スタートダッシュは要注意~イナゾーのスクランブル訓練
※イナゾーがまだ曹長でTRだった頃のお話です。
「おーい、イナゾー! スクランブルの訓練始めるぞ!」
のんびりとした午後の昼下がり。甘いコーヒーを飲みながら一息ついていた俺は、ハスキーの大声に呼ばわれて大急ぎでオペレーションルームに駆けつけた。
「とりあえず今日はしょっぱなの部分だ。まあ、お前もこの前アディ―がやってたのを見てたから要領は大丈夫だよな。待機してる状況からスクランブルがかかって搭乗機にダッシュ、5分以内に離陸――この一連の流れだ。分かってると思うが本当に上がるなよ、模擬離陸だからな」
念押しされ、俺は気合充分に頷いた。上空での要撃訓練が数日前から始まっていた。今日は緊急発進指令の下令から離陸する手前まで――地上滑走して離陸直前でエンジン出力を落とし、そのまま駐機場に戻ってくるというシナリオだ。
実際の出動では下令から5分以内に離陸する規定になっている。高速で迫りくる国籍不明機を日本の領空手前で阻止するためには、一秒たりとも疎かにはできない。
当然のことながら、訓練でできないことが本番でできるはずがない。いざという時に整斉と任務を遂行できるようにするためには、ひとつひとつの訓練の積み重ねが重要となる。もちろん、今回の模擬離陸訓練も気を引き締めて本気で臨むつもりだ。
そして何より――この訓練では、絶対に気が抜けないことがひとつある。
その証拠に、そら、手隙の先輩や同僚たちがやる気満々の顔でさっそく集まってきた……。
ハスキーがブリーフィング用のデスクを指し、至って何食わぬ様子で説明を続ける。
「いいか、ちゃんと状況に入れよ。ここはアラート待機室のソファー。で、ここが飛行管理員のいるカウンターだ。モッちゃんが『スクランブル』って叫んだら、そこのドアからアサインされてる機体までダーッと走る。じゃ、状況開始な」
急いでGスーツを身に着け、準備を整えて戻ってくると、ポーチが「リーダー役やってやるよ」とトランプ片手に椅子に座り込み、カードを切りはじめた。他の二人の先輩もバックアップ役で加わって、時間つぶしのポーカーが始まる。これも状況の一環だ。
手持ちの札を睨みつつ、しかしカウンターの中にいるモッちゃんの動きが気になって気になって仕方がない。
高みの見物を決め込んでいる先輩たちから、さっそく冷やかしの声が飛ぶ。
「お前、もっとちゃんと腰掛けとけよ」
「そんなに気張ってたら24時間も持たないぞ。リラックスしろって、リラックス」
この、いちいち茶々を入れる先輩たちこそが要注意なのだ。何日か前に同じ訓練をしたアディーもまんまとしてやられていた。
『アディー、電話です』
ひっかけ工作の始まりは待機訓練中にかかってきた一本の電話だった。飛行管理チーフの荒城2曹に取り次がれて応答に立ったアディーは、困惑顔で受話器を耳に押しつけた。
『お電話代わりました、村上曹長です――もしもし? すみませんがお名前をもう一度……。すみません、ちょっとお電話が遠いようで……』
相手の声を聞き取ろうと一生懸命になっていたまさにその時、モッちゃんの一声が容赦なく響いた。
『スクランブルッ!』
『えっ……あっ……ええっ!?』
不意打ちに面食らい、通話相手をうっちゃっていいものか律義に迷うアディーの向こうから、『ぼさっと突っ立ってないで早く走れーっ!』と怒鳴る声が飛んできた。見ると、オペレーションルームの隅の方で、受話器を持ったポーチが喚いていた。アディーはそこでようやく担がれたことに気づいて駆けだしていったのだが――つまり、先輩が嘘の電話をかけ、何食わぬ顔で飛行管理員が取り次ぎ、通話の最中にスクランブルをかけるという、皆で示し合わせての状況付与だった訳だ。先輩たちは搭乗機まで大慌てで走るアディーの背中に向かってやいのやいのと囃し立てていた。
そんなことだから、今回も必ずどこかにひっかけを仕込んでいるに決まっている。しかし、俺は絶対にあんなヘマはしない! 「スクランブル」の「ス」が聞こえた瞬間即ダッシュだ。まごつくことなく飛び出してやる!
