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解放

 紅白の垂れ幕の前には、様々な景品が並んでいる。当てやすい手前の位置には、お菓子の箱がずらり。もちろん、そんなものはそっちのけで、奥の大当たりの景品を狙いに行く。


「見ててよ、毎年参加して鍛えているんだから」


 玲奈は羽織っている甚平の袂を捲り上げ、台に上半身を乗り出す。手にしたおもちゃの銃の照準は、一切震えがなく真っ直ぐに大当たりの的に向けられた。――いや、少しその上方か。

 放たれたコルク製の弾は緩やかな放物線を描いて、大当たりの的に命中した。が、僅かに回転したのみだった。


「あちゃー。ダメかー」


 的は当てるだけでなく、倒して棚から落さなければいけない。

 

「玲奈ちゃんが銃ば持つと、ひやひやすっとね」


 出店のおやっさんが苦笑を漏らす。玲奈本人は悔しがっているが、一発目から大当たりの的を掠ったのだ。おやっさんにしてみれば、心臓に悪いことこの上ないだろう。


「次、凪兄がやってみてよ」


 玲奈の腕前を見た後だと、腰が引けてしまう。


「ほら、腰入れるっ。手震えてるぞっ」


 腰を軽く小突かれた。そうは言われても、俺は玲奈ほど手練れていない。

 一生懸命に狙ったが、結局弾は掠りもせずに奥の垂れ幕を揺らすのみだった。


 結局、弾を使い果たしたころには、俺はいくつかのお菓子を手に入れたのみだった。そして、玲奈はというと大当たりの景品であるキャラクターフィギュアの入った紙袋を勝ち誇ったかのような顔で見せつけてきた。


「じゃーん」


 他にも中当たりの戦隊ロボットのおもちゃも当てていた。


「それ、どーすんだ?」

「記念に飾る。戦隊ロボットの方は、近くの子供にでもあげようかなー」


 境内にお祭りの間だけ仮設される四阿(あずまや)でしばしの休憩。途中で買った綿菓子を頬張る玲奈。傍らにはふたりして買った瓶ラムネが。彼女がまたお酒でも買うんじゃないか、と思ってひやひやした。


「懐かしいねー。いっつも夏になると、凪兄に連れられて行ったもんねー。あのときはさ、凪兄は何でもかんでもお兄ちゃんぶってた。手もつないだりしてくれたし」


 幼いころの話を引き合いに出されると、こっ恥ずかしい。俺にとって、こいつは妹みたいな存在だった。


 俺はまだ、玲奈の意図を掴み切れない。


 今朝まではむしろそれに気づいていて、逃げるように知らないふりをしていただけだった。だが今はどうして彼女が、あれだけ冷たく突き放した俺に何事もなかったかのように話しかけてくれるのか、とんと分からない。


「なあ、なんで玲奈は……」


 そう言いかけると、飲んでいた瓶ラムネをわざとらしく乱暴に机に置いた後、俺の瞳をぐっと睨み返してきた。また、あの蛇睨みだ。

 だけれど、そのあと威圧したづくで終わるのではなく、彼女は口を開いた。


「今さら、凪兄のこと嫌いになれって言うの? そっちのほうが残酷よ」


 そして、鼻先がくっつくかのような距離まで、詰め寄って来た。


「あたしのこと……、厄介だなんて思ってるの? 確かにただの幼馴染で、凪兄をつなぎ留めておくこともできなかったし。でも、でも今の凪兄を放っておくような他人にはなりたくないの」


 泣きそうな瞳は、玻璃のように透き通っていた。

 彼女の真っ直ぐさが、俺の心に、深く深く、突き刺さる。


 家に帰って母に叱られた言葉。親父が言った言葉。そして、玲奈の想い。


「あたしがこんなこと言うのもおかしいけれど、お父さんも、お母さんも。みんな、他人なんかになりたくないの。だって、だって凪兄のことをあたしも――」


 俺はずっと、ずっと辛いだけで残された日々を死ねないだけで生きてきた。


 でも、そのせいでいくつもの他人を傷つけてきたのか。


「玲奈、ごめん」


 その言葉を聞いて玲奈の瞳が遠のいた。だからすかさず、言葉を付け加えた。


「俺が悪かった。ずっと心配かけて」


 今度は彼女がぷっと噴き出した。

 それから、噛み締めるように、静かに口角を上げた。


「謝ったりなんてしないでよ。凪兄が辛くなくなったわけでなし。その痛みは、凪兄が大切にしていた証だから、ずっと、持ち続けることになると思う。でも、耐え切れなくならなくて良かった」


