第十六話 碧空、枝翠の変貌に恐怖する
【第十六話】碧空、枝翠の変貌に恐怖する
邑の中央部の東寄りに川が流れている。
その川に架かる橋が一つ。
夜道で足を踏み外さないように朱色の線が引かれていることから朱線橋と呼ばれている。
彼女とは、いつもその橋のたもとで会う。
その女性、枝翠はこの邑の王に連なる家系の生まれだ。
王と言っても、邑の規模が小さいため、族長とか名主といった程度の力しかないが、他の家に比べれば裕福ではある。
夕暮れ時に、なにをするでもなく、ぼんやりと川の流れを見つめるのが、彼女の日課であった。
その日課の最中に、碧空と出会った。
初めは、なんでもない会話を交わす程度であった。
だが、碧空は彼女の自分を見つめる視線に、慈愛と深い悲哀が宿っていると気づく。
「私にも子供がいたのよ。生きていれば、ちょうどあなたくらい」
枝翠には夫がいた。
従兄弟同士で、幼い頃から将来を誓いあった仲だった。
周囲にも祝福され、子宝も授かり、二人の前には幸せな家庭を築く未来が拓けていた。
はず、だったのに……。
出産を間近に控えた頃、夫は嵐の夜に川に落ちた。
後に下流で見つかった夫の体は、川底の石のように冷えきっていた。
枝翠は深く悲しんだが、その心の支えになったのは、間もなく誕生した我が子であった。
腕の中で父のない我が子が、無邪気に笑う。
「私は救われた。その笑顔に。あどけない仕草に。泣き声にさえ」
亡くした夫の面影はそこにあった。
人生でもっとも愛した人の忘れ形見。
夫の分も愛情を注いで育てていこうと誓った。
ところが……。
「もうすぐ一歳になるという頃に、娘は夫のもとへと行ってしまった」
栄養が足りてなかったのか。
それとも病か。
子供が容易に死ぬ世界。
そこに愛情の深さは関係ない。
枝翠は、それからはなにをする気力もわかず、こうして無為に過ごしているという。
幸か不幸か、家は裕福で働かずともなんとか暮らしていける。
身の回りの世話は親戚筋にあたる童子がしてくれていた。
一日中家に籠っていると気持ちが塞ぐ。家には、亡くした人たちとの思い出が残っているから。
だから、枝翠は一日に一度は川を眺めにくる。
そうした習慣の中で、碧空と出会ったのだった。
「それだね」
燕青が断言した。
「それが原因だ」
「ほえ? 我はまだ二個しか食べていないぞ?」
「お前は話を聞いていたのか?」
碧空の祖母が焼いてくれたおやきを食べ食べ。
碧空の死相の原因を探るため、最近あった出来事を一つ一つ碧空に語らせていたのだ。
「原因て、枝翠さんがですか? といってもなにか変なことをしているわけじゃありませんよ」
枝翠は毎度、冷えきって固くなったまんじゅうをくれる。
それを碧空が食べ、天気や季節の、たわいない話をする。
時々、込みいった話もする。
枝翠は笑顔を見せることこそないが、最初に会った頃よりは表情が和らいできた気がする。
「さすが我が妹。心の弱った人を助ける。本当に優しい子だぞ」
「別に、大したことはしていませんよ。むしろ、私が話し相手になってもらっているんです」
「それがえらいのだ。人の心を慰めるのは概してささやかなものである」
「結果、自分が弱っていたら世話ないけどね」
「はぁ、すいません……」
燕青はしょんぼりする碧空を見て言い過ぎたと思ったのか、いくらか声を優しく改めて言う。
「弱気は悪いものを引き寄せる。大方、その女性は陰気に囚われているのだろう」
陽気と陰気。
それらは人間の中に均衡を保って存在しており、どちらに片寄ってもよくない。
体調を崩したり病気になったりする。
負の感情や涙は陰気に属する。
「君は仙骨が強いのに無防備であるから、きっとそれにあてられたのだ。私が払ってこよう」
「枝翠さんの具合もよくなるでしょうか。彼女はあまり顔色がよくないんです。食欲がないせいだと思っていたのですが」
