第十二話 莉音、家族の温かさを知る
【第十二話】莉音、家族の温かさを知る
「将儀はうちにも来ていないですよ。最後に会ったのはこっちも一年前で、笛に呼ばれていって……あれ? もしかして将儀は行方不明?」
「そんなまさか。一年姿を見ないくらいで行方不明なんて大げさだぞ」
そんなトラさんじゃないんだから。
「いやいや、仙人ならそうかも知れないですけどね。行方不明は行方不明でしょう」
「将儀師叔は基本的に行方不明だぞ。所在がわかっている方が珍しいくらいなのだ」
「……確かに。そんな感じする」
行方不明というより、住所不定であったか。スナフキーン的なあれか。
「本来、仙道たるもの、雨風をしのげる場所があればそれで十分なのだぞ」
莉音は誰かの口真似をするように言った。お師匠さんだろうか。
「はぁ。別にあばら家に住もうと馬上に住もうと結構ですけど、連絡したい側が不便ですね」
「ん? 待て。お前どこに行く気だ」
「なにって。帰るんですよ。もう子供が出歩いているような時間じゃありません」
「まだ話は終わっておらん」
まだなにか話があるのだろうか。
否、ないだろう。
せいぜい仙人の勧誘だ。
仙人に弟子入りしない旨は改めて伝えてある。
碧空はうーんと考え、言った。
「明日にしましょ」
かぐわしい匂いが漂ってきていた。
既に夕食の時間である。
莉音は食わずとも生きられるが、碧空たちはそうはいかない。
いまだ不便な生物の連鎖に囚われているのである。
「我が妹弟子になればそのような雑事に悩まされることもなくなると言うのに」
ほとんど食事も睡眠も必要としない。すべて些事。
莉音は碧空が些事を済ませる翌朝まで、さてなにをして時間を過ごそうかと考えを巡らせる。
「どうしたんです?」
声がかかったのは、そのとき。
振り返ると、碧空だ。
「一緒にごはん食べましょうよ」
「え、いや、我はその……」
「食べたくないんですか?」
「そうではない。そうではないが、必要としないのだ」
「それも仙道たるもの?」
仙人には仙人の生活姿勢というものがあるだろう。
厳しい戒律もあるかも知れぬ。
しかし、信仰であるなら尊重するが、破っていいなら固執することもないと思う。
「一緒に食べると楽しいですよ」
碧空は改めて誘った。
莉音は食事を必要としない。それは事実だ。
しかし、将儀のように食を楽しむことができるのもまた事実である。
「う、うむ。お前がそこまでいうのなら、一緒に食べないこともない」
その日、莉音は碧空の食卓に招かれた。
正体不明の娘だ。
だが、碧空の祖母は呆れ顔こそしたもののあれこれ問い質さず、迎えてくれたのだった。
碧空の父母は戸惑ったものの、祖母が平然と受け入れているものだから、特になにも言わなかった。
否。
口を挟むどころではなかった。
莉音があまりに食べるのが下手くそだったから、祖母が激怒したのである。
「莉音様……そんなぼとぼとこぼして……」
「し、仕方なかろう。生まれてこのかた食事なんてしたことないのだ。人型になるまではそもそも口がなかったし……」
「だからって。ああ、手づかみしちゃダメです。火傷しますよ」
「あ、あっついのだぁ……!」
「やれやれ。生まれて六年の空の方がまだ上手だねぇ」
祖母はため息を隠さず、莉音に食事の仕方を徹底的に指導した。
「お前さんがどこのどなた様か知りませんが、うちで食事をとる以上はまともな箸の使い方を覚えて帰っていってもらいますよ」
「ひえぇぇ……」
しまいには莉音は泣き出してしまったが、それでも指導は終わらなかった。
「祖母殿厳しかった……食事作法に関してだけは我が師匠並みなのだ」
「お祖母ちゃん、ああいうことには厳しいから」
細かい礼儀はいい。しかし、きちんとしないと他人に迷惑がかかることは許さない。
「しかし、優しい人だ」
結局、一度も莉音の素性を詮索しようとはしなかった。
不躾な目で見ることもなかった。
食事の後は、湯浴びをさせ、針仕事を手伝わせ、寝床へと放り込んだ。
孫である碧空にするのと同じに。
「あれが、お祖母ちゃんというものなのだな」
同じ布団の中で莉音がつぶやく。
美しい顔だ。前世でならばアイドルといっても通用する。
そんな美少女と同じ布団。しかも幼児用なのでせまい。ほとんどふれあっている。
前世であったなら興奮して眠れないような状況であったが。
「ご両親も、親切で……あんな家族がいて、お前……幸せ……」
