第三七話 不戯、師匠に心情を暴かれる
【第三七話】不戯、師匠に心情を暴かれる
不戯は碧空たちと別れて自宅へと帰ってきた。
自宅といっても、関邑の王族たちが住む、宮殿といっても差し支えないくらいの立派な本宅とは違い、その屋敷のほど近くに構えた小さな家住まいである。
富める関邑の生活水準からいえば、王族どころか裕福な邑人と比べて見劣りするくらいの質素なたたずまい。
召使いも、家事洗濯のために一人だけついている。
不戯は帰るなり、その召使いに今日はもう帰っていいと告げたのだが、召使いの返事は予想外のものだった。
「あの、王妃様がいらっしゃっております」
「義母上が?」
つい大きな声が出てしまい、不戯は口を覆った。
しこたま酒をあおってきたところである。
「そんな嫌そうに言わなくてもいいでしょうに」
奥から現れた王妃は「仕方ないなぁこの子は」とでも言いたげな表情をしている。
華美になりすぎない程度に王妃らしく上質な服装をした、美しい女性である。
翡翠の首飾り。青銅のかんざし。
端整な顔立ちは装飾品に負けていない。
「酒を飲むとこういう声になるんです。俺は」
「はいはい、そうですか」
関王妃は美しい柳眉を歪めて困ったように笑う。
現在の関王は不戯、天翔の父。
だが、その妻、関王妃は不戯の母ではない。
不戯の生母の病死後、後妻として王妃となり天翔を産んだのである。
関王が幼い王妃の美貌に惚れ込み、若くして結婚したため、先妻の子である不戯と関王妃とでは母子というより姉弟のような年齢差だ。
いや、のびるに任せる髭面のために、不戯の方が年上に見えるくらいだ。
「大変。服が汚れています。どうしたんですか」
関王妃が不戯の服の汚れをめざとく見つけた。
不戯は指摘されるまで気が回らなかった。
傷は碧空の薬で治っているが、血や土の汚れはそのままだった。
「酔っ払って転んだだけですよ」
本当は、あんたの息子にやられたんだが。
「でも、血のような染みも。どこか切ったのでは?」
「鼻血ですよ、鼻血。もう止まりました」
お供も側に控えているというのに、自ら世話を焼こうとしてくる関王妃を押しとどめた。
「まったく義母上は……」
昔からそうであった。
正式に義母となる前から、出会った時点で既に王妃より背の高かった不戯を幼子のように扱う。
「だって、いくつになっても大きい子供なんですもの」とは王妃の言だ。
それを嫌がりながらも拒否できないのが、不戯の常だった。
「それで、今日はなんの用事で」
「えーと、それは、その……」
だいたい見当はついている。
父と弟と仲直りしろ、ということだろう。
鳳王ともてはやされ、妙に聡くて生意気な天翔は不戯のことをはっきり嫌っている。
気持ちはわからないでもない。
王の才覚はなく粗暴で自分と仲の悪い連中と親しい男。
しかも仙人の元で修行していて、これまで会ったこともなかったのが、ひょっこり帰ってきて兄だと言ってきても受け入れられまい。
実父である関王も、鳳凰に祝福された天翔を溺愛していて、せっかく修行に出したのに破門されてすごすご帰ってきた落ちこぼれよりも、才ある天翔に王位を譲ろうと考えている。
だからか、不戯には冷たく当たってくるし、なにかと口論になる。
いい加減にしてくれ、と不戯は思う。
天翔に譲位することに抵抗しているのは慣習を重んじる一部の幕臣、親族であって、不戯はむしろ賛成しているというのに。
自分は王になる器ではない。
そんなことはわかっている。
「俺もね、別にケンカしたいわけじゃない。でも、向こうから売ってくるんだからしょうがないでしょう」
「あの人にも、天翔にも、私から言い重ねます。二人も、別にあなたを嫌っているわけじゃないのよ」
いや、違うね。
不戯は思うが、口には出さない。
「わかってますよ。俺だって家族らしく仲良くやっていきたい」
そう言って王妃を安心させてやる。
王妃が帰り、召使いも帰した、その夜更け。
月影に滲み出るように、不戯の家を訪れた者がいる。
「不戯」
「玉鼎師父。あなたもしつこいですね。武術師範の件は断ったはずで」
「わかっている。落とし物だ」
翡翠の首飾り。
王妃の胸元を飾るのとよく似たそれを玉鼎真人は不戯に差し出す。
不戯は「あ」と思って懐を探る。ない。昼間、殴られた際に落としたのか。
「師父自ら、ありがとうございます」
不戯は玉鼎真人から受け取ったそれを大切そうに懐にしまった。
「首にはかけないのか」
「どうしようと俺の勝手でしょ」
「愛しているのだろう?」
「それも俺の……え、なんだって!?」
思わぬ言葉に動揺する不戯に対して。
月下佳人、玉鼎真人は落ち着いた声で繰り返す。
「王妃のことを愛しているのだろう」
数秒。
呼吸するのも忘れた。
「な、なに言ってんですか。あの人は母親ですよ」
「血のつながりがなければ問題としない」
「なにか証拠は」
「その首飾りは私の洞府へきたときにお前が持ってきた、唯一といってもいいもの。先程の王妃も同じものを持っていた、ということは 揃いで作ったのだろう」
「よく見てますね。でもそれだけじゃ」
「その石、想いが宿っているな」
「は?」
「石には生き物の感情が宿る。教えたろう。私には見える」
玉鼎真人は告げた。
「積年の愛慕の情が染みついている」
「せ、せきねんのぁ!?」
ちゃんと言えない不戯であった。