玄界灘に飛梅来たる~リバーの芦屋教官録(3/3)
飛行隊の近況を訊ねると、ジッパーは心持ち姿勢を正した。
「先輩がいた頃と変わらず、気炎万丈でやっています。この前の戦技競技会では、また305が優勝しました」
「おぉ、みんな頑張ってるな。教育集団にいると戦競の話題なんか耳にすることもないけど、やっぱり部隊の話を聞くと滾ってくるなぁ」
「若手も必死にやってますよ。先輩と入れ違いに二人入ってきました。ひとりはなかなか面白い奴です。要領は悪いですけど、とにかく気骨だけはある。やる気・元気・負けん気で航学魂を体現するような男です。回り道するタイプだとは思いますが、伸びしろを感じます」
「なるほど。期待が持てるな」
「もうひとりはフライトのセンスがありますね。飲み込みも早くて、何でも器用にできる方だと思います。ただ、課業外の素行がちょっと――異性関係がだいぶ浮ついているという噂で」
「ほおぉ。恋愛に向ける余裕があるなんて結構なことじゃないか。俺なんかそんな若い頃は毎日がフライトのことだけでいっぱいいっぱいだったぞ」
俺は素直に感心したが、ジッパーは苦々しげに続ける。
「見た目もいいので、女たちも放っておかないんでしょう。どちらかというと自分の方が熱を上げるというより、来るもの拒まずでとっかえひっかえ付き合っているみたいです」
「お前の性格だと、そういう奴のことはとにかく気に食わないんだろうなぁ」
「そうですね。自分には到底理解しがたいので」
相変わらずの厳格さでバッサリ言い切る。
「まあ、プライベートの話は感心しませんが、フライトは真剣に取り組んでいますし、センスに胡坐をかくこともない。人当たりもいい、社交性も申し分ない。ただ――」
ジッパーは刺身をつまもうとした箸を止め、考え込むように言葉を切った。
「――ただ、何に対しても一歩引いたところが垣間見えるというか、腹の底から熱くなることがないというか。誰に対しても見えない壁を挟んでいるような、そんな印象を受けます」
「何だ、タイプは違ってもお前と同じじゃないか。だから余計に目につくってわけか」
つい雑ぜ返すと、ジッパーは嫌そうに俺を見た。分かりやすすぎる反応に思わず笑って酒をなみなみと注ぎ足してやる。
「どんな相手でもしっかり向き合ってやらないとな。後輩でも学生でも子どもでも、人を育てるっていうのは大仕事だ。真剣に取り組もうとしたら、時間もかかるし根気もいる。簡単なわけないんだよ。自分とはまったく違うひとつの人格に働きかけて、成長を促そうとするんだから」
ジッパーは思い返すように苦い表情で酒を見つめている。
「何で言うことが分からないのか、どうしてできないのか、苛立ってしまうことも多いんですよね……」
「お前は特に操縦センスがあるから――センスだけじゃなく誰よりも努力してるのはもちろん知ってるけどな――理屈じゃなく感覚的にできてしまうところがあるだろ? そうすると相手の『分からない』が分からないんだ。だから、説明する時はそういうことも意識して噛み砕いて伝えるといいと思うぞ。俺なんか毎晩、風呂に漬かりながらずーっと自問自答だよ。一日を振り返って、教え方は適切だったか、もっと伝わる言い方はなかったか、忍耐強く向き合えたか――ってなぁ」
ジッパーは難しい顔で神妙に耳を傾けていたが、大きく息をつくと自分に言い聞かせるように唸った。
「頑張ります」
「期待してるぞ。お前が育てた後輩たちと飛ぶのが楽しみだ」
部隊の記憶が蘇る。練習機とはまったく違う、F-15の、あの一瞬で立ち上がるGの強烈な圧迫感。コンマ数秒で勝敗が決まる瞬間の、ひりつくような感覚が懐かしい。
「また百里に戻れるといいんだけどな……。俺にとっての古巣だし。芦屋の後は305に戻すっていう話だったけど、まあ、その時々でどうなるか分からないしなぁ」
「私も、早く先輩に戻ってきてほしいです。また先輩について飛びたいです」
手元の料理に目を落としたままぼそりとそう言って、ジッパーは酔いの回った目で俺を見た。
気難しく周りに馴染もうとしないジッパーがこうまで俺を慕ってくれるのが、実は未だに不思議ではある。この従順な後輩は、以前はだいぶ尖っていて、何なら俺のことも大したことのない奴と見下していたくらいなのだ。
ジッパーが305に着隊してTR訓練を始めた時から、フライトの素質があるのはすぐに分かった。ジッパーが操るF-15の機動を目にする度に、センスがあるというのはこういうことかと、感嘆と羨望と焦りで落ち着かない気分になったものだ。それと同時に、わずかな時間も惜しむように黙々と自己研鑽に励む姿勢は純粋に尊敬した。
