迷宮姫の婚約破棄
『トリトンの巨大迷宮に挑むのはやめた方がいい。牛頭の怪物に生きたまま喰われたくなかったらな』とある隻腕の冒険者
「何故、何故なんだ……私はただ、婚約破棄がしたかっただけなのに…… 」
「殿下、お下がりくださいッ! 」
殿下と呼ばれた悲嘆する美青年を背中に庇うのは小動物のような可憐な容姿とは裏腹に力強い眼差しで前を見据える小柄な少女。
そんな彼らの目の前には古来より人類に恐れられていた災厄そのものが悠然と佇んでいた。
「グォオオオオオオオオオオオオオオッッッ!! 」
頼りない松明の火に囲われた薄暗い円形の競技場のようなフィールドの中心で三メートルはあろう巨大な怪物が雄叫びを上げる。
その咆哮にドーム状になっているフィールドの空気が震撼し、絶対強者特有の圧が周囲に撒き散らされる。
それは久しぶりに獲物にありつける歓喜のようだった。
圧倒的な存在感と殺気を全身に浴びて殿下は本気で泣きたくなった。身体の震えは止まらず、呼吸すらままならない。
なんとか発狂せずにいられるのは隣に立つ想い人の少女がいるから。
その少女は本能的な恐怖で身体が震えてこそいるが、その瞳には戦意の喪失は見受けられない。
「これが神話時代からの災厄と称された迷宮の番人“原初の牛頭鬼”……! 」
一目見たときから目の前にいるのは人類とはまた別次元の存在だと、そして自分達がとても矮小な存在だと本能的に理解してしまい、原始的な恐怖で心がへし折られそうになる。
(それでも! )
少女の足が一歩前へ踏み出す。
脳裏に浮かぶのは自分に微笑む殿下の姿。
「私は! 殿下の隣に立つために! この試練を越えていく!」
全ては想い人と結ばれるために。
そのためには生まれつき持っていた不気味なこの力を使うことに躊躇はなかった。
「出し惜しみは一切なしだよ! 接続。異世界の叡智ーーー顕現せよ、異世界神話武装“不敗の剣”! 」
少女の全身から眩い黄金の粒子が放たれ、それらは少女の手許に集まり剣の形を成す。
「ぐぅううう……! 」
と同時に柄を握る両手に焼けるような熱が襲いかかり、少女は苦悶の表情を浮かべる。
荒く光り輝くクラウソラスは異世界のとある神話に登場する一撃必殺の不敗の剣。
顕現こそ成功したが本来の担い手ではない少女をクラウソラスは認めておらず、少女を焼き尽そうと光を暴走させる。
「アアアアアアア、負けるかァァァァッ! 」
ここで自分が負けたら後ろにいる殿下を誰が守るのか。
激痛で心が折れそうになりながらも、この一心で人肉が焼ける嫌な臭いに顔を顰めながら力づくでクラウ・ソラスの光を抑えつける。
クラウ・ソラスも必死に抵抗していたが、やがて少女の胆力に屈したのか熱はおさまり、光は荒々しいものからより洗練されたものへ変化した。
改めて少女を担い手と認めたクラウソラスは先程とは比べ物にならない、まさに神話の剣に相応しい姿となる。
アステリオスもクラウ・ソラスが自身の脅威だと認識したのか、それまでとは違う低い唸り声をあげて強敵との戦闘態勢に切り替わった。
両者の視線が一瞬交わった瞬間、同じタイミングで共に駆け出す。
「ハアアアアアアアアッッ! 」
「オオオオオオオオオッッ! 」
勢いよく振り下ろされたクラウソラスの一撃と原初の牛頭鬼の拳という純粋な力と力がぶつかり合う。
互いの一撃で発生した衝撃波は二人から離れていた殿下を吹き飛ばすが、少女には地面をコロコロ転がる殿下を気にする余裕はない。
彼女の瞳に映るのは歓喜で口元が釣り上がった強敵だけだ。
異界の不敗の剣を操る男爵令嬢VS迷宮の番人原初の牛頭鬼
世界で類を見ない神話上の決戦を再現したような高次元の闘いが今、幕を上げた。
ーーーー
時は両者の激突から一時間前に遡る。
「すまないクリスティーナ・エルヴァイン公爵令嬢、貴女との婚約を破棄させてもらいたい。私はここにいるアリア・ローナン男爵令嬢のことを愛してしまったんだ」
魔術王国トリトンの第一王子にして王太子であるレオンハルト・バンドゥーラは王宮のとある一室に婚約者であるクリスティーナを呼びだすと、いきなりそう告げた。その背後では彼の想い人であるアリアが心底申し訳なさそうに顔を伏せ身を縮めている。
「……そうですか。二人が想い合ってるのは理解できました。しかし何故私との婚約を破棄する必要があるのです? 彼女と添い遂げたいとお望みであれば、彼女を側妃に召し上げればよろしいではありませんか 」
