第壱集:すべてを失った日
わたしはとてもしあわせな家庭で育った。
父と母、そして二人の兄に妹が一人。
評判の良い私立の学校にも通い、友人もいた。
実家はわりと裕福な方だったけど、父と母はそれを鼻にかけることなく清く正しく生きていた。
おだやかな毎日だった。
所有するいくつかの建物の中で、都内にあり、一番治安がいい地域にあるビルの五階と六階に住み、予定が合えば休日は家族で映画に出かけたり、少し足をのばして登山に行ったりしていた。
もちろん、友人と出かけたり、お泊り会をしたりすることも多かった。
一番上の兄はもう結婚していて、半年後にわたしは叔母さんになる予定だった。
二番目の兄は来年挙式予定。
妹は今年大学生になったばかり。
わたしは来月からフランスの美術大学へ留学することが決まっていた。
過去には思春期特有のいざこざは多少なりあったが、家族仲はとても良好で、何もかもうまくいっていた。
――何もかも、うまくいっていた、のに。
その日はみんな浮かれていた。
わたしが留学してしまうから、その前に伯父が住んでいるウィーンへ行こうと、家族みんなで飛行機に乗った。
兄のお嫁さんを伴っての旅行は初めて。
伯父は伯母と死別してから十年以上経ってやっと再婚し、今の奥さんの実家があるウィーンに住んでいるのだ。
オーケストラを聴きに行くのがとても楽しみだった。
飛行機に搭乗してから五時間後、わたしたちが乗った機体はこの世界から姿を消した。
航路上にあるすべての国がこの機体を見失ったのだ。
地上ではニュース特番が組まれ、連日様々な憶測が飛び交った。
報道が過熱し始めて一週間後、飛行機はほぼ無傷で発見された。
第一発見者の老人によると、早朝の上野公園、東京国立博物館に至る道に忽然と姿をあらわしたという。
機体の下敷きになった木々は不思議なことにまるでレーザーで切られたかの如く綺麗に処理され、その巨躯を支えていたらしい。
噴水の水も一滴たりとも溢れていなかったという。
乗客は全員凍死していた。
科学捜査研究所の職員によれば、こんなに美しい遺体を見たのは初めてだという。
すべての遺体が司法解剖にまわされた。
数体の遺体に軽い損傷がみられたものの、髪も服も肌もなにもかもが綺麗に整えられていた。
様々な国から専門家たちが招集され、このセンセーショナルな出来事は瞬く間にネット上へ拡散されていった。
でも、そこに、わたしはいなかった。
ただひとりの行方不明者としてわたしの名前は爆発的に世界中へと広まっていった。
そのせいで、わたしのことを「悪魔」だとか「神の使徒」、「新たなる存在」としてあがめる団体も出現していた。
わたしは日本で報道されるすべての様子を見ていたのに、その場にはいなかったのだ。
わたしがいたのは巨大な博物館のような場所だった。
薄暗く、あちこちに展示されている煌びやかな装身具のような何かが視界にチラつく。
座っている椅子でさえ、見事な彫刻がほどこされている。
乱雑に積みあがっているのは革表紙の本だけ。
得体のしれない生き物の骨格標本は、まるでそれだけで生きているかのようにガラスケースにおさまっていた。
息をしないものばかりが並べられた空間に、ひとつだけ異様な存在があった。
目の前には二メートルほどもあろうかという、とてもスタイルのいい人物――女性なのか男性なのかわからない――がいる。
開口一番に、そいつは言った。
「泣いたら殺すわよ」と。
「ほら、あなたの大事な特殊なコミュニティーに属する人間はすべて美しく、苦しまないように処分してあげたでしょ。何を泣くことがあるの? 醜い姿を見ずに済んだことを大いに喜びなさい。人間って弱いのね。心の傷が身体に出てきちゃう。あなた、毛という毛、すべて真っ白になっちゃったわね」
そいつは嬉しそうに目を細めながらわたしの頭をなでた。
