ジプシー、夜は古代のマッドサイエンティスト』よ!」

「あー……、こんなにも意思の疎通が難しい事案は久しぶりですね」

「見たらわかるから!」

 ギフトはしぶしぶ引きつった作り笑いを浮かべながら二人に挨拶をして新しいリビングを後にした。

 だいたい、今いたリビングだってファージとキールが「食堂だと広すぎて距離を感じる」などと言い出し、最近改装した場所だ。

 あの二人はお金の使い方が大胆すぎるのではないだろうか。

 そう思いながら自室……、だと思われる扉の前に到着した。

「まさかの扉からかー! 扉すら前の部屋の面影がないのかー!」

 色とりどりの磨りガラスが埋め込まれた厚めで焦げ茶色の木製の二枚の引き戸。

 取手はまさかの金。

 掴む場所が可愛らしい猫の形になっている。

 もうどうにでもなぁれ、という気持ちでギフトは扉を開いた。

「……ふぁー」

 焦げ茶色の宇宙に瞬く極彩色の星々。

 そう表現するしかないほどの色の洪水。

 クッションひとつとっても色鮮やかに牡丹や南天の実が描かれていた。

 部屋に充満している木と薬草の香りは大変好ましいものだ。

 壁沿いに設置されている木製の渋い薬品棚や百味箪笥は、まさにギフトの好みにストライクだった。

「くっそう……」

 ファージはギフトの好きなものをここまで熟知しているのか。

(悔しい。悔しいが、好きだ、この雰囲気!)

 ベッドは部屋の奥にある一段高くなった小上がりの茶室のような畳敷きの場所にあり、薄手の紺碧の布に金糸銀糸で桜と鶴の刺繍が施された天蓋までついている。

 床の間には掛け軸ではなく桜色に四季折々の刺繍が施された本振袖が飾ってある。

 いったいいくらするのだろうか。

 部屋の床には大小様々なペルシャ絨毯が机の下や窓の下に敷かれている。

 カーテンは真紅のベルベットに金のタッセルがいくつも揺れ、捲った内側の生成りのカーテンには十二単を着た日本のお姫様がレースで表現されている。

 ところどころキラキラ輝いているので試しに噛んで見たら、それらのビーズはすべてダイヤモンドで出来ていた。

 インテリアとして置かれている小瓶はアンティークの香水瓶だ。

 鼻に近づけると、まだうっすらと香水の香りがした。

 本棚には所狭しと魔法や魔術、呪いに関する本が並んでおり、半分くらいの本がファージによって革で表紙がリメイクされていた。

 勉強机にも、お茶を飲むための小さめの円卓にも、琥珀と鼈甲で作られた彫刻作品が埋め込まれている。

 見上げれば優雅な天井。

 まるでランプが浮かんでいるようだ。

 夜になって点灯するのが楽しみだ。

「はぁ……、この部屋好きぃ……。でも絨毯とか高そうだから怖くて踏めないかも……。ただ、ありがとうという気持ちでいっぱいなのは事実。金額を考えると頭痛がしてくるけど……。さぁ、ここまで部屋が素敵なんだから、バスルームはどうなっていることやら……」

 ギフトは恐る恐るバスルームの扉へと手をかけた。

 まず、バスルームの扉は白いタイルとラピスラズリで彩られた引き戸に変わっていた。

 開けて見る。

 もうまともな言葉すら出なかった。

「ぽほ……」

 バスルーム内は扉と同じように白と青のタイルに、クラックガラス――ビー玉の内側にわざとヒビをいれたもの――が埋め込まれた麗しい空間になっていた。

 焦げ茶色の棚に設置された真っ白の洗面台には、真鍮の蛇口。

 トイレは前と同じで白で、木製の便座と蓋がついた洋式だ。

 ガラス戸で仕切られたお風呂は陶器の(どんぶり)のような湯船に変わっていた。

 真っ青な丼に金で描かれた龍と星々の輝き。

「ご利益がありそうなお風呂だなぁ……」

 ギフトは別に用を足したいわけではなかったが、とりあえずトイレに座って落ち着くことにした。

 こんなに豪華なものをあれこれと与えられ、正直、どうしたらいいかわからなかったのだ。

 何度もまわりから言われているが、『貴族らしさ』がまったく掴めずにいる。

 いい服を着て薄笑っていればいいのだろうか。

「うわぁ……、学校通うのめっちゃ不安になってきた。『貴族を舐めてるんじゃなくって?』とかいちゃもんつけられていじめられたらどうしよう。『貴族なのにそんなことも知らないの?』みたいなこと言われたら困るよ……。わたしは庶民なの、普通の家庭で育ってきたの。一眼レフを買った時も一ヶ月悩んで買ったの、分割で……。市販のお菓子とか食べてるだけで『あら、舌がお安いのね』とか言われたら泣くかもしれない。学校怖い……、友達の作り方がわからない……」

