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村祭り

 目を疑った。うたた寝をしていたとはいえ、天気は雨ひとつ降っていなかったはずだ。

 軽トラックの荷台に覆いかぶさったおびただしい量の藻。ぐっちょりと濡れていて、腐臭の混じった磯の匂いが鼻を刺す。

 親父はせき込みながらも軍手をして、それらをどかす。――あまりにもの異様な藻の量に、しばらく遠巻きに見ていたが、やがて我に返って手伝った。


「いらも混じっとるけえ、気をつけえ」


 いらというのは、海洋生物が持つ毒針などを指す方言だ。転じて、クラゲを指すこともある。海藻の中には、ところどころ半透明のぷるぷるしたものがある。クラゲの死骸だ。べっちゃりと濡れた藻や海藻に絡んでいるのだから、毒針もぴんぴんしている。触れてしまえば、間違いなく刺されるだろう。

 おまけに海藻の中にはウミシダの類も混じっている。おそらく軍手の上からでも、かぶれるだろう。想像しただけで、刺されているのか刺されていないのかわからないまま、両手が痛痒く疼いた。


 炎天下、じりじりと背中を刺す日光に、汗が滲み出る。けれど荷台からはがした海藻は、異様なほどに乾きを知らず、踏みつぶして海水を絞り出そうが、じっとりと濡れていた。


「きしょくわるかあ……」


 ようやく荷台にこびりついていたのをはがし終えたあと、親父が呟いた。全くもってそう思う。呆然とそれを見下ろす。ただの海藻がうちあげられたものと言うよりは、それ自体が、巨大な生きもののように(うごめ)いて見えた。視線をそらしても、幻惑されたように視界に張り付いてくるそれが、俺の呼吸を乱れさせた。

 背中を汗が伝うだけで、全身の毛が逆立ち、露出した肌には、炎天下に似合わない、さぶいぼが浮いていた。過呼吸で急いた鼓動に合わせ、じっとりと濡れた軍手の中で鈍い痛みが走る。刺されたのか、かぶれたのか。いや、その両方か。

 その痛みはすぐに耐えられないものになった。片手なら手首を握り締めて血流を抑えることで、いくばくか痛みは和らぐが、両手となるとそれができない。焼けるように熱く、きりきりと痛む。歯を食いしばり、呻く俺を見るや否や、親父が俺の背中を押しながら走った。

 半ば押し込まれるようにして実家の玄関に上がる。親父は何も言わずにろうかの向こうの台所。シンクの下から酢を取り出し、金盥(かなだらい)に水を溜めたものも玄関先まで持ってきた。クラゲやウミシダ、ウニの類に刺された時の応急処置だ。酢で患部を洗う。酢の刺激でさらに患部がじくじくと痛む。


「どうしたっと?」


 親父の慌てように、母親も飛び出してきた。


「いらに刺されただけばい」


 重篤化すれば、もちろん危険だが、漁師だけあってこの手の事故は日常茶飯事、処置は急いでも動揺まではしない。

 だが、このときの親父は、明らかに呼吸が乱れていた。親父は母に耳打ちをした。親父の静脈の浮きだった青い色が、母にもうつった。


「かもじょ……、かもじょば憑いとる……」


 うわごとを呟くかのように母はそう言った。

 母は祖父母の仏壇の前に俺を正座させた。祖父母は帆波と会わずに死んだ。俺がちょうど島を離れたあたりだったと思う。

 い草の香る和室の中、鈴の音が響き渡る。音は襖や欄間の飾り彫りに反響し、複雑な音色が和室を包んだ。親父も母も数珠を携えて、南無阿弥陀仏と浄土真宗の経を唱えた後に、「息子ば守ってくれぇ、守ってくれぇ」と希った。俺は、かもじょ――物の怪やお化けの類――は、信じない質だったが、この島で、色々なものを見てしまって、信じざるをえないところまで来ている。

 

 いつまで俺は――


 親父と母は、遠く離れたこの島から、こうして祈りを捧げてくれていたのだろうか。毎日毎日。俺を守ろうと、ただ守ろうと。

 いつの間にか小さくなっていた背中を見つめる。


 理海が死んでから、俺は立ち直る暇もなく、帆波と過ごした。理海を忘れたくないと思いながらも、逃げるように帆波に愛情を注いだ。その帆波もいなくなり、俺は空白の二年間を死んだように過ごした。

 そして、都合よく精神的に参った今だけ、こうして頼って来ている。親指にできた逆剥けに、応急処置の酢が沁みる。逆剥けは親不孝のしるしだなどと言う。俺には、おあつらえ向きだ。


