第四五話 碧空、胡蝶の夢を思う
第四五話『碧空、胡蝶の夢を思う』
瑠璃は瞬く間に邑のアイドルになった。
誰にだっこされても嫌な顔ひとつせずにこーっと笑う。
空腹やうんちはだぁだぁと騒いで教えてくれるし。
夜泣きもしないので、不気味なくらいストレスフリーな子育てだ。
碧空がだっこしたときだけ服や手をぎゅうぅと握ってしばらく放さないのが唯一困るといえば困るところか。
失恋王子こと不戯はといえば、たまに絡み酒の涙酒で手がつけられなくなるが、さすがは玉鼎真人が太鼓判を押すだけあって、彼の武術指導は素晴らしく邑人はメキメキと腕を上げていった。
これで邑の外で猛獣や妖怪に襲われても身を守ることくらいできるだろう。
玉鼎真人の言によると、不戯は一途過ぎて恋愛の未練が強すぎたのかもしれない。感情を捨てきれず術の会得に至らなかったのかもしれない、と。
もしかして先に失恋してから修行を始めれば仙人になれたのだろうか。
まぁ、それも今さらな話だけれども。
ある頃から酔いが回りすぎると、碧空が呼ばれるようになった。
不思議と碧空を相手にすると少し大人しくなるのだ。
「で、そんとき義母上がな~……で、叱ってくれたのも義母上で……なぁ、聞いてるか、空」
「はいはい、聞いてるよ」
耳がタコになるくらい同じ話を聞かされる碧空にはとんだ災難だが、そんなに苦でもない。もしかしたら転生前にもよくこんなことがあったのかも知れない。
相手は祖父か父親か。
男子高校生だったはずだから、上司や同僚ということはないだろう。
いや、だが実際、男子高校生だったという記憶も怪しくなってきた。
こちらで生きていく間に記憶がおぼろげになってきたのだ。
こちらの世界の常識と日常に塗りつぶされていく。
転生前のことはあるいはなにかの間違いで。
案外、男子高校生でもなんでもなく、場末のスナックのママとか動物にしては賢いペットの犬とかだったのかも。
いや、そもそも。
この現実が、胡蝶の夢ではないと言い切れない。
自分がずっと自分であることを保証できるものなんてなにもなく。
胡蝶のみている夢の登場人物に過ぎないとも。
ただでさえ仙人や妖怪といった不可思議に出会うのだから。
……なんて。
「お前を相手にしてるとなんか落ち着くんだよなぁ。話もちゃんと聞いてくれるしよぉ」
すっかり不戯に気に入られてしまったようである。
「せめてお前があと十年早く生まれてたらなぁ」
そういうのは勘弁である。
「尻をさわるのになぁ」
セクハラ親父か!
不戯がすっかり酔っぱらって寝息をたて始めてしまうと見計らったように戒羽がやってくる。
碧空の体格ではとても運べない。戒羽は碧空と二つ三つしか違わないはずで体も少年の域を出ないがここ一年ですっかり逞しく精悍になった。
大柄な不戯を担ぎ上げて碧空の代わりに運ぶのだ。
「毎回よく付き合えるな」
不戯の酒癖は悪い。
絡み酒涙酒のスイッチが入ると戒羽は辟易として逃げ出してしまう。
なのに碧空は逃げずに酔い潰れるまで付き合うのだ。
「誰にだって吐き出したい愚痴や不満はあるものですよ。納得されなくてもいい。素直に吐き出させてくれる場所、受け入れてくれる相手。そういうのがあってほしいものじゃないですか」
「……そういうものか。なんか、えらいな、お前」
「戒羽にはないんですか? 私でよければ相手になりますけど」
「俺がお前に……俺は、いや、別にない。大丈夫だ」
「そうですか。じゃあもし愚痴ができたら来てください。別にふれまわったりしませんし」
「……覚えとく」