貴女の熱に浮かされて
涼が鏡子の家を訪れたのは午後六時を回った頃だった。
委員会を休むか早く抜けて出たかったものの、上手くいかなかったのだ。もう日も暮れかかってしまっている。
鍵は開いていたので、そのまま中に入って鏡子の部屋に向かう。
扉をそっと開けると、部屋の電気は点いていなかった。窓のカーテン越しから微かに夕景の光が差しているが、ほぼ真っ暗だ。ベッドに鏡子が横たわっているのはわかるものの、眠っているのか、その輪郭すらもよく見えない。
ここで涼は自分が提げているビニール袋のことを思い出した。中にはスポーツドリンクのペットボトルとゼリーが入っている。
起きている時にそのまま飲んだり食べたりするならともかく、眠っているところをわざわざ起こしてしまうのは悪い。
冷蔵庫にしまわせてもらって、残念だけど帰ろう。そう思った時、
「……涼ちゃん?」
部屋の方からくぐもった声が聞こえてきた。
涼が振り返ると、ベッドの上で人影が起き上がっているようだ。
「電気点けてくれる?」
言われて涼は即座に部屋の電気を点けた。
明るくなった部屋で、涼はベッドの方を見た。 そこには、ピンクのパジャマを着て額に熱冷ましシートを付けた鏡子の姿があった。
「涼ちゃん、お見舞いに来てくれたの?」
「うん、来た」
嬉しそうに微笑む鏡子に、涼も笑顔を返そうとした。けれど、上手く笑えていないような気がした。普段からあまり得意ではない笑顔がもっと不得意になっているように思えた。
涼はベッドから半身だけ起こした鏡子に近づく。
「具合はどう?」
「大丈夫だよ。ずっと寝てたから」
力こぶを作るポーズをとる鏡子だが、その頬は紅潮している。熱はまだ下がりきっていないらしい。
「涼ちゃん、ごめんね。わざわざ来てくれて」
「ううん、良い」
本心ではもっと早く鏡子の元へ行きたかった。彼女よりも優先すべきことなどないのに。
涼は提げていたビニール袋から中身を取り出す。
「スポーツドリンクとゼリーを買ってきた。良かったら飲む?」
「ええっ、ほんとに? ありがとう涼ちゃん」
鏡子の自然な笑顔を見て、ようやく涼も表情を少し緩ませる。
ベッドの上でスポーツドリンクを美味しそうに飲む鏡子を、涼はその隣に座って見届ける。
「聞いたよ。昨日から熱っぽかったんでしょ。どうして無理したの」
「無理したつもりはなかったんだよ。ほら、わたしって部長だから。色々やっておかなきゃいけないことがあって」
鏡子は吹奏楽部の部長だ。人数を多く抱えた部活故に責任は重く、その上来月に大会を控えていて仕事量とプレッシャーはさらに増していた。鏡子が今回体調を崩したのもそれが祟ってのことだろう。にも関わらず、鏡子は前日も一部員としての厳しい練習だけでなく、部長の仕事にも励み、翌日自分が不在になった場合の指示と引き継ぎまでしていたのだ。
「周りの心配ばかりしてないで、自分を大事にしないと」
「えへへ、ごめんね」
それが正しいことは涼にも解っている。他の人たちの為になっているということも。
けれど、目の前で弱っている鏡子の姿を見ていると、どうしても受け入れることができない。
遣り場のない寂しさが心の中に降り積もる。
「涼ちゃん……?」
熱で上がった体温のせいで少し潤んだ瞳。いたたまれなくなって、涼はつい目を逸らしてしまう。
今苦しんでいるのは鏡子のはずなのに。
どうして私まで胸が苦しいのか。
苦しいだけじゃない。寂しさや怒りにも似た感情まで奥底から湧いてくる。
体調が悪いならちゃんと打ち明けて欲しかった。他の誰かに頼るのならば、誰よりも私に真っ先に頼って欲しかった。
もしも私に心配をかけたくないなんて考えていたなら、そんな寂しいことを思わないで欲しかった。
涼自身、自分の感情が筋違いであることは解っている。
涼は鏡子の熱い頬にそっと触れる。
「鏡子……」
どうして私を好きになってくれたのか。その問いを考えない日は涼にはなかった。
可愛らしい風貌で眩しい笑顔を周囲に振りまき、多くの人間を惹きつける。一生懸命になるものがあって充実した日々を送る彼女。
片や、感情を表に出すのが苦手で、不器用で、臆病で、手を伸ばすこともできずにただ憧れの存在を見つめていた私。
釣り合うはずがない。それなのに、もう鏡子を求めずにはいられない。
自身の頬に触れる手に、鏡子は自分の手を乗せた。
「ふふっ、涼ちゃんの手、冷たくて気持ちいい」
その言葉通り、気持ちよさそうに鏡子は目を細める。
「それだけ熱があるってことだよ」
平静を装って言葉を継いでも、涼の心はひどく不安定に揺れている。
鏡子の表情、鏡子に触れて触れられた手の感覚、それらが激しく渦巻き、吹き荒れ、涼の身体を突き動かした。