わたしにはどうすることもできなかった。
うまく身体が動かせなかったのだ。
「……あらやだ! まぁ汚い! 目から血が出てるじゃない! 人間って泣かないと血が出るの? 本当に気持ちが悪い生き物ね。あぁら、もう、床にポタポタと……。せっかく着せたお洋服も血まみれじゃない。もう、なんでコレの世話をわたしがしなきゃならないのよ。……ああ!」
そいつが叫ぶ少し前に、どうやらわたしは盛大に吐血したようだ。
口の中も目の前もすべて血、血、血血血。
「ゴブリンたち! はやくコレを浴場へ放り込んできて頂戴! それから、床を綺麗に元通りに掃除よ! はやくしてちょうだい! 鉄臭くて耐えられないわ!」
わたしは担架のようなものに乗せられ、服を着たゴブリンに運ばれていく。
血にまみれた目からうっすらと見えたあいつは、言葉とは裏腹に、とても上機嫌な様子だった。
わたしはされるがままにゴブリンたちに担がれ、長い廊下を進み、大きな扉を開けた先にある大理石張りの大浴場へと連れてこられた。
運ばれている途中で口から吐いた血液が目に入り、よくは見えなかったが、どうやら浴場には数体の像が飾られており、いくつかの像からはとめどなくお湯が注がれ続けているようだ。
身体に軽い衝撃と水しぶきを感じた。
ゴブリンたちはあいつの言葉通り、わたしを風呂に着衣のまま放り込んだ。
たちまちお湯が赤く染まってゆく。
白い大理石の広すぎる浴槽。
目を覆っていた血液が溶けていく。
お湯を絶え間なく注ぐのは、美しいエメラルドグリーンの壺を肩に担いだ女神像。
天井を支えるのは絶対に必要ないだろうと思われる豪華絢爛な金細工が施された太い柱。
世界史の図録で見たことがあるような気がした。
残念なことに、浴場でも地上の光景は大きな鏡に映されていた。
まるでわたしに見せたいがために。
ちょうど流れていたのはわたしの家族の葬儀だ。
京都で隠居していた祖父と祖母が、六つ並んだ棺の前で泣き崩れている。
祖母の車いすが横倒しになったままだ。
友人たちがわたしの名前を呼び、「無事でいて……」と、数珠を握りしめながら祈っている。
胃のあたりからこみあげてくるものに、わたしはあがらうことができなかった。
わたしは浴槽に盛大に吐血し、次の瞬間には意識を手放した。
「……え、ねぇ、ねぇってば!」
わたしはふかふかのベッドの上にいた。
どうやら助けられてしまったようだ。
あのまま死なせてくれればよかったのに。
部屋の向こう側で甲斐甲斐しくゴブリンたちが働いている。
わたしを風呂に投げ落としたくせに、助けたのか。
「ふぅ、よかった。あんたに死なれちゃこまるのよ。大事な大事な商品だもの。まぁ、まだ価値はないけど。すぐに高値がつくようになるわ。だってわたしが選んだのよ。わたしの目利きは確かなの」
わたしは目を疑った。
昔、母によんでもらった絵本に出てきた妖精のような何かが、わたしの背を押し、腕を支えながら起こしてきたのだ。
目の前には鏡が用意されていた。
「いいでしょお? 髪は赤毛にして、瞳はエメラルドにしたのよ。わたし、いつか魔女を創ることになったらこういう外見にしようって決めてたのよね」
こいつが話し終わらないうちにわたしは鏡を殴り壊していた。
条件反射だった。
「あああああん! この鏡、けっこう高いのに!」
「……うるせぇ、殺すぞ。目を返せ。わたしの両親と同じ色に戻せ! わたしの兄妹と同じ色に戻せ!」
そいつは目を見開き、心底驚いたような顔でこちらを見てきた。
わたしは鏡の破片を握りしめ、手からは血が滴り落ちていた。
「あんた、しゃべれるの? この世界の言葉がわかるの?」
「……は?」
「わたしって本当にすごいわ! 言葉を教えるだけで一年位はかかると思ったのに。すごい、すごいわ!」
わたしはこいつのわざとらしいほどの狂喜乱舞する姿におどろき、隙をつくってしまった。