 ギフトは一時間もトイレから出てこなかった。


 コンコン、と扉がノックされ、ギフトは我に返った。

「はっ! はい!」

 正気を取り戻し、急いで開けると、小さな何かが勢いよくギフトの胸へ飛び込んできた。

「わああ! 元気になったんだね! 妖精ちゃんたち、わたしを助けてくれてありがとうね」

 妖精たちはキャッキャとはしゃぎながらギフトのカーディガンに潜ったり、髪をぐちゃぐちゃにして喜びを表現した。

「ギフトさまいらっしゃいますか?」

「あっ、カノンさんの声だ! いますいまーす!」

 ぐちゃぐちゃになった髪のままバスルームを飛び出すと、カノンは驚いたように目をまんまるにして駆け寄ってきた。

「これは……、どうかなさったんですか⁉」

「いやぁ、妖精たちが……」

 カノンは状況を把握してすぐに笑顔になると、ギフトを鏡台まで誘導した。

「妖精たちはギフトさまのおそばを片時も離れませんでしたから。きっと元気なギフトさまの姿に喜びが爆発したのでしょう。わたしも妖精の中の一人だったらきっと同じことをしたと思います」

「カノンしゃん……」

「うふふふふ。さぁ、髪を結い直しましょう。奥様がお買い物に行くとおっしゃってましたよ」

「ほほう、まだ何か買う気なのか……」

「あんなことがありましたから。きっとギフトさまに呪いよけの(まじな)いや呪いを弾く祝福をお買い求めになるんだと思います。いっぱいご購入なさってくださいね。カノンも心配でございます」

「カ、カノンしゃん!」

 今のわたしにとって一番の祝福はカノンさんの存在ですよ、とキザなセリフが思い浮かんだが、恥ずかしいので言うのは控えた。

「さぁ、かわいく出来ましたよ。お靴だけローファーに履き替えましょう。玄関でお色を合わせましょうね」

「はい!」

 カノンのおかげで頭の左右にお団子と細い三つ編みという、なんともチャイナ娘のような出で立ちになった。

 ファージがどんな格好をして待っているのやら、ギフトは心配でたまらない。

 カノンに続いて廊下をスタスタと進んでいく。

 前方にギフトの悪い予感を体現したような格好のファージが待っていた。

「ねぇねぇ、お部屋可愛かったでしょ! あんたああいう色味絶対好きよね!」

「はい、まぁ……」

 ファージは全体的に紫色だった。

 フロッグ(ボタン)のシルクのジャケットも、プリーツにスリットがはいったロングスカートも、ショートブーツも、ハンドバッグも、口紅もシャドウも、紫だった。

 刺繍も紫の光沢のある糸で施されており、もうどこからみても高級な茄子。

「何をそんなに主張したいんですか? 茄子ですか? 茄子なんですか?」

「なによー、いいじゃないの! 紫はあんたがいた国じゃ高貴な色なのよー! それに、わたし、紫が一番セクシーに見えるのよ。どう? 色気でむせかえりそうでしょ?」

「いや、もう茄子にしか見えませんが」

「あー! もう! 本当に可愛くないわね! ほら、さっさと行くわよ! 今日は大剣に乗りなさい」

「はーい」

 ギフトはカノンが用意してくれたローファーを履き、玄関から外へ出ると、自分の素敵な大剣をバングルから取り出し、ひょいっと乗った。

 ファージはというと、ギンギラギンの細工まみれの巨大な鉄扇に優雅に乗り込んだ。

「うわっ、まぶし!」

「ふふふん。リリーベル家の当主としては常に! いつ何時でも! 華やかでいないとね!」

「はぁ……、そうですか」

「さぁ、出発よー!」

「はーい」


 飛行すること十五分、目的の職人街へと到着した。

 比較的背の低い建物で構成された小さめの街だが、ギュウギュウに並んだ店や見物客で通路はごった返している。

「えっとぉ、目当ての店はもうすこし中の方ね。上を飛んでいっちゃいましょう」

「はーい」

 街の中央付近までやってくると、ファージの案内で目的の店の屋上へ着陸した。

 二階建ての建物だった。

 建物に沿うように付けられている階段を一階まで降りると、そこはどうやら美容院らしく、髪を整えている姿が見えた。

 店の正面に回ると窓から見える受付にいた男性がこちらに気づき、満面の笑みで扉を開けてくれた。

 ファージはその笑顔に応えるようにふわりと微笑むと、いつも通り優雅に挨拶をした。

「ごきげんよう」

「ファージ様! ようこそいらっしゃいました」

「お久しぶりね。今日はうちの娘の髪に祝福をお願いしにきたの」

「おお! お噂はかねがね! ギフト様ですね! やっとお会いできました! ギフト様、さぁさぁこちらへどうぞ。お話はよくファージ様とキール様から伺っておりますよ!」

(おお、なんか恥ずかしい……)