ただ、センスがあるがゆえに、先輩連中を軽んじる意識が態度に滲むことも少なくなかった。加えて、並外れた努力家だからこそか、真剣みが感じられない相手には誰であろうとたじろぐことなく意見した。当然、周りからは疎まれる。
そんな雰囲気の中でジッパーが起こした大事故未遂。
その時のリーダーだった俺の指示を聞かず、自分の技量と判断力を過信しすぎた結果の異常接近事案だった。
『リーダーの指示を無視するなんてウイングマンとしてありえねぇ!』
『信頼できない奴なんか連れて飛べるか! お前はウイングマン失格だ!』
思いあがった後輩に対する積もり積もった不満もあって、先輩たちはここぞとばかりに責め立てた。ジッパーは黙って誹りを受け、頭を下げていた。
さすがに俺も、リーダーを蔑ろにした行為に怒りを抑えられなかった。しかも指示を無視しただけでなく、空中衝突の大惨事を起こしていたかもしれないのだ。
尊大すぎる自負心は今日ここで正してやる――腹立ちが収まらないままディブリーフィングに向かい、不始末をしでかしたウイングマンの前に立った。
『先輩――申し訳ありませんでした』
開口一番、ジッパーは押し出すように謝罪した。
上背のある体を折って頭を垂れるジッパーを見下ろし、叱責しようと口を開きかけた時――はたと、煮えたぎっていた憤りが勢いを弱めた。
……そもそも、この後輩がここまでつけあがったのはどうしてだ? 俺が全幅の信頼を寄せるに足るリーダーであれば、自分勝手に動こうなどと思わなかったのではないか? 心情的な面も含めて、ウイングマンを掌握しきれていなかった俺自身に非はないのか……?
『――とりあえず座れ』
抑えた声をどう捉えたのか、ジッパーははっとしたように顔を上げ、ためらいがちに席に着いた。
俺は淡々とブリーフィングを実施した。指示に従わなかったこと、そのために危険な状況を生起させたことに対しては厳格に指導し、続けていつもどおりにフライト全般の振り返りも行い、最後にジッパーに言った。
『今回のことで、お前を連れて飛ぼうと思うリーダーはいないだろう。そうなると、お前は訓練にも入れないしアラートにもつけない、技量の維持も難しくなる』
当然、ジッパー自身もそれは想像がついたのだろう。厳しい表情のまま身動ぎもせず、じっと俺の言葉を聞いていた。
『だから俺は、お前のことを責任持って引き受けることに決めた。ほとぼりが冷めるまで、お前は俺のウイングマンとして飛べ。飛行班長にもそう伝えておく』
ジッパーはしばらく言葉もなく俺を見つめていたが、やがて深々と頭を下げた。
『――ありがとうございます、先輩……。よろしくお願いします』
それからジッパーは変わった。
不愛想で口数少ないのはこれまでどおりだったが、ウイングマンとして連れて飛べば積極的に指揮下に入り、こちらの意図をよく汲み、的確に動いた。
他の先輩たちに対する態度は、まあ……そこまで分かりやすい変化はなかったが、俺の言うことは素直に聞き入れ粛々と行動するので、「リバーは忠実なドーベルマンを従えているみたいだな」と飛行班長に半分真顔で言われたこともあった。
ジッパーが本人なりに反省し、意識を改めようとしているのは伝わってきたので、俺は折に触れてリーダー会議でウイングマンの様子について報告し、先輩たちに働きかけて態度の軟化を図った。
そしてようやく飛行隊が再びジッパーを受け入れる雰囲気になってきた頃、俺の異動が決まり――今に至る訳だ。
あの時は俺も、まだリーダーになって日も浅く、ジッパーからの眼差しと信頼に応えられる編隊長であろうと無我夢中だった。ある意味、リーダーとしての自覚を涵養する上で、この後輩の存在は大きかったと思う。ジッパーは俺に恩を感じているようだが、逆に俺はジッパーに育ててもらったとも思っている。
「あっ、アシコマ……オザッス!」
唐突に若い声に呼ばれて振り向く。
店の入り口に知った顔が覗いていた。俺が副主任教官として担当しているコースの学生たちだった。
「おー。お前たち、平日に珍しいな」
「今日はこいつの不可評価回避祝いで来ました。以前アシコマが寿司がうまいとおしゃっていたので、行ってみようということで」
見れば、一団の中に今日フライトを担当した学生もいた。照れくさそうに俺に会釈する。
こうやって同期どうしで盛り立てながら共に進んでいくのはいいことだ。
それにしても、みんな妙にオドオドしてないか?――はたと気がついて振り返る。