すると、すばやく妖精たちが鏡の破片を奪い、そのままわたしの手の治療をしはじめた。
「あんた、妖精にも指示が出来るの? わたし、治せって言おうとしていたのに、勝手に始まってるじゃない! すごいわ! 話せるなら、もしかして、今までわたしが話していた内容も理解してるのね? ふふふふふふ! じゃぁ、教えておくわ! わたしの名前はファージよ。巷では『雹血の魔女』と呼ばれているわ」
「殺す」
「ええ、いいわ! わたしがあなたを出荷したら、もうわたしの物ではなくなるから、わたしを殺しにいらっしゃい。でも、今はまだわたしの物よ。わかる? 物、所有物なのよ。ちなみに言っておくけど、わたし女装しているけれど別に女になりたいわけじゃないのよ。意味わかる? 男の体のままで男が好きなの。性自認がどちらなのかって聞かれるとちょっと困っちゃうからその質問はしないでちょうだい。あんたがいた世界もだけど、性って多様なのよ」
「うるさい。興味ない。殺す」
「はいはい、わかったから。とりあえず寝てくれる? 気付いてないのかなんなのか知らないけど、気絶をノーカウントとすると、七十時間近く睡眠をとってないのよ? あんたが自殺したら困るからわたしもずっと起きていたんだから。わたしを殺したいんでしょう? なら、早く強い魔女になってわたしに出荷されることね。ふふふっ! 楽しみだわ!」
「殺す」
わたしはたしかに疲れていた。
歪んではいるが、とにかくこのファージとかいう〈魔女〉を殺すという生きる目的を手に入れたことに安堵した。
今は憎しみにすがるしかない。
ファージにとってわたしは殺害の対象ではないようだ。
しかし、一応、用心はするにこしたことはない。
「妖精さんたち、次にファージがこの部屋に勝手に一人で入ってきたら殺して」
妖精たちは嬉しそうにわたしの頬にキスをした。
「ちょ、ちょっとぉ、なんて物騒な指示出してるのよ。やめなさいよね! わたしが呼び出した妖精なのに! なによ、せっかく新しい名前をつけてあげたのに!」
「わたしには親からもらった名前がある」
「もうその名前は使えないわよ」
「は?」
「だから、もうその名前に託された人生を生きることはできないって言ってるの。あなた、世界が変わるってことを理解してないのね? あなたの名前が有効なのは元居た世界だけ。この世界では、あなたは新参者。新しい人生を生きなきゃならないのよ」
「殺す」
「あなたにとっては残念だろうけど、あなたの名前は今日から『ギフト』よ」
「……ギフト?」
「あら、殺すって言わないのね。あなたの世界では英語で贈り物という意味がある一方で、ドイツ語では〈毒〉って意味があるそうよ。最高じゃない? あなたは使い方次第で贈り物にも毒にもなりうる存在として生きるのよ」
「……ギフト、贈り物、毒。気に入った」
「意外な反応だわ。てっきり、名前を勝手に考えたことに対して罵声を浴びせられると思っていたのに」
「お前を殺すなら、毒になるのは最適だ」
「まぁ、本当に理想的な弟子だわ」
「うるせぇ、じゃぁ、寝るから。出て行かないと殺す」
「はいはあい」
ファージはパタパタと手を振りながら出て行った。
その後ろをゴブリンたちがついて行く。
「ギフト、か」
わたしはこの世界で贈り物の皮をかぶった毒として生きるのだと思ったら、ズタズタだった心を黒い何かがつなぎとめるのを感じた。
しかし、もう限界だった。
深い深い無風の湖に落ちてゆくように、意識は遠のいていった。
丸二日間寝ていたらしい。
やたら頭がガンガンすると思ったら、そんなに寝ていたとは。
横でわたしの顔を心配そうに見ている妖精にファージを呼びに行くように伝える。
癪だが、お腹がすいた。
どこにどんな食べ物があるのかまったくわからない。
頭を抱えながらうんうん唸っていると、扉がノックされる音がした。