カウンターの電話が鳴った。
ついぴくりとして、耳をそばだて身構える。
対応していたモッちゃんがオペレーションルームに響く声を上げた。
「すみませーん、どなたか厚生班の田辺3曹に電話した方いますかー?」
「す」と聞いて跳びあがり、しかしすごすごと腰を下ろす。「フライングすんなよぉ」とギャラリーから冷やかしが飛ぶ。
きまり悪く思いながら手の中のカードに注意を向けるが、どこで小細工をしているか分からない先輩たちも油断ならない。
落ち着かない気分でいると、再び電話がかかってきた。
よし、今度は来るか!?
「須田2尉、司令部の工藤3佐からお電話です!」
なんだ、またフェイントかよぉ……!
腰を浮かせた俺を見て、モッちゃんがニンマリしている。出しに使われて不本意そうなジッパーに受話器を渡すその様子は、心なしかとても楽しそうだ――モッちゃん、絶対遊んでるな!? 普段「須田2尉」なんて呼び方しないだろ!
非難がましく見やっても、当の彼女は涼しい顔だ。
まあ……確かに気張りすぎも良くない。実際にアラート待機に就くとなったら、24時間ずっとこんな調子でいるわけにはいかない。もっと気を楽にして……。
ひとつ深呼吸をして手札を持ち直した時、再び電話の着信音が鳴った。と――。
「スクランブル!」
来たッ!!
今度こそカードを放り出し、ドアをめがけて突進する。
力任せに押し開こうとした、その瞬間。
バッチーンッ!!
派手な音が響いて目から火花が散った。顔面を扉に強打し、勢いそのまま後ろにひっくり返る。
いっ……痛ぇ……! 何で?? 何で鍵がかかってるんだよ!?
強烈に痛む鼻と額を押さえて唸っていると、ハスキーにどやしつけられた。
「いつまで寝っ転がってんだ! 走れ走れ! もたもたするなーッ!!」
よろよろと立ち上がり、チカチカ瞬く視界の中で手さぐりに鍵を開け駐機場に転がり出る。
くっそぉ、そうくるとは思わなかった……! こんなの想定外すぎる! だが今はとにかく急げ! 猛烈ダッシュで搭乗機へ……。
気持ちは逸る。が、いかんせん遠い! とにかく遠い!!
離陸機はすべて出払い、だだっ広い駐機場はすっかりはけている。その最奥にぽつんと残る1機のイーグル。そして手持無沙汰に待っている整備員たち。
誰だよ! わざわざエプロンの隅っこに機体を置いたのは!
「1分30秒経過!!」
飛行隊舎の出入り口から、カウントするハスキーの大声が追い立てるように飛んでくる。
かなりの距離を、ウォームアップなしでいきなりの全力疾走。喘ぎながら梯子に飛びつき、つりそうになる足で駆けのぼる。
コクピットに飛び込むと同時にJFSのハンドルを引き、エンジン起動。ヘルメットとマスクを装着、救命胴衣を背負い込み、ハーネスを締めながら計器の動きに目を走らせる。ハプニングの動揺と酸欠のせいで、スイッチを操作する指が情けないほどブルブルしている。整備員にハンドサインを送り、高まってゆくエンジン音を意識しつつ計器の数値を確認、管制塔を呼び出す。
「ひゃ、百里管制塔……こちら、エンジョイ、ハアッ……エンジョイ20、フゥッ、模擬離陸による、スクランブル訓練、ハアッ……。か、滑走許可、願う」
息が上がって送話の声がみっともないほどぶつ切りだ。
『エンジョイ20、こちら管制塔、了解。使用滑走路は03。誘導路及び滑走路の走行を許可する。風は340度方向より4ノット』
管制官から淀みのない応答が届く。だがその声には明らかに笑いが滲んでいる。離着陸機のないこの時間帯、一目散に駆けるヒヨッコパイロットを管制室から発見して、「おー、やってるやってる」なんてみんなで楽しく眺めていたに違いない。