「もちろんだ。私に任せなさい」
「では、我はその間妹との時間を過ごすことにしよう」
「なにを言うんだ。お前は私を手伝え! それから、碧空、君は事が済むまで極力その女性とは会わないようにしなさい。わかったね?」
「あ、はい」
「うむ。いい返事だ」
後のことは燕青と莉音に任せて、碧空は日常に戻った。
その夜のこと。
日の暮れた暗い道に、ぼんやりとした灯りが揺れる。
ゆらり、ゆらりと、もったいをつけるように、灯りは動いていく。
その道は、碧空の家へと続いていた。
やがて、灯りは玄関の前で止まる。
扉の隙間から白檀の香りがすぅと滑り込む。
「碧空ちゃん、碧空ちゃん……」
名前を呼ばれている気がして、碧空は目を覚ます。
こんな夜更けに誰だろうか。
不思議と家族の誰も起きてこない。
碧空は室内の灯りをともし、扉を少しだけ開けて、真夜中の訪問者に誰何する。
果たして、返事はあった。
「私よ、碧空ちゃん……」
暗闇に浮かび上がるようにして、青白い枝翠の顔がそこにあった。
「それで彼女はなんて言ったんだ?」
「夕方に会えなかったから様子を見に来たんだと言っていました。風邪でもひいたんじゃないかって」
「なんて答えた?」
「元気だから大丈夫ですよって。今日は用事があったからたまたま行かなかっただけですって言いました」
「彼女は?」
「明日は必ず来てねと言って帰っていきました」
「そうか、まずいな……」
燕青は言った。
昨日、準備を整えて件の橋のたもとへ行ったが、件の女、枝翠とは会えなかった。
もしかしたら、こちらの動きを察知しているのかも知れない。
「となると、当然、それはなぜかということになる。もしかするとこれは予想外に悪意の絡んだ問題なのかも知れない」
「悪意って、枝翠さんが故意に私を弱らせようとしているとでも?」
「実際に、今日の君からは大量の生気が抜かれている。おそらく今までは少量ずつやっていたのだろうが、ここにきて馬脚をあらわしたな」
いくら燕青の言葉でも、枝翠が自分を害そうとしていることは受け入れがたい。
彼女はただ寂しいのだ。
とても悪人には思えない。
だが、実際に彼女と会うようになって、疲れやすくなったのは事実だ。
そして、昨夜、夜更けに家を訪れたのは明らかに異常であった。
そもそも、自宅の場所も教えていないのに……!
「これを家に貼っておけ。即席の符だが、多少は効力があるだろう。また夜にそいつが訪れても、家からは決して出てはならないよ。もちろん、夕方に橋に近づいてはいけない」
その日の夜。
再び、枝翠は碧空の家を訪れた。
ゆらりゆらりと灯りを揺らして、白檀の香りをかぐわせて。
家族はやはり起きてこない。
代わりに、碧空は目がさえてしまっている。
そして、枝翠は碧空が起きていることなどお見通しだといわんばかりに、いるんでしょうと、何度も声をかけてくる。
誰にも頼れない。一人の夜は長い。
仕方なく、碧空は玄関扉の前に立つ。
「碧空ちゃん。今日はどうして来てくれなかったの?」
「すいません。体調が優れなくて……」
「それは大変ね……私にできることはないかしら」
「大丈夫です。眠っていれば落ち着きますので」
「あら……いまいましい……符が貼ってあるわ。碧空ちゃん、お願いだからそこの符をはがしてくれないかしら」
枝翠は家の外にいる。
家の中に貼ってある符は見えないはずである。
「符って、なんのことですか」
「白々しいことを言わないで。早くはがしてちょうだい」
玄関を隔てた問答を繰り返し、やがて枝翠は「また明日」と帰っていく。
符を貼ったことが気に障ったらしく、今にも叫びだしそうな怒気をはらんでいた。
「……怖かった……」
昨夜に続いてのことで慣れるかと思ったが、そんなことはなかった。
すごい怖い。
去り際に窓の隙間から、ぎろっと睨んでくる顔なんてもう!
