大丈夫。
難産だった……。
逆お気に入りされてキャッキャしてる私です。
ありがとうございます!
誰かに名前を呼ばれた気がした。
緩やかに意識が浮上する。あんなに苦しかった割にいつの間にか寝ていたらしい。薬のお陰だろう。
そっと目を開けると栗色が目に飛び込んできた。
(なに……?)
よほど深く眠っていたのか、なかなか視界が定まらない。その栗色の正体を見極めようと重い瞼を何度か動かした。
ぼんやりとした霞が取れ、鮮明になった視界で栗色を眺める。
(んー……あ、はるきさまだ………晴貴様!?!!)
風邪に加えて寝起きの脳の回転はスローペースで、どこかふわふわとしていたが、その栗色の正体をしっかり認識した途端ふわふわが吹っ飛んだ。
咄嗟に出そうになった悲鳴を必死に堪える。
(ななななななんで!? え!? 何時からいたの!?! てか寝顔!! 寝顔見られた!!!)
ぐるぐると頭の中は大混乱を起こしつつ、目線は栗色───晴貴様から逸らせない。
一体昨日の今日で何を話せと、ちょっとまだいろいろ心の準備が出来てないのに、と思い泣きそうになりながら身体を強ばらせる。
と、そこでようやく気が付いた。
「……寝てる?」
思わず零れた呟きは思いの外大きく、焦って口を手で覆う。
恐る恐る晴貴様の様子を窺うが、どうやら起こしてはいないようだった。
安堵しつつ晴貴様をつぶさに観察する。
(いつ見ても、綺麗)
ほう、と感嘆の吐息が漏れた。
晴貴様は私の寝ているベッド脇の椅子に腰かけ、腕をベッドの淵に乗せて枕にして寝ている。
さっき最初に目に入ってきた栗色の髪はいつも通り空気を纏ってふわふわとしているが、右側面は組んだ腕に押し付けられてぺたんこにされていることだろう。
ちょうどこちらを向いている顔には眠っているせいで緑色の輝きは無いものの、閉じた目は長い睫毛で縁取られている。抜けるような白い肌には少し開いた淡い色の唇が彩を添えつつ、穏やかに呼吸をしている。
心地よさそうに眠っている様子に勝手に頬が緩む。
きっと私のお見舞いに来てくださったのだろうが、私が起きず待っていた晴貴様も寝てしまったのだろう。
せっかく来ていただいたのに申し訳ないとも思うが、今は落ち着いて会話が出来る心境にないので私にとっては有難かった。
ふと、欲が湧き上がった。
(もう少し、近付きたい……)
そう思うと同時に昨日の光景が頭に過ぎる。
晴貴様の視線に頬を赤らめていたあの子。
傍から見ても想い合っている様子にグッと奥歯を噛み締めた。
───ねえ、許されているのは私なのよ。
衝動に任せて顔を近付ける。
勢い余ってお互いの息がかかりそうな距離まで近付いてしまい、顔に熱が集まってくる。
(う、わ。近付きすぎたわ……!!)
