玄界灘に飛梅来たる~リバーの芦屋教官録(1/3)
本編の前、リバーが福岡県芦屋基地の第13飛行教育団で教官として勤務していた時のお話。
(操縦課程ではT-4ではなくT-1が使われ、部隊ではT-33が連絡機として現役で飛んでいた頃です)
日本海、北九州沖上空は穏やかに晴れ渡っている。
ずいぶん春めいてきたなぁ――。
訓練空域に向かうT-1練習機の後席で、空の色を眺めてそう思う。コクピットにはうらうらと日差しが降り注ぎ、なんとものどかな気分になる。玄界灘もいたって静かだ。漁船が数隻、深い藍色の海に真っ白な航跡を曳きながら進んでいる。
しかしまあ、操縦桿を握っている前席の学生は、こんな風にのんびりと和んでいる余裕なんぞないだろう。先を行く1番機に続いて飛びながら、この後始まる訓練課目の反芻で頭がいっぱいのはずだから。
紅白に塗られた翼の向こうに、海原に切り立つ島が見えてきた。宗像大社の三宮のひとつ、「神宿る島」として一般の立ち入りが固く禁じられている沖ノ島だ。冬の間は日本海の荒波に煙るこの島も、だいぶ緑が鮮やかになってきた。
(今日もお騒がせします。すべてのフライトが何事もなく終わりますように)
キャノピー越しにそっと手を合わせ、小さく頭を垂れる。芦屋基地の第13飛行教育団に操縦教官として赴任して以降、いつからともなくこの神の島に向かって飛行安全を祈念するようになった。
305にいた時も日々危険と隣り合わせでフライトに臨んできたが、学生訓練はまた別の緊張感がある。なにしろ、こちらの予想の斜め上をゆく突拍子もないことをしでかしてくれるのが学生なのだ。安全確保には相当に気を遣う。しかも、空に上がっている時のみならず、地上にいる時でさえ油断できない。
地上滑走中に操舵を誤り誘導路灯を踏んづけそうになったり、着陸したものの減速しきれずオーバーランしそうになったり、うっかり余計な計器に触った挙句に誘導路上で立ち往生してみたり……。
やれやれ、まったく……と冷や汗をぬぐうことばかりだが、自分の学生時代を振り返れば似たようなもので、苦笑いを飲み込むしかない。なぜ練習機が赤白塗装なのかといえば、とにかく目立たせるためだろう。課程学生の識別帽が赤色なのも、同じ理由かもしれない――「要注意! 目を離すな!」という訳だ。
そんなことだから、特別な機動をするでもなくまっすぐに飛んでいる今この時でさえ、外の景色を眺めてはいても常に学生と機体の動きに注意を払い、異変があればいつでも操縦桿を取れるようにしている。学生にはできる限り試行錯誤の機会を与え、限られた訓練時間の中で失敗を繰り返しつつ操縦感覚を体得してほしいと思っている。だから極力口も手も出さないように心掛けているが、それはもちろん教官として危険な領域に入る一線をきっちり押さえた上でのことだ。
ほどなくして訓練エリアに到達、学生が力んだ声で報告する。
「編隊からの離脱及び再集合訓練の1回目、実施します!」
「ほい」
前方をまっすぐに飛ぶ1番機からいったん離れ、パワーを調整しながら再び機体を寄せて編隊位置につくという、いわば基本中の基本となる機動だ。一通りの技術を身に着けたパイロットにとっては小難しく考えずとも息をするようにできる操作だが、習熟前の学生では当然そうもいかない。しかも、今回の担当学生は先日も同じ課目で危険操作を行い「不可」の評価を下されている。このフライトでしくじれば、次は飛教班長による習熟度判定を受けることになり、一気に免に近づくシビアな状態になる。相当固くなっていることだろう。
頼むから上手くやってくれよ……夢を断念させたくはないんだ。審査会議で免の決定を言い渡すのは、何度経験しても気分がいいものじゃない……。
学生は操縦の注意点や計器の数値を声に出して確認しながら、そろりそろりと機体を近づけていく。しかし慎重になりすぎて一向に距離が縮まらない。そうかと思うと今度はパワーを足しすぎて急接近。動揺と焦りはあからさまに操縦に現れる。機体は上下にふらつきはじめ、それがまた更に学生の焦りを煽る。
「息を詰めるなー、落ち着いてやれー」と声をかけるが、いっぱいいっぱいの学生にはなかなか届かない。