 俺は何をやっているんだろう。


 疼く逆剥けが、俺の不甲斐なさを責め立てていた。


 昼飯は、バイ貝の煮つけと、味噌汁だった。朝は俺の頬を平手で打った母だが、何も言わずに俺の無事を祈り、何も言わずに俺の昼飯をつくってくれた。

 湯気とともに甘辛い香りが鼻を刺す。螺旋状に巻いた、ちょうどほら貝を小さくしたような貝から、中身を楊枝で引っ張り出す。ぷりっとした照りのある、琥珀色の身が踊るように飛び出る。

 口に運ぶ。見た目通りこりこりと弾力のある食感とともに、優しい磯の香りと、白米が欲しくなる適度な甘辛さ、内臓のクセのあるえぐ味が口の中に広がった。いつも通りだが、母親らしい優しい味だった。

 縁側のある窓。軒先の風鈴がちりんちりんと鳴る。生暖かい風が、座卓の置かれた和室に吹きすさぶ。静寂の中に風音と、風鈴の音。


「――凪久」


 親父が口を開いた。帆波の影に襲われ、物の怪に憑かれた俺のために念仏を唱えた。そんな後だ、妙に委縮して親父の声に肩をびくつかせる。


「今日は村祭りばあるけえ。凪久、お前も行きぃ」


 村祭り。島の中心には、唯一の神社がある。市場からの帰り道でも出店の準備風景を目にした。それに行って来いと、親父は言う。

 もう、子供じゃあるまいし。そう言いかけたが、自分の不甲斐なさに、そう言い返す資格もないか、と黙ってしまう。子供じゃない俺が祭りに行ったところで、なんになるのか。


「かもじょは凪久に憑いとるんじゃなか。お前ん中におるけぇ」


 親父はそう言って俺の肩をぽんと叩いた。


     ***


 島の中心は小高い丘になっていて、そこに建てられた(やしろ)からは島全体が見渡せるようになっている。小さいころは、お祭りがやっていようが、いなかろうが神社の境内が遊び場だった。

 さっき、親父の軽トラで通りがかった石造りの大きな鳥居をくぐる。ちんどんちんどんと祭囃子が鳴っている。風を裂く鐘の音と、地を這う太鼓の音。胸の奥が底から突き上げられるかのような音色だ。それらに耳を取られながら、焼きそばの匂いや、出店の色とりどりの屋根を見ていると少しだけ気分が高まった。祭りとはそういう魔力を持っているのだ。


 こんなとき、帆波がいれば……。


 帆波がいたとき、湘南で暮らしていたときは、夏になると近くの祭りや遠くの祭りに必ず行った。理海がもし生きていたら、俺を笑っただろう。俺は、帆波を引き合いに出して、心から祭りを楽しむ子供になっていたから。


 一歩歩みを進める。

 掌に温かい感触を感じた。子供の手か――どこか帆波と似ているような感触だった。そう思い、感触のまとわりつく右手を見やったが、何もいない。すると、今度は自分の腰ぐらいの高さを背後から見つめてくる視線を感じた。振り返るが、鳥居の外で、童が跳ね回っているのみだった。俺に視線を向けていた存在はない。


 いや、なんだろう。

 まだ、視線だけを微かに感じる。


「凪兄、来てたの」


 視線の正体を探ってあらぬ方向を険しい顔で見つめていた俺に、声がかけられた。はっきり言って、最も合いたくなかった人物だ。


「れ、玲奈。おまえ……」

「なに……?」


 俺に上目遣いを向ける玲奈。彼女の態度に俺は、狼狽した。つい今朝までの気まずいやり取りなどなかったかのようではないか。


「せっかくだし。お祭り一緒に回る? ちょうど、手伝いも終わったから、自由にしていいって言われているんだ」

「――いいのか」


 ぼそりと呟いた俺に向かって、彼女は睨みつけるかのような視線を一瞬送った。その瞬間俺は、蛇に睨まれた蛙のごとく硬直した。

 が、すぐに何事もなかったかのように、玲奈は、陽気な表情に戻った。

 今朝の彼女の姿が抜けきらない俺は、ただただ彼女の背中を追いかけていくようにして提灯の連なる出店の列に溶けていった。――幼いころ、玲奈を先導して行った村祭り。今の俺は、そのちょうど逆の様子だった。


「凪兄っ、射的やろうよ」


 三軒目の出店で、俺はシャツの裾を引かれた。

 遠い昔。まだ理海と付き合いだした頃に行った祭りのことを俺は思い出した。あのときも、ちょうど同じように、理海に手を引かれて、射的をやったんだ。

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