「こ、こんにちは……」

 ギフトは大歓迎を受けながら大きな鏡の前にある革張りの回転ソファへと案内され、ドキドキしながら席に着いた。

「私は光と水属性を使う祝福を専門とした魔法使いで、エルザと申します。よろしくお願いいたします」

「よ、よろしくお願いいたします!」

 エルザは壮年の優しそうな小太りの男性だ。

 ロマンスグレーの髪が似合っていてとてもかっこいい。

「ふふふ、緊張なさらなくて大丈夫ですよ。今日は私の魔力が練りこまれている染め粉を使って髪に祝福を施します。だいたい一ヶ月ほど効き目があります。ファージ様からギフト様の好きな色で染めるよう仰せつかっておりますが、何色がよろしいですか?」

「えっと……」

 なんと、ファージはギフトに色の選択権を委ねたらしい。

 黒に戻してしまおうか、とも思ったが、そうなると今の自分では鏡を見るたびに悲しくなってしまいそうだ。

(どうせなら、子供だし……。奇抜な色にでもしてみようかな)

「エメラルドグリーンってできますか? あの明るい色ではなくて、宝石のエメラルドみたいな深くて透明感のある緑色なんですが……」

「もちろんでございます! さすが、素晴らしい感性をお持ちですね」

「あ、ありがとうございます」

「では洗髪して少し毛先を整えてから染色していきますね」

「はい! よろしくお願いします!」

 ギフトは施術が始まってからは気持ちよくて気持ちよくてすっかり寝入ってしまった。

 美容院というものはどこの世界でも癒しスポットなのかもしれない。

 あのリズミカルに動く指によってほぐされていく頭皮。

 ちょうどいい温度のお湯で優しく梳かれるうっとりとした時間。

 染め粉の薬草臭がやけに心地いいのは、エルザの施術が丁寧だからだろう。

 だいたい二時間くらい至福の時を過ごしたギフトは、そっと肩を叩かれてやっと目を覚ました。

「ギフト様、いかがでしょうか」

「つ、つつ、艶々で綺麗……!」

 鏡の中にいる自分は、思わず自画自賛をしてしまうほど髪が輝いていた。

 深い緑色でありながらも、軽やかな透明感で、初夏の新緑のようだった。

「完璧です! ありがとうございます!」

「喜んでいただけて光栄です」

 施術用のソファから降りると、ファージが待つ待合室へ案内された。

 ファージは優雅に紅茶をいただきながら、他のスタッフと楽しそうにおしゃべりしていたが、ギフトに気づくととても嬉しそうな顔で拍手しだした。

「やだー! すごーい! 可愛いじゃなーい!」

「お、おお……」

「なに? 照れてんのあんた。すごく素敵な色じゃない。さすがエルザね、完璧だわ!」

「お褒めに預かり至極光栄でございます!」

 ギフトは褒められたことや、まわりのひとたちの自分を敬う態度がどうもむずがゆく、はやくお店を出たかった。

 そんなモジモジしているギフトを見て微笑むファージは、スマートに支払いを済ませ、一緒にお店をあとにした。

「ギフトは本当にそういう渋い色がすきよねぇ。あんた本当は中身おばあちゃんなんじゃないの?」

「ちがうわ! ピッチピチの女子大生ですよ」

「ははん! 現在進行形でお子ちゃまなのに何言ってんだか」

「うるさいですよ」

「うふふふふふふ」

「で、髪に祝福をするとどんないいことがあるんですか?」

「ああ、えっとねぇ。万が一あんたの髪を拾われて呪いの材料として使われたとしても、その呪いはギフトにはかからずに呪いを実行したやつに跳ね返るのよ。それに、別の方法で呪われたとしても、髪に通う魔力がしっかりと相殺してくれるわ」

「へー、便利ですね」

「でしょ? 月一で染めに来なきゃいけないのが面倒だけど、命の方が大事だしね」

「たしかに。次はどこに行くんですか?」

「次はあんたの背中、ちょうど心臓の裏にあたる部分に魔法陣を彫りに行くわよ」

――魔法陣を、彫る?