「入っていいかしら?」
「どうぞ」
「入るわよお」
ふわりと柔らかい物腰で、花のような香りをさせながら入ってきたファージの格好に、わたしはとても驚いた。
長いキラキラと輝く銀髪を一つにまとめ、右目には華奢で細かな花の細工が施されたモノクルをつけた痩身の男性。
ニコリと微笑むその顔は、むかつくほど涼やかでかっこよかった。
濃い桃色の瞳が宝石のようだ。
「女装は……?」
「やあねえ。だから、わたしの女装は趣味だって言わなかったかしら? 今日はあなたがやっと普通に起きて、はじめてこの屋敷のごはんを食べる日でしょう? だから執事のコスプレしてんのよ。惚れちゃった?」
「いえ、相変わらず死んでほしいなと思うばかりです」
「とてもストレートね。……その敬語、どうしたのよ」
「致し方ないと判断しました。目上の方のようですし。わたしにこの世界での生き方を教えてくれるんですよね? じゃぁ、あなたがどれだけクソ野郎だとしても、その身についている人生の先輩としての経験値には、敬意をはらうべきだと思ったので」
「まぁ! 気持ち悪い! 距離を感じる! わたしは弟子とはなんでも言い合えるフランクで姉妹のような関係を望んでいるのに!」
「残念です」
およよよ、と、ファージはわざとらしく泣きまねしながらも、テキパキと丸いテーブルに食事を並べていった。
器に入っているいい香りのする料理に、既視感がある。
「もしかして……、お粥ですか?」
「そうよ。わたし、弟子を見つけるためにギフトが生きていた世界を十年くらい旅していたんだけど、いろいろと出会った知識の中で一番気に入ったのが『薬膳』という食事の考え方なの。あれは素晴らしいわね。美味しく食べて美肌が叶うなんて、まるで魔法のようだわ」
「はぁ、そうですか」
「そうよお。魔女が作る即効性のある薬には必ず毒となる副作用があるの。でも漢方にはそれが少ないのよね。〈リケル〉にもいいようだし……」
「〈リケル〉とはなんでしょうか」
「あぁ、そうね。そうよね、言葉がわかるといっても、この世界独特の単語までわかるわけではないものね。〈リケル〉っていうのは、ギフトたちの世界で言うところの『魂魄』の間を保つもの。つまり、『魂』と『魄』を繋ぐものよ。あとはなにかしら、そうねぇ……、精神エネルギーも近いかしらね、意味としては」
「心、とは違うんですか?」
「もう、質問ばっかりしてないで食べなさいよ。心は心よ。心は心以外の何物でもないわ」
まだ聞きたいことは山ほどあったが、空腹には勝てず、木製のなめらかなスプーンを手に取った。
ファージはわたしがちゃんと食べ始めるのを見ると、この世界のことを話し出した。
「ギフトたちの世界では、人間の〈リケル〉はかなり身体に作用していたようね。でも、こちらの世界の生き物はそうではないの」
ファージの言葉が、スポンジにしみ込んでいく水のように脳内を満たしていく。
「リケルは身体ではなく、その者が持つ魔力に作用するのよ。たとえば、わたしが彼氏にフラれてものすごく落ち込んだとする。するとリケルと心のバランスが崩れて、魔力の量と出力が極端に衰える。でも身体はそうはならない。だから魔女や魔術師と言えど、身体を鍛えたり、武装したりしなきゃいけないのよ。魔力に頼れない状況に陥ったとき、自分の身を護れるのは身体の強さと装備品の強さだからね。でも、ギフト、あなたは違う」
気のせいだろうか。
わたしを見つめるファージの目が、やけに優しく感じるのは。
「あなたのリケルはあなたの身体に作用する。どんなにリケルが傷ついても、魔力が弱くなることは無い。これはこの世界においてはとても重要なことなのよ。あなたは無尽蔵に魔力を放出し続けられる特異な存在なの」
微笑まれた。
わたしはまだ心が麻痺しているのだろうか。
ファージの笑顔を、拒否できなかった。
「理解できたかしら?」