 確かに、なくなりはしない。

 そうでなければ、二年もの間自失に囚われることもなかっただろう。きっとこれからもずっと、俺の胸は痛み続ける。

 でもどうしてか。しつこいくらいに俺に期待し続ける存在を得て、心は少しだけ、軽くなっていた。


「さ、辛気臭い話はよしたよしたっ」


 椅子から飛び上がるように跳ね起きて、彼女は今度は俺の手を引いた。


「金魚すくいしよっ! あたし、今じゃものすっごく上手いんだからっ」


 きゃっきゃと騒ぐ彼女。遠い昔、島を離れる前にふたりで行った村祭りのことを思い出し、懐かしい気持ちになった。かんからと彼女の履く下駄の音が木霊をする中、微かにその声が聞こえた。

 冷たくて湿った風と共に、幼い少女の声が微かに。


「つまらない」


 それが聞こえた瞬間、背中に氷を入れられたかのような感触が襲った。


「凪兄、どうしたのー?」


「いや、特に何も」


 感じる。微かにだが――、あの磯の臭いを。


「ねえね、すごいでしょ。毎年村祭り参加してるから無駄にうまくなっちゃって――」


 かんからと下駄が石段を打つ音。

 金魚すくいで彼女は出目金を八匹、琉金を七匹もすくった。もちろんすべて持ち帰るわけにはいかず、記念にと出目金と琉金を一匹ずつだけビニル袋に入れて持ち帰ることにした。右手に金魚の泳ぐビニル袋を下げて、左手にはまた買った瓶ラムネ。射的の景品は、彼女の両手が塞がっているので俺が持っている。


「あー、にしても四千円くらいは使った気がするなあ。いい年してお祭りに本気なりすぎかな」

「そうだな」

「ちょっとくらい、否定してくれてもいいじゃん」


 こんな、他愛もない会話をしたのは、いつぶりだろうか。

 ふくれっ面を浮かべる彼女。だいぶ、表情が柔らかくなってきた気がする。――いや、険しい顔や悲しい顔をさせていたのは、全部俺だったか。思えば昔は、玲奈が泣いていたのを、いつも俺がなだめていたのに。今は、何もかもが真逆だ。


「凪兄が、元気になってくれてよかった」


 彼女がにっこりと微笑む。

 俺は、祭りの最中も時たま感じることがあった、あの気配を忘れそうになっていた。


 だが――それは、鳥居を抜けた瞬間に色を濃くした。

 鳥居。それは神社において神域と俗界を区別する結界。

 あの気配は、それに阻まれて、鳥居の向こう側では、姿を現せなかったのか。


 俺たちが鳥居を潜り抜けた瞬間に、湿った生ぬるい風がぶわっと吹いてきた。


「なんか――嫌な風ね。台風が近いのかな」


 鬱蒼とした神社の裏の森の方角から、カラスの鳴き声がした。

 鳥居を抜けると出店の灯りも届かなくなって、急に視界が暗くなる。目が慣れなくて、視界が真っ黒に塗りつぶされる。持ってきたLEDの懐中電灯で足元を照らす。眩い光が参道近くのあぜ道を照らした。ここを真っ直ぐ東の方向に進めば、島をぐるりと一周する道路に出る。そこをしばらく歩けば、家にたどり着く。


「ちょっと、あたし下駄なんだから。もう少しゆっくり歩いてよ」


 俺は、先を急いでいた。

 感じる。背後から、あの冷たい気配が――


「つまらない。ゆるさない」

 

 その恨みのこもった、重たい囁きも。鼻を挿す、海藻の腐ったような臭いも。俺にだけまとわりついているようで。少しずつ足を速める俺の背中に、玲奈の怪訝な眼差しが刺さる。


「待って、待っててば」


 からりと音が鳴って、そのあとを鈍く重い音が追った。


「――てて」


 玲奈の脚がもつれた。背後から追いかけて来る気配から、逃げたいがあまり、体格差も、彼女が下駄を履いていることも、考えずに走ってしまっていたことに気づき、彼女に手を差し伸べる。