すぅすぅすぅ……。
「仙人は睡眠を必要としないとか言っていたくせに」
掛け布団がずれたのを直してやる。
「これじゃどっちが姉だか妹だかわからないですね」
「うう……我が妹……」
「はいはい。おやすみなさい」
碧空は莉音の横で眠りについた。
翌日。
莉音は、碧空と一緒に過ごした。
同じ食事をとり、父母の農作業を手伝い、祖母に裁縫を教わり、小鈴と遊んだ。
莉音の食べ方も昨日よりはいくらかマシになった。
そうした日常は、次の日もその次の日も続いた。
碧空の家庭は温かく、居心地がよくて。
莉音はすっかり当初の目的を忘れていた。
ある日、川原の大きな岩の上で、碧空と並び釣糸を垂らしていると。
「……って我はなにをしているのだ!」
「え、なにノリツッコミ?」
こんなに長いのは初めてだ。さすが仙人は感覚が違う。
「海苔の話などしておらん。そういえば、我はお主を仙人にするために迎えに来たのだ」
「忘れる程度ならそのまま忘れていればいいのに」
碧空はよっこいしょと短い手足で膝を正し、莉音に向き直る。
「そうはいかん。碧空よ。お主は十分に仙人になる資質を備えている。我が師匠のもとでならばきっと大成するぞ。さ。仙人になれ」
「はぁ、お断りします」
「なぜだ?」
「私は今の日常を大切にしたいんです」
「ぬ……」
「私は愛すべき家族と共にいます。私は家族のもとで、ものの考え方、生き方を学んでいる途中なんです」
多分、前世では親より先に亡くなってしまい、多大な親不孝をしてしまった。
その贖罪というわけでもないが。
今の家族と生きることを大切にしたい。
「私を育て、愛情をもって接してくれる彼らに、その愛情の恩返しをしていきます。長い時間をかけて。そうするべきだと、そうしたいと思うんです」
「……仙人となっても、そうあることはできるのではないか」
「仙人になるためにはここを離れて、長い修行をするんでしょう? 私は不老長寿も不思議な力もいらないんですよ。平々凡々な、家族の一部となって生きられたら、それでいいんです」
「家族の一部……」
「一緒に暮らして莉音様にも少しは感じていただけたのではないですか?」
莉音は碧空の家族と共に暮らした日々を思い返した。
感情や思いやりがゆっくりと他人へと向けられる、ぬるま湯のような暮らし。
器物に生まれた莉音には本来得られぬ恩恵であった。
父と共に泥に汚れ、祖母に湯浴びをされて、母に髪をすかれる。
ああ、これが人の幸せなのだと。
なにもそこから碧空を引き離すことはない。
彼女は、必要なものを既に持っているのだ。
「……わかった」
莉音は震える声で答えた。
「……よくわかった」
莉音が碧空の家を出たのは翌日のことである。
別れの夜、莉音は世話になった礼にと彼女の郷里の歌を披露した。
莉音の声そのものが楽器のように美しい。
異国の情緒に溢れていて、初めて聞くというのにどこか懐かしい歌だった。
別れの際、祖母は涙を押し殺して、強く莉音を抱き締めた。
彼女にとって莉音は実の孫と同様になっていたのだった。
莉音にはもう無理に碧空を仙人にしようというつもりはない。
「……別れる前に、一つだけお願いがあるんだが、いいだろうか」
「なんですか?」
「妹弟子は諦める。だが、我のことをお姉ちゃんと呼んではくれないか」
「は、はぁ」
「頼む。この通りだ」
「そんなに拝まなくても。私にとっては、もう家族のような存在ですよ。莉音お姉ちゃん」
「はうはうはうはうー……碧空ぅかわいいのだぁぁ。やっぱりお持ち帰りしたいのだぁぁぁ」
「ちょ、ちょっと、そんなに抱き締められたら、ち、窒息します」
莉音の豊かな乳房が凶器であることを思い知った碧空であった。
お騒がせな仙人、蔡莉音は遠い仙境へと去り、碧空の日常に平穏が戻ってきた。
これで仙人になれという勧誘に悩まされることもなくなったのだが……。
「なんだか前より部屋が広くなった気がするよ」
昔読んだ有名な漫画のセリフを吐いてごまかしてみたものの。
莉音がいなくなったことに一抹の寂しさを感じる碧空であった。
なお。
「碧空ー。莉音お姉ちゃんだー。遊びに来たのだー」
「ちょ、ちょっとまたきたの? 本当のお姉ちゃんじゃないんでしょー」
「本当のお姉ちゃんだもんなー? なー。碧空ー?」
莉音はその後もちょくちょく修行をサボって訪れては、小鈴と碧空の取り合いをするのであった。
今日の更新はこれまでで
おやすみなさい