途中から夢中でお粥と向き合っていたため、最後の方は惰性で聞いていた。
しかし、脳では理解できた。どうやらわたしはこの世界においてはラッキーな体質だということはわかった。
あと、ファージは料理が上手い。
「ちょっとお、聞いてるの? さっきから顔すら上げなくなったじゃない。ちゃんと噛んで食べなさいよね。そのお粥は流動食じゃないのよ」
ファージが睨んでくるので、とりあえずうなずいておいた。
「で、どこまで話したかしら……。あぁ、そうそう。あなたは特異体質なのよってところまで話したわね。あとでやるけど、魔力っていうのはひとそれぞれ使える属性が違うのよ。『火』『土』『水』『風』『雷』『木』『金』『石』『光』『闇』『気』『毒』の十二個あって、たいていは二つか三つ使えるの。わたしくらい優秀だと、水・風・雷・土・毒・金、の六つが使えるわ。そしてさらにわたしほどの才能があると、それらを組み合わせて『氷』や『水銀』なんて魔法も使えるわ。あなたはいくつあてはまるかしらね? あとで検査しましょうね。きっとわたしより多いはずよ」
「なぜ多いってわかるんですか?」
「その、器をこちらに差し出して、おかわりよこせ、っていう態度いいわね。ますますわたし好みよ。で、なぜわたしよりも多いかって、それはあなたがわたしが探し出した逸材だからよ。自分よりも程度の低い者を弟子にして出荷しようなんて誰も考えないでしょう? 出荷先にわたしの力量を疑われてしまったら、この先何の依頼もはいらなくなっちゃうもの」
「なるほど。おかわりはやくしてください」
「あぁ、はいはい。どうぞお。たあぁんとおたべなさい」
おかわりを受け取り、わたしは再びお粥に手を付ける。
ファージよりもたくさんの属性を使えたとして、そのすべてを使いこなすなんてできるのだろうか。
この世界ではどうだか知らないが、わたしはもう二十一歳だ。
大抵の物語では、十一歳かそこらの児童のときから修行するもんなんじゃないのだろうか、魔法って。
「……あれ?」
先ほどよりも、食器が大きくなったような気がした。
「あら、夢中で食べていたから気付かなかったのね。あなたの年齢、巻き戻させてもらったわよ。そうねぇ、あなたの世界で言ったら、十歳くらいかしら?」
本当は驚くべきなのだろうが、不思議と落ち着いていた。
きっと、お腹が満たされているからだと思う。
「……生理ってどうなるんですか?」
「あなたはじめてきたのはいつ?」
「十一歳の秋頃です」
「じゃぁ、またそのくらいになったら始まるわよ。お赤飯たいてあげるわねえ。わたし、ギフトが生きていた国の文化はわりとなんでも好きよ。一年間くらい、生理のない快適な時間を過ごせてよかったわね」
「あぁ、そう、ですね」
めでたく処女どころか女児になってしまった。
脳が退化していないのが救いだが、胸のあたりの厚みが無くなり、はたして女児なのか疑わしいくらいだ。
赤飯云々に関しての恥ずかしい伝統については何も言うまい。
わたしはお赤飯が大好きだ。
「あぁ、そうそう、これをあなたに渡しておくわ。わたしだって、少しは悪いと思ってるのよ」
小さくて綺麗な装飾が施された箱を六つ渡された。
中をあけてみると、とても小さな白いものが一つずつ入っていた。
「ギフトが住んでいた国では、たしか、約束事をするときにお互いの小指を組むんでしょう? だから……、それはわたしとあなたとの約束の印よ。あなたの家族の小指で誓いましょう。わたしはあなたをこの世界で一番の魔女にするわ。そして出荷する。とびきり待遇のいい場所へ。そのあと、いつでも殺しに来なさい。受けて立つわ」
わたしはしばらく六つの小さな骨を見つめていた。
目の前が波打つ。
ここへ連れてこられてから何十時間も経とうとしていた。
初めて透明な涙が出た。
止まらない。
止められない。
