第二話 老人、子供の手を借りて猿妖怪を捕らえる
【第二話】老人、子供の手を借りて猿妖怪を捕らえる
そのとき。
ふいに、老人の頭の上に影が射した。
振り返れば羅刹と化した老人の、さらに倍はある大きな猿が立っていた。
この大きな猿を狒々という。
短い下半身に比べて上背が高く肩の筋肉が異様に発達している。
口を開けば恐ろしい肉切り牙がのぞいた。
妖術使いのお爺ちゃんの次は、猿の化け物とは、とんでもない世界だ。
「うまそうな匂いにつられて来てみれば、懐かしい顔があるじゃねえか。やい、じじい。八海山の猿廖だ。忘れたとはいわせんぞ」
銅鑼のような声を響かせて恫喝するが老人にはどこふく風というもので。
「はて。覚えておらんの」
老人はとぼけているが、この猿妖怪の怒りは尋常ではない。一体過去になにをしたというのか……。
「思い出せ! 山中の梨を独り占めにしていたらお前に全部巻き上げられた猿廖だ!」
しょうもない理由だった!
「というか、前から梨泥棒してるんです?」
「梨泥棒とは失敬な。そもそも大地より勝手に生えるものは、誰の物でもないはずじゃ」
これは、まるで反省していないな。
「それで? 猿廖とやら。お主もわしに梨を弁償しろと言いたいのか?」
「ふん。今さらあんなもん。返してもらおうなんて思わんさ。今は別のものを食っとる。なんだかわかるか?」
「どうせろくでもないもんじゃろ」
「最高のごちそうさ! お前ら人間の肉ってやつはなぁ!」
猿廖が襲ってきた。その爪は鋭く、人の体を容易く切り裂く。
「ほらみろ、ろくでもない」
老人は素早い動きでその爪を逃れる。
「梨の代わりだ。その梨臭い肉を食わせろ」
「え? わし、梨臭い? まじで?」
クンクンと自らの臭いを確かめる老人。
「大丈夫じゃ。元々臭いから」
「全然大丈夫じゃない!」
余裕ぶってはいるが、老人は徐々に追い詰められていった。
その差は武器の差。
猿廖には爪と牙があったが、老人羅刹にはそれがなかった。
「ヒヒヒヒヒ。くたばれ、じじい」
老人の腕をつかんで逃げられないようにして、猿廖は必殺の一撃を振り下ろす。
その直前。
猿廖の顔面に泥玉が命中した。
「ヒギャ! なんだこりゃ、くせえ!」
鼻にツンとくる刺激臭にたまらず顔をしかめる。動物は臭いに敏感だから余計にキツいだろう。
それ投げたのは子供。その生まれた隙に老人羅刹は束縛から逃れた。
「よくも邪魔したな、ガキが! てめえから喰ってやる!」
猿廖が子供に襲いかかる。
子供と大人。
いやそれ以上の力の差がある。
猿廖は一撃で子供を殺せる。
はずだった。
「わしから目を離したな? お前の敗けじゃ」
悪寒を覚えて、慌てて老人に向き直るが遅かった。
「疾!」
老人がどこからともなく取りだした金属のわっかを投げると、その金の環が縮まって、猿廖は身動きできない状態にされてしまった。
「なんだこんな環。すぐに引きちぎって……あ、ダメ。全然ダメ! てかどんどん縮んで……痛! いたたたた! やめてやめて。許してー!」
「わしのとっておきじゃ。一度はまったら抜け出せんよ。どうじゃ、降参して改心するか」
「誰がじじいのいうことなんか……あ、痛い! 苦しい! やめてやめて! 降参します! 改心するから許してー!」
老人が少し金環を緩めてやると猿廖はたちまち暴れて抵抗したのでまた締めた。
「こりゃダメじゃな。性根が腐っとる。うるさいから黙らせるか」
老人がなにやら呪文を唱えて念じると、猿廖の口は糸で縫い合わされたように閉じられた。
「そのお猿さんは殺しちゃうんですか?」
子供は助けられた礼を述べた後、そう尋ねた。
日常的に屠殺を目の当たりにする世界で暮らして幾分慣れたが、しゃべる生き物が殺されるのは抵抗がある。
「殺しはせんよ。反省するまでこきつかってやるが」
「よかった」
「自分を殺そうとした相手に、よくもまあ、そんな風に情けをかけられるのう。わしのことにしてもそうじゃ。なぜわしを助けようとした? お主を食おうとしたんじゃぞ?」
なにを今更。そんなつもりもないだろうに。
子供は老人羅刹の顔に指を突きつける。
「その歯でですか?」
子供は老人羅刹の口に牙のないことを指摘した。
「人の肉を食べるなら牙か爪を用意するといいですよ。このお猿さんのように」
老人羅刹に自分を害するつもりはない。
ということに子供は気づいていたのだった。
「ぬ。見破られていたか。聡明な子じゃ」
聡明なだけではない。
妖怪に立ち向かう勇気も持ち合わせている。
老人が異形の羅刹と化しても、それ以上に恐ろしい狒々の妖怪に殺されかけても、この子供は決して屈しなかった。
老人はそのことに感心した。
感心したのだが……。
すぐに気づく。
濡れている。
子供の足元がぐっしょりと液体で濡れている。
「もしや」
「……」
「おもら」
「わかってます。わかってますから。言わないでください!」
「しーっというわけじゃな」
老人は人差し指を立てて口の前に持っていった。
「……」
「そんなに冷たい目でみなくてもよかろう」
その子は、羅刹や狒々へと敢然と立ち向かった。
恐怖に決して屈しなかった。
しかし決壊しやすい短い尿道だけはいかんともしがたく、お漏らししてしまったのだった。
「泥玉の正体はこれじゃったか……」
女児は尿で泥玉を作って狒々に投げつけたわけだ。
なんだか申し訳ない気持ちになって、老人は謝った。
「……ごめんて」
「……別に謝ることないですけど。私がしたことですし。まだ子供のしたことですし」
子供は下履きを洗いながら、しかし明らかにむくれている。
涙はこぼさなかった。今は怒りと羞恥の感情が混ざりあって、どちらがどちらかわからない。
老人の、洗ってやろうという申し出を頑なに断って、自分で洗っている。
その幼児らしくない態度がまた老人を困惑させる。
老人は、その素性の妖しさにみあい、長いときをかけておおよそ様々な不可思議に出会ってきた。
だが、このような状況は初めてだった。
この子供は魑魅魍魎や妖の類いではないようだが、はて?
「お主は、本当にただの子供か? どこぞの精霊ではないのか?」
「そんな風に疑うのは、自分が化かしてばかりいるからですよ」
子供は生乾きの下履きをはいた。気持ち悪いが、仕方ない。
「でも、そうですね。あなたが疑問に思うのはもっともです。おそらく私は異例なのでしょう」
子供は老人の抱える疑問の解消になればと思い、自己紹介をすることにした。
「私の名前は碧空。見ての通り、どこにでもいるような五歳児です」
「既にその物言いが五歳児のものではないが……」
「でも、私は昔、青井光希と呼ばれていました。男子高校生です」
「男子、光高精?」
「私には前世の記憶があるのです」
碧空は困ったように笑った。