「ありがと――」


 彼女が俺の手を手繰り寄せて、立ち上がろうとした瞬間、悪寒が襲った。首筋に濡れた冷たい藻が、じゅるじゅるとまとわりつくような感覚。垂れた冷たい水は、粘りを持っていて、俺の肩から背面を、腹部を撫でた。


 身体じゅうの筋肉が、痙攣する。


 熱を感じる亜熱帯の初夏の夜。なのに、寒さに凍えるように、震える肩を上下させる。


「つまらないよ。あたしをひとりにさせないで」


 帆波と同じ声質だけど、そのねっとりと鼓膜にこびりつくような声は明らかに異質だ。俺はその場で、磔にされたように動けなくなった。


 やがて、その声の主はうっすらと形を持ち始める。


 青紫色に変色した、死肉のついた四肢からは腐臭が漂う。

 肌はうっ血した静脈が浮き出ている。

 ずたずたに破れたワンピースは、ぐっちょりと濡れていて、海藻がへばりついている。両の脚には、火傷のようにただれた跡があり、海洋生物の毒に侵されていることが見て取れる。そして、なにかが両脚にまとわりついているかのような、重たい足取り。


「――凪兄、しっかりっ! なにかが見えていても、それに気を囚われないでっ」


 玲奈が叫んだ。

 そして彼女は、下駄を脱ぎ捨てて、裸足のまんまで俺の手を強引に引いた。


 耳元で、奥歯をぎりりと噛み締める音がする。


「――うざい。あの女、うざい! うざいうざい! 消えろ!」


「つっ――」


 途中、彼女が足の裏を切ったところで、俺も正気に戻った。傷が痛むのか足取りが、不安定になっている玲奈。


「大丈夫かっ」


 声をかけるとぐっと睨まれた。――こっちの台詞だとでも言いたいような、目つきだ。だが気が付けば、あの気配は止んでいた。

 あぜ道を照らすと、ところどころ血の跡がある。泥にまみれた玲奈の足の裏からはどくどくと鮮血が流れていた。


「ちょっと待ってろ」


 残っていた瓶ラムネを水分にティッシュを湿らせて、足の裏を拭きとった。血と泥がべったりとついた。手ぬぐいを足の裏に巻いて応急処置を施す。感心したような眼差しで、玲奈が見ていた。


「――帆波は磯遊びが好きだったから、よく足の裏を切っていた」

「……、大切にしていたのね」


「俺も曲がりなりにも父親だ。帆波を守ってやりたかったけれど、――俺は力不足だったみたいだ」


 荒波(アラナミ)。帆波とよく似たあの少女はそう名乗っていた。

 荒波(アラナミ)の姿は、目の前で冷たくなった帆波の姿にそっくりだった。俺を苛む罪悪感そのものの姿だった。

 あの姿はきっと、俺の罪悪感を責め立てるためのもの。


「きっと――帆波は、幸せだったと思うよ」


「でも、俺はまだ自分を許せない」


 玲奈は這い寄り、俺の瞳の奥底に向かって、視線を落とした。


「そうだよ。凪兄は、自分を許さないといけない」

「自分をって――」


「お母さんもお父さんも、あたしも――凪兄のことは許している。あとは凪兄だけだよ」

「ちがうっ、帆波は――」

「辛いけどね。死んじゃった人から、許してもらおうだなんて、そんなの無理だよ。――最後は、自分しかいないの」


 俺が、俺を許す。

 その言葉は、親父が言ったあの言葉とリンクした。


『かもじょは凪久に憑いとるんじゃなか。お前ん中におるけぇ』

 

 かもじょ。長崎の方言で、物の怪を表す。

 親父や母親は、俺の目の前に現れたアラナミを指してそう呼んだ。――俺を責め立てるものは、俺の中にいる。


「もう、わかるでしょ」


 俺は彼女の問いかけに静かに頷いた。

 (サザナミ)、瑠璃色の髪をした帆波によく似た幻想が突きつけた言葉。


『――だから、帆波はどこにもいないの』


 その言葉の本当の意味がやっと理解できた。


「玲奈、おぶっていくよ」

「――あたし、重いよ。背、百六十六くらいあるし」


「大丈夫だよ。痛むんだろ。――ただ、俺の家までな」


 このあぜ道から俺の家はかなり近い。徒歩にして十分くらいか。それぐらいならいけそうか。

 ずしっと背中に重みが加わった。親父の漁を手伝って鍛えられたのが、まさか、ここで生きてくるとは――


 彼女の体温が、温かった。

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