突然の婚約破棄にもかかわらず、クリスティーナはアリアを一瞥しただけで、特に動じる様子もなく能面のような無表情のまま淡々と対応する。そこには何も感情は存在しない。哀しみもや嫉妬といった負の感情も、そして喜びなどといった正の感情も。
どこか他人事のようなクリスティーナの様子にレオンハルトは苦々しい表情を浮かべる。
彼には幼少の頃からの婚約者がいつも何を考えてるのか分からなかった。
最初は彼も彼女を理解しようと努力はしていたのだ。だが駄目だった。そしていつからか理解することを放棄し、何を考えてるのか分からない癖に自分より優秀な婚約者の存在を疎みはじめ、思春期に入る頃には接触も最低限になっていた。
だからこそ気づかなかった。
「アリアを、側妃にはできない。彼女には私の隣で立っててもらいたいんだ」
そう言った瞬間、レオンハルトは見てしまった。それまで何も映していなかったクリスティーナの瞳に明らかな失望の色が灯っていたのを。不気味と感じていたはずの彼女の無機質さが生温く思えるほど冷酷な眼差しがレオンハルトを射抜く。
「男爵家の人間を正妃にすることは不可能です。それにこの婚約は王族と公爵家の契約、個人の意思ではどうしようもありません」
「そんなことは分かってる! 」
まるで小さい子供に言い聞かせるような物言いがレオンハルトの神経を逆撫でさせる。
レオンハルトの怒鳴り声にアリアの肩がビクッと跳ね上がった。一方で怒鳴られたはずのクリスティーナは表情を変えることなく、動じる様子はない。
男爵家のアリアを正妃にすることはできない。
トリトン王国において正妃は最低でも伯爵家以上の人間と決められている。
それに身分以外にもアリアを婚約者にするにはいくつかの厳しいハードルが待っていた。
将来の王妃である王太子妃はレオンハルトと共に国を支えなければならず、政治、経済等の教養に外交に必要な礼儀作法など身につけなければならない。
仮にアリアがレオンハルトの新しい婚約者として周囲を納得させるには、本当に血反吐を吐くほど厳しい教育で公爵令嬢として高い教養と素質をもつクリスティーナという前任者を超える成績を叩きだす必要があった。
それはどれだけアリアが優秀だとしてもほぼ不可能なことだった。
「ですがひとつだけ、アリアさんを王妃にする方法があります」
「なにっ!? それは本当か! 」
現実を突きつけられて苦い表情を浮かべてたレオンハルトはクリスティーナに詰め寄った。
「ええ、アリアさんが私と同等かそれ以上の価値があると証明すれば良いのです。要は実績づくりです」
「実績を? しかしそれだけで父上達を納得させられるのか? 」
「十分可能です。何故なら私が殿下の婚約者になった理由は希少な“異名持ち”の魔術師だったからなのですから」
魔術師とは名前の通り魔術を行使する者の総称である。そして異名持ちとは模倣不可能な固有の魔術を扱うエリート中のエリートのことを指し、しかもほとんどは先天性のためその数は全世界で両手で数えられる程度しか存在しない。そして何故かその数少ない異名持ちの多くは自由を愛し、国や組織に縛られることをなによりも嫌うのだ。稀に国に仕える者もいたがそれはほんの数例しかない。
過去に無理矢理縛ろうとした国家があったが、異名持ちの報復に遭い最終的に滅亡してしまった。そのため国にとって異名持ちは喉から手が出る存在である反面、ほんの少しの拍子で暴発しかねない火薬庫と認識されている。
魔術大国であるトリトンには貴族平民問わず優秀な魔術師が多く存在するが、長い間異名持ちは存在していなかった。
そんな折、突如現れたのがクリスティーナだった。
公爵家の長女として生まれた彼女は幼少の頃から膨大な魔力を有していた。
そしてある時、幼いクリスティーナは父である公爵にこう告げたという。
『おとーさま、わたくちアステリオスとけいやく?しまちた』
それを聞いた公爵は卒倒しそうになった。高位貴族でありながら学者気質だった彼はアステリオスが古より数多くの猛者を地獄に叩き落とし、人類から『神話時代からの災厄』と恐れられた“トリトンの大迷宮”の主の名であることを知っていたからだ。
そして娘の契約宣言の翌日に部下からトリトンの大迷宮が突然消失したことを報された公爵はついに卒倒してしまったらしい。
そして公爵令嬢が『大迷宮の姫』という異名持ちに認定されたことは瞬く間に貴族達に広がった。
多くの貴族がクリスティーナをものにしようと縁談を申し込むがクリスティーナを溺愛する公爵は全て縁談を断った。しかし王家からの第一王子との婚約の打診は断ることはできず、散々抵抗したが最終的に公爵は泣く泣くこれを受け入れた。
