玄界灘に飛梅来たる~リバーの芦屋教官録(2/3)
終礼後、学生の指導を終えると手早くジャージに着替え、バックパックを背負って飛教隊の隊舎を出た。基地と官舎の間は大した距離じゃないが、通勤はトレーニングがてらジョギングするようにしている。
高台にある飛行場地区から正門へ続く坂道を、いつもより急ぎながら走る。自転車に跨ったフライトコースの学生たちが次々に俺を追い越し、食堂目指して駆け下りてゆく。日暮れどき、基地を抜けるひんやりとした風が微かに松の香りを運んでくる――この、すべての学生訓練が無事に終わった、ほっと気が解れる時間が俺は好きだ。事故もなく、緊急事態に騒然となることもなく、フライトスーツに赤帽姿の若者たちが夕飯を食べに自転車を走らせる光景が今日も変わりなく見られる安堵感――ここに赴任してから初めて意識した感覚だ。
戦闘機部隊でギリギリの訓練と実任務にあたっていた時は、上空で猛った後の余韻を引きずったまま帰宅することも多かった。家族の元に帰って風呂に漬かり、夕食を摂ってようやく気分が鎮まってくるような日々を送っていたものだった。あのプレッシャーの強い日常も今となっては懐かしいが、精神的なゆとりのある中でじっくりと後進の指導にあたる今の生活も、案外性に合っていると思う。
官舎に帰り、シャワーで軽く汗を流して着替えると、「須田さんによろしくね」と妻の聡子に送り出されて待ち合わせ場所に向かった。基地の近くを流れる遠賀川沿いにある、安くてうまい寿司を食べさせてくれる店だ。
暖簾をくぐると、ジッパーはカウンター席に座って刺身を肴に日本酒をちびりちびりと始めていた。
「悪い悪い、待たせたなぁ」
「いえ、先輩こそお疲れ様です」
「こっちに着いてからだいぶ時間を持て余してたんじゃないか?」
「基地内を走って、後は町の中をぶらぶらしていました。中森3曹に頼まれた買い物もありましたし」
「モッちゃんに? ああ、そっか」
不意に思い出して笑った――そういえばモッちゃん、要務で他基地に飛ぶパイロットがいると、ちゃっかりご当地銘菓を注文していたっけ。千歳ではクッキーサンド、小松では栗の羊羹、浜松ではうなぎの焼き菓子……で、今、ジッパーの横の椅子には、芦屋町ではおいしいと評判の最中の袋が置かれている。
かつてこの土地で盛んに作られていた茶釜を模した最中で、薄皮の中に控えめな甘さの餡がぎっしり入っている。我が家でも聡子がよく買ってきてお茶請けに出してくれる。
今回の芦屋赴任は部隊配属されてから初の異動だったが、今後は頻繁に各地を転々とすることになるだろうし、せっかくの機会でもあるからその土地を積極的に知っていこうということになった。休日には家族で名所旧跡を訪れたり、郷土資料館に出かけて学んだり、名物料理を堪能したりして、ここ北九州での生活を楽しんでいる。
ジッパーとの久々の再会を祝し、まずは地酒で乾杯。大将おすすめの白身魚の盛り合わせを味わいながら、懐かしく隣の後輩を見る。
「それにしても珍しいもんだ、芦屋で戦闘機部隊のマークがついた飛行機を見ることなんて滅多にないからなぁ。学生たちも興味津々でそわそわしてたよ」
「うちの防衛部長が、定年後の再就職の件でここの援護室に用事があるとかで。航法訓練を兼ねて来ました」
「ほぉ。でも、たまたまとは言えお前がお供にアサインされたおかげだよな、こうやってまた一緒に飲めるのも」
そう言った俺をちらりと見ると、ジッパーは「はい」と小さく頷いて猪口に口をつけた――その様子に「お?」と思う。
「あ、もしかしてお前――自分から同行に手を挙げた? 俺がちゃんと真面目に教官をやってるか偵察しに来た?」
「――まあ……というか、戦闘機部隊から離れて、先輩が気力を失くしていないかと……」
「ジッパー」
歯切れ悪く口ごもる不愛想な後輩を、改めて微笑ましく眺める。
やたらと尖ってカチコチで、なかなか周囲に馴染まない性格ではあるものの、何だかんだで可愛い奴だと思う。
「お前、まだ気にしてるのか? 芦屋に来ることになったのはお前のせいじゃないって何度も言ったろう。大丈夫だから心配するな」
ジッパーは居心地悪そうにしていたが、ぼそりと言った。
「どんな感じですか、先輩、学生教育は」
「うん、面白いよ。人を育てる面白さを実感してる」
偽りなく即答した俺に、ジッパーがそれでも半信半疑の眼差を向ける。
俺はぴしりと背筋を伸ばした。
「いつか一緒に翼を並べると思うと、しっかり育てなきゃならんと思うし、自分も下手なことはできないと思って毎日教育に当たってる。自衛隊のパイロットとなる以上、戦闘操縦者として任務達成できなきゃならん。そのためにまずは課程を通じて基本をしっかり身に着けること。そしてそれと同じくらい大事なことは、何があっても必ず生きて戻ること。この点を、学生たちにはいつも言ってきかせてる」
「『基本に返る、無事帰る』ですね。自分たちも当時の主任教官や副主任から繰り返し言い聞かされました――あのカエルの置物、まだあるんですか?」
「おお、あるよ。もうだいぶ年季が入ってきたけど」
基地の正門から続く道を上り飛行場地区に入るところに、いつの頃に置かれたのか、古びたカエルの石像が鎮座している。飛行安全を祈念して据えられたそのカエルは、今も芝生の上にちんまりと佇んで学生訓練を見守り続けている。
「だからな、俺は学生の頃も今も、験担ぎに毎日あの石のカエルをなでなでしてるよ。芝生を踏むと怒られるから、人目のない時にこっそりな」
ジッパーは笑ったが、俺は別にふざけてやっている訳ではなく、至って真面目な気持ちでカエルに願掛けしているのだ。
「担当コースの学生たちには、課程を終える時に宗像大社の御守りを渡してるんだ。ここで学んだことを忘れないように、同期も同じコースの仲間たちも、誰ひとり欠けることなく自衛官人生をまっとうできるように、とにかく無事に帰ってこい、ってな――やっぱり、殉職はなぁ……残して逝く方も残された方も、やりきれないからなぁ……」
今はもう歳を重ねることのない仲間たちの面影が浮かぶ……先輩、後輩、そして同期……。
事故の報に接する度にやるせない思いに苛まれる。ついこの前会ったのに。ついこの間、一緒に呑んだのに――何気なく共に過ごした時間が最後の思い出となってしまったと知った時の衝撃と虚脱感は、言いようもない……。
猪口の酒を煽って、湿っぽくなった気持ちを払う。
「そんな思いを、教え子たちまでしてほしくはないからなぁ。ここでの教育は操縦の基本を修得させることだけど、自分としては、戦闘操縦者となってどんな時でも必ず生きて戻るための操縦技術・操縦技量を身に着けてほしい、そういう思いで学生訓練にあたってるよ」
そう締めくくり、神妙に聞いているジッパーに話を振った。
「最近、305はどうだ?」