ちびる。
「今夜、決着をつけよう」
燕青が決戦の場として選んだのは枝邑の土地神を祀る廟であった。
土地神とはこの邑の王の祖先に他ならない。
いってみれば、廟とは祖先の家であり、お墓である。
「なぜよりにもよってお墓なんですか……」
家族が寝静まった頃合いを見計らって、こっそり家を抜け出してきた。
そして連れられていったのが深夜の墓地ではたまらない。
廟内は祖先を祀る場所だけあって、静謐な空気で満たされていた。
連日心細い目に遭って、すっかり気分が落ちこんでしまった碧空である。
死を告げられたときより怯えている。
変な話、死ぬことより、恐怖体験の方が辛かった。
「落ち着くのだ、碧空。なにも恐れることはないぞ。今日は莉音お姉ちゃんが一晩中ついているからな」
枝翠が想像以上に厄介な相手だとわかって、準備も整えてきている。
「案ずることはない。私たちがいるかぎり、手出しはさせないよ」
「燕青の言うとおりなのだ。そうだ。心の安らげる歌を唄ってやろう」
莉音が口ずさむのは、聞いたこともない旋律であったが、どこか懐かしくて落ち着くことができた。
知らず莉音の胸を枕にしていたことに気づいて居住まいを正した。
「もっと甘えてくれていいんだぞ」
「ありがとう。大丈夫です。二人がいてくれて本当によかった」
「お姉ちゃんだから、当然のことだぞ」
「私は姉ではないが、まぁ、これも天数であろう。感謝の気持ちがあるなら、また今度将棋の相手でもしてくれないか」
「ええ。もちろん、いいですよ。さておき、これからどう立ち向かうつもりか、教えてもらえませんか」
「ああ。いいだろう。聞いてもなにができるわけでもないだろうが」
燕青は碧空にこれからのことを説明した。
「きたぞ」
燕青の声に緊張する。
ゆらりゆらりと揺れる灯り。
まるでここにいることがわかっているようにまっすぐに向かってくる。
いや、事実わかっているのだ。
この邑のどこにいても、彼女から逃れることはできない。
白檀の香りが廟内にすべりこんできた。
風もないのに燭台の炎が揺れる。
この廟にも符は貼ってある。
燕青の心算では枝翠は入ってこれない。
優しい声が扉の向こうから聞こえてきた。
「夜遊びをするなんていけない子ね」
余裕のある猫撫で声。
「いい子だから、もう寝なさい。寝屋までつれていってあげる。さ、だからここを開けて」
燕青から返事をしてはならないと厳命されている。
碧空は忠実にそれを守った。
枝翠は構わず、話しかけてくる。
どうして開けてくれないの?
いるのはわかっているのよ。
私を困らせるつもり?
あなたのためなのに。
どうしてわかってくれないのかしら。
もうやめて。イタズラはおしまい。
いいから開けなさい。
早く。
早く。
開けて。
開けろ。
開けろ!
ふざけるな。早くここを開けろ!
扉が激しく叩かれる。
その音はいつしか部屋中から聞こえ始めた。
まるで何十人にも取り囲まれているかのように。
莉音は碧空を守るようにぎゅうと抱きしめ、燕青は念じて呪いの言葉を唱え続ける。
「開けろォォォォォォォォォォォ!」
あの優しい枝翠のものとは思えない恐ろしい怒鳴り声が上がった。
雷鳴が轟く。
廟のすぐそばに落ちたかのようだ。
「幻聴だ。つまらない術だぞ」
莉音が囁く。
その温もりがなにより心強い。
枝翠の脅迫は一晩中続き、終わりがないように思えた。
しかし、明けない夜はない。
どんなに辛くて心の弱る夜も必ず終わりがくる。
やがて窓の外が白み始めた。
「口惜しや……もう少しでその子を連れていけたものを……」
潮が引くように気配が去っていく。
しんと静まりかえった廟内。
結局一睡もできなかったせいで、視界が明るく、ふわふわしている。
「終わった、んですか?」
「確かめよう。君たちは待っていてくれ」
燕青が扉を開けて外へ出ていく。
しばらくして。
「大丈夫だ。やつらはいなくなった。もう出てきても平気だよ」
燕青の声がする。
碧空と莉音は頷き合った。
ああ、これでようやくおしまいだ。
碧空は一人で扉を開いた。
そこには、闇夜が広がっていた。
燕青が倒れている。意識はなさそうだ。
「ようやく出てきてくれたわね」
枝翠がにたりと笑った。
北海道では地震の影響で大変なことになっているようです
ライフラインの復旧、被災した方々の無事をお祈りします