つまり王家が欲したのはクリスティーナという個人ではなく、異名持ちという名の、単体で戦局をひっくり返す戦術兵器という切り札だった。
「ですので異名持ち以上の優秀さを証明できたのならば婚約破棄は可能なのです」
勿論、事はそう簡単に運ぶことはないだろうが、そこはアリアの実力とレオンハルトの交渉力でどうにかするしかない。クリスティーナにわざわざ二人の婚約をお膳立てする義理はないのだ。
「クリスティーナは、それでいいのか? 」
「個人的にはどうとでも。殿下もご存知の通り、異名持ちは束縛を嫌います。私は貴族として育ったので自由に対する欲求は他の異名持ちと比べてそうあるわけではありませんが、窮屈な暮らしはあまり好きではないのです。それに幼少期に契約を交わした代償として感情の大部分を消失している私にとって殿下との婚約はただの義務でしかありません 」
クリスティーナの告白にアリアは真っ青になる。なんとなくクリスティーナの感情の欠落に気づいてたレオンハルトは苦い表情を浮かべたまま床に視線を落とした。
「やはりクリスティーナは私に愛情どころか友情すら持っていなかったのか」
「……申し訳ございません」
「謝るな。惨めになる」
薄々気づいてたとはいえ、長年婚約してた者に何の感情も寄せられなかった事実はレオンハルトにとってきついものだった。
「ところでクリスティーナは私に実績をつくれと仰いましたが、具体的に何をなさればよろしいのですか? 」
暗い雰囲気になりかかってたことを気づいたアリアは不敬覚悟で話題を変えようとクリスティーナに話しかける。
「単純です。私が出した試練を乗り越えさえすれば良いのです」
「試練…… 」
「ええ。アリアさん、試練を受けますか? 」
「はい」
「アリア!? 」
アリアが試練を承諾したことにレオンハルトが驚きの声を上げる。
彼は本当にアリアが試練を受けるとは思わなかったようだ。
「貴女の覚悟はよく分かりました。しかし貴女は私を超えなければならない。試練は生半可なものではありませんよ。それこそ……力を隠したままでは、ね」
「ッ!? 」
後半はアリアだけに聞こえるように小声で囁くと、アリアは信じられないというようにクリスティーナを見る。
「何故貴女が力を隠しているのかは分かりませんが、王妃になるにはレオンハルト様に隠し事をなさるのは得策ではなくってよ」
クリスティーナの指摘にアリアは思わず下を向いてしまう。
クリスティーナは俯いてるアリアを無視して試練について話しだした。
「アリアさん、私の迷宮を踏破してください。それが私が与える試練です」
「「えっ? 」」
「では早速始めましょう。展開、迷宮結界」
アリアとレオンハルトは突然クリスティーナの胸元から現れた闇に呑まれてしまう。
最後に聞こえたのは『お二人とも、どうか御武運を』というクリスティーナの言葉だった。
「やっと、倒せた…… 」
激突のたびに衝撃で破壊され廃墟同然に成り果てた石造りのフィールドで最後まで立っていたのはクラウ・ソラスを杖代わりにしたアリアだった。
激戦の末、なんとかアステリオスを下したアリアだったが負傷とクラウ・ソラスの酷使によって彼女の身体は悲鳴をあげていた。
全身から流す血は戦闘でボロボロとなった服を元の色が分からなくなるほどどす黒く染める。血を流し過ぎたのか意識が朦朧としている。
筋肉系統も深刻なダメージが蓄積されていてこれ以上身動きがとれそうもなかった。
そんな満身創痍のアリアの視線の先に転がっているのはクラウ・ソラスで胸部を貫かれたアステリオスの骸。
怪物とはいえ何度もクラウ・ソラスの斬撃を耐え抜いた見事な闘いぶりは尊敬に値するものだったとアリアは思う。
(でも……これで試練は……ッ!? )
安心した途端、アリアの意識が遠くなり身体の感覚がなくなっていく。
「あっ……」
アリアはとうの昔に限界を迎えていた。
力を使い果たしたクラウ・ソラスが粒子となって空に消える。支えを失ったアリアはそのまま地面に崩れ落ちーーー
「ここ……は……? 」
意識を取り戻したアリアが周囲を見渡すと、そこはレオンハルトがクリスティーナに婚約破棄を申し出た部屋で隣にはレオンハルトが横たわっている。
「思ったよりも早かったですね、アリアさん。正直言うと、あなたにあの子が倒されるとは思いませんでした」
アリアの背後から声がかかる。クリスティーナだった。