お母さん、会いたいよ。
お父さん、会いたいよ。
みんな、大好きだよ、愛してるよ。
声にならない思いが堰を切ってあふれ出した。
わたしはようやく、まともに悲しむことが出来た。
ファージが淹れる紅茶の音が、やけに優しかった。
空腹も満たされ、泣き疲れ、わたしはいつの間にかまた眠っていたらしい。
起きたらもう太陽が高い位置にあった。
お粥を食べたのは何時頃だったのだろうか。
あの時、特にどこからも陽の光は感じなかった。
あいつはわざわざ起きてお粥を作ってくれたということか。
……どうでも良い。
考えるのをやめ、ぼーっとしていたら、妖精たちが水を持ってきてくれた。
それを一息に飲み干すと、わたしはベッドを出た。
洋服ダンスを漁って、適当に服を選ぶ。
ファージの趣味なのだろうか。
やたらと華美なブラウスが多い。
その中でも、落ち着いた生成り色の、ボタン周りにだけフリルがついているブラウスと、紺色の長めのカーディガン、深緑色のキュロットを着ることにした。
身支度をすませ、部屋から出ると、慌てた妖精たちがあとをついてきた。
「……心配しなくても大丈夫だよ。ファージに属性とやらの検査してもらいに行くだけだから。……自殺なんて考えてないよ」
妖精たちはお互いに顔を見合わせ、ほっとしたように微笑んだ。
自分の小さくなってしまった足から、廊下を歩くたびにヒタヒタという足音がする。
「ところで、ファージの部屋ってどこか知ってる?」
妖精たちはわたしの頬にキスをすると、嬉しそうに案内を始めた。
さすがに妖精が何を話しているのかはわからないが、とても喜んでいることだけはわかる。
長い廊下を歩いていくと、一番前にいたやんちゃな妖精の男の子――妖精に性別があるのか知らないが――が、大きな扉を指さしてはしゃぎだした。
「ここなの? ずいぶん大きな扉だなぁ。わたし、今十歳だからあけられないかも……」
押しても引いてもうんともすんともいかない。
ためしに扉に頼んでみることにした。
「開いてくれると、とてもありがたいのですが……」
すると、ギィイイ……、と音を立てながら扉が開き始めた。
「ほうほう、頼んでみるもんだなぁ。ファージさーん? いますかー……、ああっ⁉」
天蓋にうつる影が見えた。
重なっていた。
「これは見ちゃいけない場面だし、見たくもないし、うっかり殺意がわきそうなやつ」
ベッドからは激しめの喘ぎ声が二人分聞こえる。
どちらも低めの声だ。
「これじゃぁ、気付かない……。今のうちに部屋に戻ろ……」
「あん! ああああ! も、もしかしてっ、ギフト、そこに、いるのぉおおん!? はあっはあっ、ああああああん! ……んふぅ」
最悪だ。
どうやら終わったらしい。
こういう知識だけは退化すればよかったのに、と心底思った。
しゃなりしゃなりと深紅のシルクのガウン姿であらわれたファージは、吐き気がするほど艶々していた。
「はぁん。やっぱり若い男っていいわねぇ……。美味しかったあぁん」
「帰ります戻りますさようなら永遠に死んでくれ」
「ちょっとぉ! 待ちなさいよ小娘。あんたが寝ちゃったからしょうがなくもてあました時間を高級男娼と楽しく過ごしてたのよお? シャワーあびてくるから広間で待っててちょうだい」
「……じゃぁ、待ってます」
「すぐ行くわあ」
すぐには来ないで欲しいと思ったけど、口にはせず、おとなしく広間へ向かった。
妖精たちはわたしが疲れているのを心配そうに見ていたが、頭をなでると嬉しそうにまた案内してくれた。
「殺人鬼クソ野郎師匠はビッチだ」
殺す要因が増えた。
広間に着くと、そこは壁一面とんでもない量の本棚で埋め尽くされていた。
壁にはところどころ階段が備え付けられており、中二階のような細い回廊がぐるりとめぐっていた。
またその回廊にもレールがついた梯子がついており、高い場所にある本もちゃんと手に取ることが出来るようになっているようだ。