突然、大きな力に押されたように1番機との距離が縮まった。
「ぶつかるぞ、アイ・ハブ」
とっさに学生からコントロールを取り上げる。すぐさま翼を躱して安全な位置まで機体を離す。操縦桿を取られるほどの失態に、前席の学生が打ちひしがれているのが伝わってくる。
「焦って強引にやろうとすると、今みたいになるからな。慣れない時に基本から外れたことをしても絶対にうまくいかないし、むしろ危険な状態になりかねないから。とにかく基本操作を徹底する。パワーのチェックはこまめにしてたか?」
「あっ……いえっ……疎かにしてしまいました」
「うん、だよな。じゃあ今の失敗を繰り返さないようにしてもう一度やってみ。はい、ユー・ハブ」
「はいっ! アイ・ハブ、サー!」
教育というのは、ひたすら忍耐と根気が求められる仕事だと思う。自分にとってはもはや無意識同然となっている事柄を、ひとつひとつ細かに切り取って、相手の理解度に合わせて噛みくだき、丁寧に、相手の頭に入っていく言葉で伝えてやらなければいけない。
「お前いったい何やってんだ! ちゃんと勉強してきたか!?」と怒鳴りたくなることもままあるが、そこはぐっと我慢だ。怒りに任せてわめき散らしたところで学生のパフォーマンスの質が上がるはずもなく、むしろ思考停止に追い込みかねない。だから命に関わる深刻な事態に直面した時を除いては、極力声を荒げないように指導している――そのせいか、俺は学生たちから「仏のリバー」と呼ばれているらしい。俺が学生だった時代は、上空でヘマをやらかせば、ディブリの時に「馬鹿野郎ッ!!」と分厚いファイルの背表紙が容赦なく脳天に振り下ろされたものだったが、さすがに今はそんな指導はご法度だ。
前席の学生は、何度か操作を繰り返すうちに向上が見られてきた。到達度としてはまだまだだが、この後、着陸までをいつもどおりにこなすことができれば、どうにか可の評価は出せるだろう。
ほっとしていたところに、1番機がすーっとこちらに寄ってきた。見ると、後席に乗っている先輩教官の<ブル>が人差し指を立ててクルクルと回している。
離陸前に、「な、訓練終わりにいっちょやろうぜ」と耳打ちされていた一件だ。先輩は「学生にもたまには刺激を与えてやらにゃ」ともっともらしく言っていたが、実のところは自分が一番やりたいのだ。
まったく――苦笑いでオーケーサインを返す。先輩はたちまち翼を傾けると、勇んで離れていった。
何事かと途惑っている学生に教えてやる。
「えーとなぁ、ちょっとひとつ経験ということでな、これから模擬格闘戦を見せてやるから」
「えっ……? はい!」
「そこそこGがかかるから、しっかり腹に力入れて息張っとけよ」
「はいっ!」
一気にスロットルを押し上げる。パワーを得た機体は軽快に加速してゆく。学生訓練ではなかなか出せない、抑える必要のないスピード感はやはり心地いい。凪いだ海の上をまっしぐらに突き進む。その先に、対向してくる赤白のT-1。淡い空にくっきりと映えるその姿は、ぐんぐん大きく近づいてくる。
すれ違う一瞬、即座に機体を傾け旋回に入る。
「ファイツ・オン、よいしょ!」
戦闘機ほどの機敏さはないT-1。それでもぐうっとGが立ち上がる。およそ4G。前席の学生が唸っている。きついだろうがまあ頑張れ。F-15に比べたら、こんなのまだまだ大した負荷じゃない。
旋回を繰り返しながら対抗機を追いかける。対戦相手の先輩は、教官歴が長いとはいえ元はあのF-1乗り。癖の強い戦闘機を職人技で乗りこなしていた手練れのベテランだ。だが俺も、第一線の現場から来たイーグルドライバーとしての矜持がある。勝負に臨むからには勝ちにいく!
追いつ追われつするうちに、機体は次第に速度エネルギーを失ってきた。T-1は性能限界めいっぱいのところで踏ん張っている。それでも、その動きにもたつきが出はじめた。相手も同じ状況になりつつあるのが見て取れる。だからといって油断はできない――気を引き締めたまさにその時、予想どおりに先輩が動いた。F-1で鍛えた腕でへばりかけた機を見事に操り、その機首でこちらを捉えようとする。
負けてたまるかぁ……!