「クリスティーナ様、あれは一体…… 」
巨大な地下牢のような場所にとばされたと思ったら化け物と戦う羽目になり、なんとか倒して気づいたらもとの部屋に戻っていた。あれは一体なんだったのか。
「残念ですがそれは機密事項ですのでお話しできませんわ」
異名持ちは基本的に自分の能力について話さない。特に国家の切り札的存在の彼女の能力など言えるはずがなかった。
「さてアリアさん、いえアリア・ローナン男爵令嬢。あなたは無事試練を乗り越え、殿下の新たなる婚約者となる資格を得ました。正式な婚約破棄はまだですが、私個人はこの婚約破棄は受け入れます。婚約破棄が発表されれば、おそらく新たに婚約者争いが勃発するでしょう。先に言っておきますが、男爵家のあなたが正攻法でそれを勝ち抜くのは不可能です。ですがあなたには私の結界を破る力があります。無事に婚約者の座につくかどうかはあなた次第です。あなたにはその覚悟はありますか? 」
目をそらすことすら許さないとでもいうようにクリスティーナはじっとアリアの顔を見つめる。たとえ力があっても覚悟なき者に自分の後釜を託すことはできない。アリアは試練を乗り越えたが、これから彼女を待つのはそれとはまた別のベクトルの試練の連続だ。この後正式に異名持ちと認定されるとしてもそれが役に立たないこともあるかもしれない。
「覚悟はあります。だって私はレオンのことが大好きだから」
答えとしては陳腐。
しかしアリアの目は強者と出会い歓喜するアステリオスと同じような、魅入れるほど好戦的なものだった。
「いい目をしてますね。あなたならもしくは…… 」
その呟きはアリアには聞こえることはなかった。
「殿下がまだお目覚めにならないのは残念ですが、この事をお父様に報告しなければなりませんので、私はそろそろ帰らなければなりません。挨拶なしは少々不敬になりますが、あとはよろしくお願いしますね、アリアさん」
クリスティーナはレオンハルトを起こすことはせず、静かに部屋を去っていく。アリアも無理に起こそうとはせず、クリスティーナを見送る。
その扉が閉められる直前、
「クリスティーナ様! 私は絶対に立派ね王妃になってみせます! クリスティーナ様に負けないくらい、レオンから誇られるような王妃に! 」
「いい笑顔。本当に楽しみだわ」
その数日後、クリスティーナとレオンハルトとの婚約破棄が正式に発表される。クリスティーナの後釜となる新たな婚約者候補の中にはアリアの姿があった。
クリスティーナ・エルヴァイン……国内唯一の異名持ちで公爵令嬢。アステリオスとの契約の代償に感情の大部分を失う。レオンハルトのことはなんとも思っていなかったが、それなりに努力はしていた。アステリオスのことはペットのように可愛がっている。婚約破棄後、突然姿を消した。
『迷宮結界』……自身に内包してあるトリトンの迷宮を展開して対象者を引きずりこむ領域型の結界。脱出するにはアステリオスに打ち勝つかクリスティーナ本人を倒さなければならない。どちらかというと防御向きのため国防の切り札として向いていなかった。
レオンハルト……トリトン王国の第一王子。顔は良いが暗愚寄りの凡庸。クリスティーナとの仲に悩んでいた。お忍びで城下を回ってた時にならず者に絡まれていたのをたまたま近くを通っていたアリアに助けられて一目惚れ。しばらく身分を隠しながら猛アピールし、いい感じになりかけてた時に王子ということを暴露。なんやかんやで結ばれたためクリスティーナに婚約破棄を申し出たが予想外の展開になって存在が希薄に。
アリア・ローナン……男爵令嬢だがほほ平民と同じ暮らしをしていた。意思がとても強く主人公気質の持ち主。生まれつき『異世界の叡智』という特殊な能力をもつ異名持ち予備軍。それまで自分の能力を快く思っていなかったが、試練後はひとつの武器と割り切ることができた。
『異世界の叡智』……異世界の知識を司るだけでなく、知識から得たモノを顕現させることができる規格外の力。厳密には魔術ではないが表向きは極めて特殊な魔術とされている。
アステリオス……幼いクリスティーナと契約したトリトンの大迷宮に潜む怪物。クリスティーナからペット扱いされてるが満更でもなさそう。一度アリアに倒されたが、クリスティーナが死なない限り何度でも復活することができるので数時間後に復活し、現在は廃墟となった結界内を掃除している。
王家……諸悪の根源。下心が露骨。アリアを新たなターゲットにした模様。
公爵……娘大好き。婚約破棄に手を上げて喜んだ。