「すごい……」
本棚には美しい彫刻やステンドグラスがはめ込まれ、この部屋すべてが美術品のようだ。
その本棚に並べられている本も大小様々、厚みもまったくバラバラだが、背表紙からもわかるくらい煌びやかだ。
おそらく黒い背表紙なんだろうが、その色合いだけでも何百と輝き方が違う。
赤い本、緑色の本、黄色い本、茶色い本……。
そのすべてに同じものなど存在しないようだ。
「あの博物館みたいな場所に積んであったのはここの本なのかな」
思わずときめいてしまった。
うっとりと本棚を見つめながら一人で感想を述べていると、背後から声が降ってきた。
「そうよ。すごいでしょう? これは今日からあなたのものでもあるのよ」
「独り言にお返事いただきありがとうございます」
「まぁ! 嫌味が心地いい!」
いつの間にかティーワゴンとともにファージが現れていた。
まだ数回しか直視していないが、どうやら清潔感はあるらしい。
それに、やたらと良い匂いがする。
殺意が加算された。
「お紅茶飲みましょう! わたしはブランデー入れちゃうんだからっ。ギフトはお子ちゃまだからイチゴジャムを入れてあげるわね。スコーンは昨日作っておいたの! マーマレードとブルーベリーソースも用意してあるわよ」
「あぁ、それは、どうも」
「お昼ご飯の前におやつ食べなきゃね!」
どこの貴族だよ、と言ってやろうかとも思ったが、本当に貴族だったら腹が立つからやめておいた。
「妖精たちにはヨーグルトよ。そういえば、あなたたちすっかりギフトの妖精になっちゃったのね。自分たちで妖精王のところで移籍申請ちゃんとしなさいよ?」
妖精たちはヨーグルトの小皿を受け取ると、嬉しそうにうなずいた。
「申請しなきゃいけないんですか?」
「そうよ。人間で言うところの住民登録みたいなものね。妖精などの幻獣種の勝手な売買、勝手な契約はこの世界では禁忌なのよ。世界の理に裁かれたら九十九パーセント有罪で、重い罪とみなされたら即刻死刑よ!」
「へぇ、厳しいんですね」
「ギフトの国の書物もかなり読んだけど、あんなふうに勝手に召喚円で呼び出したり、幻獣種を狩ったりしたら、この世界では翌日には処刑台よ」
「あぁ、物語とかゲームとかではかなり自由に設定されていますからね。でも、わたしのような人間の売買は合法なんですか?」
「あなたには残念なお知らせだけど、合法よ。そこら中に奴隷がいるのよ、どこの国でもね。この世界には明確な階級が存在しているの」
「じゃぁ、生まれた瞬間からその価値が決められてしまうんですか?」
「うーん、それもちょっと違うの。生まれてすぐに血の検査があるのよ」
「血の検査?」
「そう。血に含まれている魔力を検査するの」
「では、魔力が強かったり、多かったりすると上の階級になるんですか?」
「あー、うーん、それもちょっと複雑でね。単純に、魔力の強弱や量の多少では決めることが出来なくて……。そう、あれよ、適正もあるのよ。いくつの属性を使えるのか、というのもかなり重要なの」
「あぁ、なるほど」
「ついでに言うと、『無』属性のひとはどんなに魔力が弱かろうが少なかろうが、階級は上から四番目になるわ」
「えっ、なんでですか?」
「『無』属性というのは、属性が無いんじゃないの。『どんな魔法も無効にできる』という特殊な属性なの。あなたの世界にも除霊師や悪魔祓いといった職業があったでしょ? 『無』属性のひとは他人がかけた魔法や呪いを、どんなものでも解くことが出来るのよ。魔法世界の医者ってとこかしらね。まぁ、魔法をかけた魔女の力が強すぎると、並大抵の『無』属性じゃ解けない呪いだってあるけどね。あまりに特殊な属性だから普通の属性としての種類からははずされているわ」
「かっこいいですね、なんでも解けるって……。『無』属性と他の属性が体内で共存することはありえるんですか?」