すかさず躱して反撃を目指そうとしたが――。
『ブル、リバー、状況終了。特別訓練はそこまで』
突如割って入った一声に、俺も先輩もそそくさと散開した。キャノピーに走った影に顔を上げると、頭上を1機のT-1が追い越していく。声の主の飛教隊長だ。タイミング悪く見つかってしまった。
『他の訓練機は帰投フェーズに入った。両機も速やかに基地に向かえ――ふたりは後で隊長室に出頭するように』
しかつめらしい声音だが、若干の笑いも滲んでいる。いつぞや何かの話の時に、「実は若い頃、関門大橋の下をくぐり抜ける機会を虎視眈々と狙ってたんだよな」と、あながち冗談でもなさそうな顔で語っていたくらいの人なので、隊長職でもなければ率先して今回の特別訓練に参加していたかもしれない。まあでも、とりあえずお小言は頂戴することになるだろう。
――おっと、それはそうと学生はどうした? うっかり本気になりすぎて前席の同乗者のことは頭からすっ飛んでいた。
「おーい、起きてるかぁ?」
声をかけると、潰れたような声で返事があった。
「すまんすまん、つい調子に乗ってやりすぎた」
学生が正気に戻った頃合いを見て操縦を渡し、帰投するよう指示して続けた。
「まあ、あんな感じでな、部隊では日々訓練してるってことでな。今のお前たち学生にしてみたら遥かに先のことすぎて、それこそたどり着けるかどうかさえ分からないように感じるだろうけど、今できることの積み重ねが目標への道を作るからな。焦らず地道に、着実にやっていけ。部隊で一緒に飛べるのを待ってるからな」
「はい! 絶対に戦闘機に乗れるよう頑張ります!」
「うん。まずはこのフライト、着陸まで気を緩めずにしっかりな」
「はいっ」
学生が弾んだ声で応える。
さっきのようなちょっとした出来事であっても、それが学生の刺激となり、将来の自分の姿を重ねて訓練の励みになるのなら何よりだ。
今、基地へと向かう学生の操縦は、これまでとは違って余計な力みが抜けている。次回のフライトではどの教官が同乗するかは分からないが、ぜひとも良い方向へ伸びていってほしいものだ。
――そんな期待を抱きながら洋上を進むうちに、正面には穏やかに白波が寄せる芦屋海岸が見えはじめた。
ふと、基地の管制官を呼び出す無線交信が流れる。
『芦屋GCA、こちらエンジョイ13。まもなく大島上空』
おっ?――思わず耳を澄ませる――馴染みのあるコールサイン。そして聞き覚えのある不愛想な低い声。
『エンジョイ13、こちら芦屋GCA。レーダーで確認。使用滑走路12』
『エンジョイ13、了解』
「ちょっといいか」と学生に断ると、あえてゆっくりした口調で管制官を呼び出した。
「芦屋GCA、こちらゲンカイ27。周辺の在空機の情報をリクエスト」
要求に応じて管制官から各機の方位と距離、高度の情報が伝えられる――先行して帰投しているT-1が5機、洋上訓練に出かけてゆく芦屋救難隊の所属機MU-2とV-107、低高度を行き来する民間ヘリ……そしてこの学生訓練機の後ろに続く外来のT-33。
「ゲンカイ27、了解」
今の短いやり取りを聞いて、外来機のパイロットは気づいただろうか――マスクの下で思わず笑みが浮かぶ。
「後続のT-33、百里の305みたいだなぁ」
「えっ」
「後ろからの圧が凄いかもしれないけど、落ち着いてなー」
着陸に向けて、学生は慎重に高度を落としていく。緩やかに弧を描く海岸線と松林の防砂林を越えれば、そのすぐ向こうが滑走路だ。
幸いなことに学生は操作、手順ともに目立ったミスをすることなく着陸し、問題なく機体を駐機場に運び、今回の訓練を無事終えた。もちろんフライト全般を通じて細々とした指摘事項はあるが、まあ致命的な評価を下す必要はないだろう。
機上でヘルメットを脱いでいると、抑えたエンジン音が聞こえてきた。1機の航空機が着陸したところだった。照りのある銀色の機体に、翼端にはオレンジ色の燃料タンク――特徴的な外観は、例のT-33だ。ゆっくりと進む誘導車に導かれて飛行場勤務隊前の駐機場へと向かっているが、微妙に両者の距離が縮んだり離れたり、どことなくT-33がフォロミーをせっついているように見えなくもない。
焦るな焦るな――操縦席のパイロットを想像して、また少し笑ってしまう。
機体を降り、学生や整備員とちょっとしたやり取りを終え、飛教隊へ戻ろうとした時――無線を聞いて予想したとおりの、見知った姿を遠くに認めて足を止めた。
ヘルメットバッグを持ち、装具をつけたままのパイロットが足早にこちらにやってくる。上背のあるがっしりとした体躯で、目深に紺色のキャップをかぶり、まさに肩で風を切るように大股で、一心に歩いてくる。通りすがりの学生たちがその姿に気づいて遠くから敬礼したのだろう、「お疲れ様ですッ!!」という畏まった大声が吹きさらしの駐機場に響く。パイロットは歩みを緩めることなく軽く答礼し、また真っすぐこちらに向かってくる。
俺は立ち止まったまま、白く光るコンクリートの照り返しに目を細めた。吹き渡る潮風に乗って、松林のにおいが濃く鼻先をかすめた。
変わってないな――自然と笑みが浮かぶ。
「――リバー先輩!」
「久しぶりだなぁ、ジッパー。2年ぶりくらいか?」
「2年と2か月ぶりです」
生真面目にそう答えた後輩を、つい微笑ましく眺めてしまう。やはり以前と変わらない。
ジッパーの肩越しに、駐機されたT-33の周りで困ったようにうろうろしている隊員が見えた。
「お前、フライトプランをちゃんとクローズしてきたか? 飛行場勤務隊の隊員がお前のこと探してるみたいだぞ。積もる話は飲みながらでも――今日は日帰りか?」
「基地泊です。明日も離陸は午後なので」
「じゃあゆっくり飲めるな」
「はい。でも先輩、夜間飛行訓練は入っていないんですか」
「うん、大丈夫。ナイトはないと」
北九州弁で張り切って答えた。ジッパーは呆れたような痛々しい目を向けてきたが、俺は満足だ。なにしろ一度はこの芦屋基地定番ギャグを言ってみたかったのだ。