「……、いやです」

「いやって、だめよ。これが今日の本命なんだから」

「だ、だって、刺青なんてしたら温泉にはいれなくなってしまう……」

「あんた、ここは日本じゃないのよ。まったく別の世界。温泉なんて関係ないでしょうが。それに、魔法陣はあんたの身体に吸収されるから三日後には見えなくなるわよ」

「え、あ、へぇ」

「ほら、行くわよ」

「はーい」

 街の奥へとすすんでいく。

 どうやらみんなファージのために道を開けているようだ。

 いったい何で判断しているのかわからないが、貴族だということはわかるらしい。

 子供だとわからない何かが大人には視えるのだろうか。

「何難しい顔してんのよ。ついたわよ。歩くときはちゃんと前見て歩きなさい」

「あ、はい」

(怪しい……)

 見るからに怪しい店だった。

 店先に動物の死体がたくさん干してあり、扉が何かの大腿骨で装飾されている。

「ほ、本当にここに入るんですか?」

「あたりまえでしょー。ここは魔法陣屋の中では一番優秀だし、なによりわたしとキールが出会った大切な場所だもんっ!」

「うわぁ……」

 このままでは馴れ初めを話し出すかもしれない、そう思ったギフトは勇気を出して自ら店の中へ入ることにした。

「あれ? 中はまともだ。この指輪可愛い……」

 店内は明るくてお洒落な雑貨屋という(おもむき)だ。

 イチゴやぶどうの形のランタンや、銀細工の可愛いアクセサリーが並んでいる。

 店内中央にはたくさんの髪留めや(かんざし)、カチューシャなどが並べられている。

 よく見てみると、並んでいる雑貨全てになんらかの魔法陣が施されているようだ。

「可愛いでしょー。わたしの親友のお店なの。ルーク! 来たわよー!」

 ファージが声をかけると、店の奥からファージと同じくらい高長身な大変麗しい顔面の男性が現れた。

「ファージじゃん。予定よりちょっと早いね。お茶でも飲む?」

 小首を傾げて少し開かれた唇から出てきた声は、オペラ座に鳴り響くコントラバスのように耳の柔らかなところを刺激してくるようで、とてもゾクゾクとした。

「ええ、頂くわ」

「じゃ、用意するね。お、この子がギフトちゃん? いいねー、可愛い。俺のお嫁さんにならない?」

 顎に触れられた。

 以前に数回ほど読んだ少女漫画に出てくる意地悪な王子様のように。

「ダメよ! あんたキールに殺されたいの?」

 意地悪な王子様の手は、大柄な継母魔女によってパシッと払いのけられた。

「あっはっはっはっは! じゃぁ、あと十年経ってギフトちゃんがフリーだったらまた口説こうかな」

「あんたにはギフトは嫁がせないわよ! 婿に来るのもお断り!」

「あっはっはっはっは!」

 挨拶する隙がない。

 慌てる間もない。

 ギフトはこの世界に来てはじめて口説かれた。

(ま、まぁ、冗談だとは思うけど……。それにしても、なんてかっこいいんだろう!)

 爽やかな黒髪短髪、すらっとのびた手足、切れ長の目に程よく灼けた肌、優しそうな口角の上がった口元に白い歯。

 服はなぜか作務衣みたいなのを着ているが、それがまた素敵に見えた。

 お茶をするのに案内された店内奥のスペースもとても素敵だった。

 小さな丸テーブルに可愛い植物模様のクロスがかけられている。

 ソファも猫足のものでとても優雅だ。

「ギフトちゃんは俺の隣に座りなよ」

「ギフト、だめよ。こっちに座りなさい」

「あ、はい。えっと、あの、こんにちは……」

「あはは、こんにちは。声も可愛いんだね。無属性の魔法使いに会うのは初めて?」

「えっ、あ、その……、はい」

「わあ、嬉しい。ギフトちゃんの『初めて』、もらっちゃったね」

 跳ねる鼓動が治ってくれない。

「ちょっとー、うちの子にちょっかいださないでちょうだい!」

「なんでよー」

「ロリコン認定するわよ」

「でも魂は二十歳くらいなんでしょ? 大人じゃん」

「はぁ……、わたしはあんたのその軽薄さが心配だわ」

「いいの。俺は世界中の女性を愛しているんだから。あ、でも付き合ったら超一途だから安心してね」

(ん? 今このひと世界中の女性を愛してるって……)

 ギフトのルークを見る目が次第に険しく変化していった。

 それでも見つめられていることに気をよくしたルークは、お茶とお茶菓子を用意しながらギフトに向かって軽くウィンクをしつつ唇をチュッと鳴らした。

(あ、コイツ、ダメなやつだ!)