「いい質問ね。それは無いわ。自分の中の他の属性を打ち消してしまうもの」
「あぁ、すごい。じゃぁ、『無』属性さんは呪いにはかからないんですね」
「そういうことよ。それはそうと、あなたしゃべりながらスコーン食べるの上手ね。それ五つめ?」
「いえ、七個めです」
ファージの料理上手はすばらしい美点だ。
それに、質問するとすぐに教えてくれる。
質問以上の知識を授けてくれるところはとても気に入っている。
殺意が少し減った。
「あの、この世界には宗教はあるんですか? 階級が浸透しているとなると、宗教は一つってことなんでしょうか」
「あなた、本当にわたし好みだわ」
「それは複雑な気持ちになりますが、まぁいいです。わたし、大学での専攻が宗教美術だったので、この世界ではどうなのかなと気になって」
「宗教美術いいわね。それ、この世界でも続けたらいいと思うわ。何故なら、あなたの世界よりもかなり宗教が多くて、現存している美術品も多いからよ」
「そうなんですか?」
「そうよお。ギフトがいた世界では度々宗教が絡んだ戦争が起きていたでしょう? 弾圧も多かったみたいだし。かなり排他的な考え方の宗派もあるわよね。でも、この世界では違うの。信仰の自由だけは奴隷にだって許されているのよ。尊重もされていて、いかなる理由があっても、信仰を奪うことはタブーなの。だから主人の家がキイラメント教を信仰していても、奴隷は辰砂教、なんてことはざらにあるわ」
「本当に自由なんですね。でも、教義に『命に差があってはならない』とあった場合は、奴隷や階級制度はどうなるんですか?」
「その場合はね、それを支えに生きるしかないのよ」
「支え……?」
「神の御許ではみなひとしく神の子である。そう信じて生きるの。死後の世界では誰にも差別されないと信じてね」
「では、階級が無くなることはないんですね?」
「そうなるわね」
「じゃぁ、階級は誰が定めたんですか?」
「この世界の〈理〉よ」
「〈理〉って物理的に存在してるんですか?」
「ええ、もちろん。〈理〉は国とか民族とか人種、宗教や身分など関係なく、その者が犯した罪によってだけ裁く機関よ。この世界に生きている者の中でも天文学的数字ほどの上位に入る有識者から選ばれるエリート集団なの」
「それって公正なんですか? すべての民族やらなにやらの代表者とかじゃなくていいんですか?」
「ふふふ、いいのよ。選ばれて承認したら、その瞬間からそのひとのアイデンティティだったものすべてを奪われてしまうから」
「えっ、ということは……」
「〈理〉たちは〈世界種〉になるの。民族や宗教などに属さない、この世界にだけ属する存在となるのよ」
「でも、心はそんな簡単に割り切れるものではないですよね?」
「心は焼却処分されるわ」
「しょ、焼却?」
「リケルさえあれば魔法は使えるからね。それに、リケルだけならば心とのバランスを壊さずにいられるでしょ?」
「そんな……」
「心のせいなのよ? 嫉妬や怠惰、色欲などの余計な欲望を抱いてしまうのは。信仰心もそのひとつね。リケルだけならば、誰だっていつだって理性的で倫理的にいられるの」
「なんてこと……」
わたしはそのあとの質問が思い浮かばなかった。
どちらかというと、かつて生きていた世界では裁判において主観的な意見が勝敗を決することもあったからだ。
アメリカなどはまるで法廷を劇場のように使い、弁護士や検事が陪審員の心に訴えかける場面なんかもよく見たことがある。
まぁ、ドラマだったけれども。
この世界ではただ罪と事実で裁かれるのだと思ったら、少し怖くなった。
魔法と共に、この世界での犯罪についてよく学ばなければ。
スコーンの最後の一個を咀嚼しながら、心を焼却されるときの気持ちを考えた。
そのときに出る煙はどんな色をしているのだろう、とも。