切れ切れの息で管制承認を復唱し、整備員にタクシーアウトを示して機体を発進させた。誘導路を進み、焦る勢いで滑走路に入る。すぐさまエンジンのパワーをアップ。途端にぐうっと軽いGがかかり、機体はみるみる加速していく。滑走路半ば、まもなく離陸――その間際でスロットルを引き下げた。出力が落ち、轟いていたエンジン音が一気に窄まる。スピードブレーキを開き、機体を更に減速させる。模擬離陸はここまでだ。
スクランブルの下令から離陸までに定められた時間は5分。今回、一体何分かかっただろう。走り出る時に腕時計のストップウォッチをスタートさせるつもりだったのに、意気込みすぎて完全に頭から吹っ飛んでしまった。
スタートダッシュのハプニングに始まって、このままフルパワーでドーンと空へ上がる訳でもなく、すこぶる不本意かつ不完全燃焼な気分だ。
駐機場に戻って機体を降り、キレの悪さにしおしおとオペレーションルームに帰ると、ハスキーがストップウォッチを手に待ち構えていた。
「離陸までのタイム、6分53秒! 遅すぎる!」
しかめ面でがなるハスキーは、しかし無性に嬉しそうだ。引っかけ作戦が大成功に終わってご満悦なのだろう。周りの先輩たちもウンチク顔で口々に言う。
「実動だったら始末書確定だぞ」
「上がるのは5分以内の決まりだけど、そもそも本番で5分近くもかかるようじゃ話にならないからな。せいぜい4分ちょいくらいでないと」
「かと言って焦りは禁物、平常心を忘れたらいかん。お前の地上滑走を見てたら、誘導路で離陸するんじゃないかと心配になったぞ」
次々にダメ出しされ、俺は思わず反論してしまった。
「いやっ、でも! 出だしにあんなことがあったら焦りますよ! 普段は鍵なんてかかってないじゃないですか! それに、実際は待機室から搭乗機まではもっと近いですし!」
「グダグダ言うなって。いつものことがいつもどおりにあるとは限らないだろ。どんな状況でも臨機応変に対応できてこそだ。ゲームしてようがテレビ観てようがションベンしてようが、スクランブルのベルが鳴ったら即ダッシュ! 何があっても絶対に5分以内には上がる!」
スッパリ言い切られてぐうの音も出ないまま、用足し中に飛び出す自分の姿を想像してみた――いや、笑うに笑えない。そんなみっともない真似をしでかしたが最後、永遠に飛行隊の語り草だ。
「じゃ、じゃあ、腹を下してる時なんかはどうするんですか」
「便所に籠りたくなった時は一旦バックアップと交代してもらうんだ。まあ、その場合はしっかり要員交代の報告が司令部まで行くけどな、『爆撃のため』って」
「そうなんですか!? カッコ悪すぎる……」
「気取ったって仕方ねぇだろ。漏らすのが心配なら大人用のオムツでも履いとけ。そうすりゃコクピットの中で我慢しきれなくなったって安心だからな」
冗談なのか本気なのか、ハスキーは真顔でそう言って、「よし! とりあえず訓練終了!」と上機嫌で場を解散させた。
「イナゾーさん、ぶつけたおでこは大丈夫でしたか? ガラスが割れたかと思うくらい凄い音でしたよ」
モッちゃんに心配されて額に手をやってみると、見事に特大のたんこぶができていた。一部始終を見ていたアディーからは、同情のこもった苦笑とともに、「お疲れ」と気の毒そうに労いの言葉をかけられた。
まったく、散々な訓練だった。実際にアラート待機に就くとなったら、いつ現れるとも知れない国籍不明機に備えるだけでなく、一緒に勤務にあたる先輩たちにも警戒しないといけなくなりそうだ。どこでドッキリを仕掛けられるか分かったものじゃない。
しかし、だとしても!――ズキズキと痛む額をさすりながら、俺は奮起して胸に誓った――もしまた同じようなことがあったとしても、次は絶対に引っかからないからな!