涼は鏡子に覆い被さって唇を重ねた。離れては合わせて。重ねるごとに唇同士が触れる深さが増していく。
「涼ちゃ、んっ、うつっちゃう、か、ら……!」
水面で息継ぎをするように言う鏡子に、
「いいよ。うつせばいいじゃん」
自分で思っていたよりも強い口調で涼は返した。
涼は左手で鏡子の細い肩を抱き、右手で柔らかい髪を撫でる。指を通した鏡子の髪は汗で僅かに湿っていて、撫でるたびにその芳香が涼の鼻腔をくすぐる。
息継ぎをしてもなお呼吸が辛くなってきて、二人の唇が一旦離れる。その間にできた透明な筋が小さな雫となって、鏡子のパジャマのシャツの上に垂れる。
肩を揺らして呼吸を整えていると、身体に酸素が戻ってくるのと同時に、涼の理性が回復する。目の前の鏡子は同じように呼吸を整える涼よりも苦しそうに見えるからだ。頬の紅潮は増し、潤んだ瞳の縁から微かに水が溜まり、吐く息が涼の顔を這うようだった。
「鏡子、あの、」「涼ちゃん」
涼の言葉を今度は鏡子が制する。両腕を涼の首の後ろに回して、頭同士を鼻先が触れそうなほどにまで近づける。
「……涼ちゃん、いいよ?」
呼気が多分に含まれた鏡子の言葉は、涼の中に戻りつつあったモノを完全に破壊した。
再び二人の唇は重なり、もはや啄むようであった。涼の指が鏡子の身体に触れるたびに出てくる甘い声。細い指先は下へ下へと下がり、下腹部を輪を描くように愛おしげに撫で回す。
病人に何をしているんだろう。
無理をさせてはいけないのに。
そう思いながらも、涼は止められなかった。鏡子を求める身体を。内から掻き立てる激しい心を。
あなたが欲しい。私だけのモノになって欲しい。私だけを見て欲しい。私だけを求めて欲しい。
私以外の何もかも全て忘れてしまえばいいのに。
窓から差す朝日とスズメの鳴き声で、鏡子は目を覚ました。怠さが抜けて眠りにつく前よりも頭がはっきりしている。一晩で熱が下がったのだろう。
鏡子が傍らに目をやると、涼が鏡子に寄り添う形で横になって寝息を立てていた。彼女の長い睫毛は伏せられたまま動く様子は見られない。
涼の無防備な姿を見て、鏡子は微笑んだーーいつも彼女が浮かべる周囲の笑顔を誘うような明るいものではない。目は逆さ三日月の形に細めて、口元がパックリと裂けるような笑みだ。
鏡子は恋人を前にただ一人心から笑っている。
体調を崩したのは予定外なことで不快ではあったが、このように涼から求められるのならば儲けものかもしれない。
昨夜の交わりを思い出して、鏡子の笑みはさらに深くなる。今まで涼がここまで自分を求めてくることはなかったからだ。彼女の切ない胸の内は知っていた。だからこそ、それが表に出てきたことが嬉しかった。
涼は知らない。彼女が思うよりもずっと激しく深く鏡子から愛されていることを。
鏡子は人との交流が多く、自身が人に好かれやすいことを知っている。それ故に、人の欲や醜さをも知り、摩擦の中で彼女の心は擦り切れていた。
しかし、闇の中に刺す一筋の光。彼女は自分に向けられる純粋な一つの眼差しに気づいた。
不器用だけれど汚れなく。愛想がなさそうでも愛おしい。
周囲の多くが気づかない涼という存在に鏡子は気づいた。
涼は一方的に憧れを抱いていたのかもしれないが、鏡子は鏡子で誰にも手をつけられていない原石を見つけた。
彼女は涼に近づき、その想いに応えたーー正確を期すならば、涼の憧れに鏡子の愛着を触れ合わせた。
この子はこんなに可愛いのに、誰もそのことに気がつかない。そんな可愛い子がわたしを求めてくれる。
わたしだけを。
涼の世界の狭さがより一層愛おしく思えてくる。
近頃は涼も委員会などに顔を出し、他人との交流も増えてその世界を広げていくようだけれど、鏡子は気に留めなかった。
秤に乗せて自分よりも軽いものが増えていくだけ。そして、それらは積もることなく皿から流れ落ちる。自らを脅かすことは決してない。
そうなるように、これまで得た繋がりを利用して仕向けているから、鏡子は安心していられる。
鏡子は未だに眠る涼の真っ直ぐに流れる髪を撫でる。長い髪の毛をいくつか掬い取り、鼻に近づけて息を吸い込むと、たちまち彼女の内は幸福感で満たされる。
すると、涼は微かに身じろぎした。瞼の下の目が動き、ゆっくりと開かれる。鏡子が涼を見つめる目と視線が重なって、涼の瞳に光が戻ってくる。
鏡子は表情から一切の邪気を振り払い、口を開けて明るい笑顔を作った。
「おはよう、涼ちゃん」
ああ、なんて愛おしい、わたしだけの彼女。
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