ジッパーが頬杖をつきながらだるそうに眼を上げて学生たちを見ていた。当人としては何となく見やっているだけだと思うが、ただでさえ目つきが悪い上に酔いも手伝って目が据わっている。学生たちが竦みあがるのも無理はない。
俺はジッパーの肩を叩いて見せた。
「せっかくだから紹介しとくか。ここにいる須田2尉はな、あの305の凄腕だ。お前たちも梅組に行ったら泣きが入るほど鍛えてもらえるぞ」
「ウ……ウッス!」
学生たちは引きつった愛想笑いを浮かべて目を泳がせている。(こっ……怖ぇ……!)という心の呟きがそのまま顔に出ている。
「ほらほら、そんなところにいないで中入れ。俺たちのことは気にせずやればいいから」
「ウスッ!」
奥の座敷に案内されていく学生たちを見送り、ジッパーに酒を注いでやる。
「あいつらの中で305を希望する奴はいないかもなぁ。ちょっと脅かしすぎたか」
笑って言うと、ジッパーは仏頂面で俺を見た。
「そうなるだろうと分かっていて、わざと言いましたよね、先輩」
「ん? まあなぁ。『いや、それでも!』っていう気骨のある奴が出てくれたらと思ってさ」
「別にいびるつもりはありませんよ。まあ、うちに来たからには誰であれ妥協なく鍛え上げますが」
「ほら、やっぱりおっかない先輩だ。俺はお前が後輩で本当に良かったよ」
軽口をたたきながらうまい寿司を食べ、酒を酌みかわす。気兼ねなく語り合ううち、気がつけば3時間近く過ぎていた。
明日もお互いフライトがある。深酒は謹んで、名残惜しいがお開きだ。
最後に大将に寿司折を頼むと、ジッパーが「ああ」と思い出したように頷いた。
「聡子さんにですか。愛妻家、今も変わらずですね」
「まあな。飲み会の度に子どもを任せて俺ばっかり旨いものを食べるのも気が引けるからなぁ。後はほら、子どもが小さいと家族でこういう店にはなかなか来られないし。だから、せめてこういう時くらいはな」
「よかったら、これも家族団欒のお供にでもしてください。少しですが、百里の味を見繕ってきました」
差し出された紙袋には、梅組ラベルの日本酒に干し芋や豆菓子など懐かしいものがぎっしりと詰め込まれていた。わざわざ休みの日にあちこちの店に出向いて揃えてくれたのだろう。その気持ちが嬉しい。
「こんなにたくさんありがとな。みんな喜ぶよ」
財布を出そうとしたジッパーを止めて会計を済ませると、奥にいる学生たちに一声かけて店を出た。酒に火照った頬に夜風が気持ちいい。
「そんなに呑んだつもりはないんだけどなぁ、いつもより酔っぱらった気がするよ。今日は久々にきつめのGをかけたせいか、内臓にきてる……」
「学生訓練でそんなに負荷をかけることってありましたっけ」
「さっき来た学生の中のひとりに模擬格闘戦を見せてやったんだよ。コースアウトの瀬戸際だったんで、『目指すものはここだぞ、何としても食らいついてこい』っていう意味も込めてな――まぁ、先輩に誘われたのもあったけど」
ジッパーは今夜は学生舎に泊まるということで、基地へと向かう。住宅街の細い路地をそぞろ歩いていると、ひんやりとした風の中にかすかな梅の香りを感じることがあった。春ももうすぐだ。
「お、そうだ。聡子からお前に訊いてくれって言われてたんだ――彼女、できたか?」
「いえ」
ジッパーは苦笑して即答した。まあ、予想どおりではある。
「聡子が友達を紹介したがってたけど」
「せっかくですが、お気持ちだけで」
「相変わらずかぁ」
こちらの春はまだ遠そうだ。
やがて、基地の正門が見える交差点までやってきた。心地良い時間を過ごしたが、ここで解散だ。
「久しぶりに一緒に飲めて楽しかったよ。お互い、頑張っていこうな。明日は気をつけて帰れよ」
「はい。今日はごちそうになりました。百里で待ってます。先輩のことも、先輩が育てた学生たちのことも」
「恥ずかしくない仕事をするよ。じゃ、またな!」
翌日、ジッパーは用件を済ませた防衛部長とともに百里へ向けて飛び立っていった。
俺はT-1の並ぶ駐機場で、玄界灘の洋上高くのぼってゆく梅マークの外来機を見送った。
機体の周囲をひとめぐりして搭乗前点検を終えた学生が、俺の前に立ち敬礼する。
「外部点検異状なし、特免事項なし! 空中操作訓練、同乗お願いします!」
「ほい。基本に忠実に、確実にな」
「はいっ!」
飛ぶことを覚えた若鳥たち。
俺はここで彼らを教え育て、いつか共に飛べることを期待して、次のステップへと送り出す。
未来のために種を撒き、健やかに逞しく育む大切な仕事だ。
十年後、二十年後、「空の守りは頼んだぞ!」と心から任せられるように。
目の前の若者たちに、今日も全力で向き合っていこう。