恥ずかしくて仕方ないが、離れたくはなかった。
じっとそのままの距離で寝顔を見つめる。
晴貴様と見つめ合っているあの子。
一方的に寝顔を見つめている私。
あまりの差にふっと身体から力が抜けた。
───なんて、惨めなの。
その時、ぱちり、と目が合った。
ピシッ、と身体が硬直してしまう。輝く翡翠から目が離せない。何も出来ず見つめ合っていると、とろんとした緑の瞳に熱が篭った。
それ、は。その目は、あの子に向けていた。
そっと、愛おしむように、掛け替えのないものに触れるかのように頬を撫でられる。
心臓が嫌に大きな音を立てる。
違う
私じゃない
ふわり、と私が大好きな微笑みを向けられ、唇が動く。
私にとって最悪なことが起きると分かっているのに、身体は凍りついたように動かせない。
お願い
止めて
言わないで
「好きだ……ハナ」
頬に添えられた手が後頭部にまわり、優しく顔を引き寄せられ、
唇が重なった。
気が遠くなるほど長かったような気もするし、ほんの一瞬だったような気もする。
そっと合わさった唇が離れた。
晴貴様が閉じていた目を開ける。
ぼんやりとした表情をしていたが、すぐに少しずつ困惑した顔に変わっていった。
その顔のまま晴貴様が口を開いた瞬間、
「もうっ、晴貴様ったら私のお見舞いに来てくださったのに寝てしまったんですか?」
咄嗟にそう言って少し怒ったように口を尖らせてしまった。
晴貴様はそれを聞いて目をしばたたかせた後、
「……あ、あぁ。ごめんね……。
何か変な寝言とか言ってなかったかな……?」
と戸惑ったように謝り、そう問いかけた。
晴貴様の探るような目を必死に見つめ返しながら、意識してにこにこと笑顔を作る。
「ふふ、冗談ですわ。わざわざ来てくださっただけで嬉しいです、ありがとうございます!」
そう言った後、きょとん、としたように目を丸くし、
「寝言、ですか?
いいえ、何も?」
そう言った瞬間、どこか緊張したように強ばっていた晴貴様の顔が緩み、ほっ、と安心したような息をついているのを聞いた。
「そう……良かった、寝ている内に変なことを口走ったような気がして」
───泣くな。
何度も繰り返しそう唱えて目にぐっと力を込めるが、耐えきれずに涙が込み上げそうになった時、
「失礼します。巫様、お家の方からすぐに帰宅するようにとのご連絡です」
コンコン、とノックの音がした後、そう廊下から千恵の声が聞こえた。
溢れるタイミングを逃した涙は少し目を滲ませただけに終わり、急いで何度も瞬きをして誤魔化す。
「分かった、ありがとう。杏利、体調はどう?」
晴貴様は扉に一瞬目をやってそう応え、心配気な顔で私の顔を覗き込んだ。
「晴貴様に会えたので大丈夫です! 晴貴様こそ私の風邪が伝染らないよう気をつけてくださいませ」
「うん、気を付けるよ。じゃあ今日はこれで。ごめんね、ほとんど寝ちゃってて」
「全然気にしてませんわ、今日はありがとうございました」
私が無邪気そうに微笑みながらそう言うと、晴貴様は軽く私の頭を撫でてから部屋を出ていった。
そのまま暫く待ち、足音が聞こえなくなった瞬間、
「ふ……ぅう……うぁ、あ」
涙腺が壊れたように大粒の涙が零れ落ちた。
大きな声を出したら誰かに気付かれてしまうので、必死に枕に顔を埋めて声を押し殺す。
頭の中で先ほどの晴貴様の声が何度も何度も繰り返し再生される。
顔をぐしゃぐしゃにしてしゃくりあげながら号泣する。涙はまるで止まる様子はなく、滝のようにボロボロ溢れた。
泣きすぎて咳き込みながら思う。
───無理だ。
私を好きになって欲しくて、そのために頑張って。
それなのに初めて触れてもらえたのは、あの子の代わりとして、なんて。
そしてこれから先も、ずっと私は代替品、だなんて。
(無理よ、そんなの絶対に無理よ。耐えられないっ!!!!)
震える手で唇に触れる。
求めて止まなかった晴貴様の体温と感触が確かに思い出せるのに、少しも幸せじゃない。
むしろ胸がギュッと強く締め付けられているようで、このまま弾け飛んでしまうんじゃないかと思った。
このまま婚約者として彼を縛り付けるくらいなら。
こんなに苦しい思いをするくらいなら。
(だったら……まだ晴貴様とあの子が一緒にいるのを見てる方がましだわ……っ)
彼がいない生活を想像するだけで怖いけれど。
二人でいるところを見たら、きっと苦しくて息が詰まるけれど。
大丈夫、今よりはまだ、耐えられる。
次回は過去編。