「あれ? ギフトちゃんの視線が一気にゴミを見るような目に変わっちゃった」

「さすがわたしの娘。それでいいのよ。こいつはダメ男よ」

「はい、ママ」

「なんでよー」

 なんとまぁとんだクソ野郎だった。

 犯罪という概念がすっぽり頭から抜けているのだろうか。

 施術とはいえ、このひとに肌を晒すのは心から嫌だなぁとギフトは思った。

 しかし、そういうわけにはいかない。

 命の方が大事だからだ。

 十五分ほど雑談した後、予約の時間が来たとかでやっと施術が始まった。

 白く清潔なシーツに覆われた少し背が高めの施術台にうつぶせの状態で横たわる。

 悲しい(かな)、現在真っ平らな胸はうつぶせになったところで痛くも痒くもなかった。

 ルークは手慣れた様子でギフトの背中に消毒用の薬酒を塗っていく。

 良い香りがしてギフトは少し眠くなってしまった。

「じゃぁ描いていくね」

 ギフトは針か何か、鋭いものが刺さる痛みがあるだろうと思い、ギュッと目を瞑りながら覚悟を決めた。

(……あれ? 全然痛くない)

 ルークの手に握られている銀色の万年筆のような杖のペン先がすこし熱いかな、と感じる程度だった。

 なによりすごいのが、フリーハンドだということだ。

 なんと、ルークの頭の中には二億種類を超える図案がすべて記憶されているらしい。

 組み合わせ方や繋げ方を合わせると天文学的数字になる。

 その全てを相手の魔力の強弱と量、使える属性で瞬時に組み立てるのだという。

 ルークは〈無〉属性の中でもかなり特異な存在らしい。

「ふーう。こんなに属性が多い子に魔法陣描いたの初めてだよ。それに、肌がすべすべで気持ちいいね」

「ひいいい!」

 終了の合図もなしに、ルークはいきなりギフトの背中を撫でた。

 ギフトは急いで服を着なおすと、施術用のベッドから飛び退き、ファージの元へと走った。

「ま、ママ! あいつ! わたし! 背中!」

 ギフトの瞳に浮かんだ恐怖を読み取ったファージは、般若のような顔をしてルークに詰め寄った。

「ちょっと! ルーク! 何したのよ! 殺すわよ!」

「あっはっはっはっは。だってすべすべなのは事実なんだもん。仕方なくない?」

 ファージの怒った顔にもめげることなく、悪びれる様子もなく、ルークは楽しそうに笑っている。

「ああもう! 本当に一発殴りたいわ……」

「マ、ママ、このひとこわい……」

「よしよしギフト。はやくこっちにおいで」

 ギフトはサッとファージの後ろへと下がった。

「なんだよー、俺色々上手なのにな。初めては俺がいいと思うよ、色々ね」

「あんた、その股からぶら下がってるやつ引きちぎるわよ」

「こわいー。わかったわかった。ギフトちゃんには向う十年間は手を出さないから、ね?」

「一生出すな!」

「ママー」

「大丈夫よ、大丈夫。どんなに忙しくても、ルークの施術の日はわたしがついてきてあげるからね」

「ちぇー」

 あっぶねぇ!

 危ない大人だった! マジのやつだった!

 こんな奴のところに月一で通うとかどんな拷問だよ!

 ……しかし、何者かに狙われている以上、仕方ない……、のか。

 と、ギフトは心の中で自分の運命を盛大に嘆いた。

「じゃぁ、ギフトちゃん、また来月ね」

「ひい!」

 ファージはルークからギフトを隠すように立ちはだかり、威嚇しつつ素早く支払いを済ませて店を後にした。

 店を出て数歩歩くと、ファージとギフトは重なるようにため息をついた。

「まさかあんたまで射程範囲内だと思わなかったのよ……。怖い思いをさせちゃってごめんなさいね」

「はぁ……。でも、ああいう大人もいるんだといういい勉強になりました。わたしはもっと強くならなくてはなりませんね」

「そうね、いい反面教師だったわね」

 なんだか二人して疲れてしまった。

 ファージが誰かのせいで疲れる姿を初めて見たギフトは、ルークの顔を思い出して背筋がゾクッとした。

 帰ったらすぐにシャワーを浴び、夕方ごろ仕事から帰宅するキールに報告しよう、そう心に決めたギフトだった。


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