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呪縛

 随分と遠回りをした。その結論にたどり着くまでに。

 そして、やっとたどり着いたけれど――どうすればいい?

 結局振出しに戻って、何もなくなったのと同じじゃないか。

 (サザナミ)も、荒波も。違うことを言うけれど、俺に見せる姿は帆波そのもの。だとしたら、彼女らの存在は何なのか。


 答えは簡単だった。


 ふたりは、まだ現実を受け止められないでいる俺自身が生み出した幻。

 だから、だから何?

 結局、帆波はいない。変わらない。何も、何にも変わらない!


「そんなこと、はなから知っている。知っているんだよっ」


 だとしたら、なにが腹立たしいかって。

 もう、帆波も戻らない。俺を置いていった妻の理海も帰らない。だったら、だったら。目の前でいる、自分の未練の象徴なんて。


「俺の目の前から消えてくれぇえっ!」


 自分の未練が見せた幻だと言うのなら、そこで消えてくれるものだと、乱暴な言葉を吐いた。

 だけど、漣は姿を消すことも変えることもしないままに。俺の顔を見上げて、きょとんとした顔を数秒。その後、声を上げて泣き始めた。


 いったい、なんだって言うんだ。

 いったい、俺にどうなってほしいと言うんだ。


「なんだって言うんだよ……」


 目の前でへたり込んで、えっぐえっぐと嗚咽を漏らしている漣。彼女が、生身の人間かどうかは分からないが、手を差し伸べないわけにはいかなかった。手が触れると、ちゃんと温かい。


「ごめんなさい」


 ぼそりと声を漏らす彼女。

 だが、彼女の何が悪いのだろう。彼女が俺の未練が見せた幻ではないとして、彼女の存在そのものに非は何もないはず。自分の勝手な都合のせいだ。うつむけた顔を上げる。


「謝る必要はな――」


 そう言って顔を上げると、今度は彼女の姿はそこにはなかった。

 やはり、幻だったのか。


 だけど、彼女が立っていた場所には、まるでその痕跡を示すかのように、アスファルトが湿って鼠色の染みを作っていた。彼女の声も歌も、そこにはない。


 ただ静かに波の音が響いて、一羽のカモメが悲しい声で歌っていた。


 そこからは、三十分ほどひとりで歩いた。重い足取りで歩いた。

 島を取り囲むようにして、海岸線伝いに道路が走っている。そこから、一定間隔で内陸に向かって食い込む細い道が出ている。この島の道路開発はそういった具合だ。

 石造りの塀が高く、屋根と同じくらい。この島では、台風の被害が深刻であり、風避けのために塀を高く、家自体の高さは低くしてあるのだ。

 家の前には、漁船の船着き場があり、親父の持ち船の久之丸(ひさのまる)が停泊していた。時刻は朝とはいえ、陽は高く昇っており、所謂漁師の朝からすればずっと遅い。親父はもう家にいるということだろうか。


「あんたっ」


 うつむいていた俺の頭のてっぺんに向かって、母親の声が飛んできた。


「心配しとったんよ。あんた、玲奈ちゃん家に世話なっとうたって」


 母の声に虚ろな返事を返す。

 抑揚のない、聞き取れるか聞き取れないかぐらいの声で。唸ったという形容のほうが正しいくらい。


「玲奈ちゃん、なんか言っとうたか。久しぶりの再会じゃけんな」


 彼女が何を言わんとしていたか。それは感の鈍い俺でも分かっていた。

 分かっていたから逃げてきた。 


「――とくになにも」

 

 薄っぺらい嘘だ。脳裏に彼女の憂いをおびた言葉が蘇る。

 

『優しくしてるわけじゃないんだよ』


 それがどういう意味なのか。分かっていない振りをして、わずかな時間だけ訪れる心の平穏。そんなものに甘えてしまっている自分。 


「昔はずっと、ふたりで一緒やったけんなぁ。あんたが東京の方行くって言ったとき、あんたにはそんな素振り見せんかったかもしれんけど、あの子が寂しがっとったの知っとうとよ」

「そんなこと、今更知ってどうなるんだよっ」


 苛立ちのまま、口をついて出てきた言葉。

 母は顔をしかめ、俺のもとにゆっくりと一歩踏み出し、俯いた俺の右の頬を平手で打った。


「あんた……、玲奈ちゃんを泣かせたっとねっ」


 立っているのがやっとの俺は、年老いた母親の平手でもふらりとよろける。母親の両の目には、涙が滲んでいた。


「理海が死んで、帆波が死んで、辛いんは分かる。でも、そいでひとん気持ちまで踏みにじってどうすっと! あんたは優しいのが取り柄やなかっと?! どがんして、そがんに冷たか子になってしもうたっ」


 冷たい。誰の優しさも受け付けなくなってしまった自分が、そう言われるのは分かる。

 だけど、俺はどうすればいい? あのとき、玲奈に――


『優しくしてるわけじゃないんだよ』


 その言葉に、自分は何を返せばよかったのか。

 母にもそんなこと聞けるはずもない。母は、俺を見限ったかのように実家の土間に吸い込まれていった。まだまっすぐ伸びていたはずの母の背中が、小さく見えた。


 俺は母のいる実家の中に戻れるはずもなく、船着き場の桟橋に胡坐をかいて座り込み、久之丸の姿をぼうっと眺めていた。――こうしていると、小さいころに家を閉め出されたことを思い出す。男の精神年齢は、子供のまんまで成長しないと聞いたことがあるが、いい得て妙だ。


 今の俺は、無様だ。ひどく……、無様だ。


「凪久、ここで何しとっと?」


 水平線の向こう側に虚ろな視線を送り続ける俺に、天から父の声が降り注ぐ。

 市場を引き上げるから手伝ってほしいと。上の空の俺に容赦なく言って来る。――だけど、これは父なりの優しさだった。

 小さいころ、俺はよく母親に叱られた後、頭を垂れているところに、親父は必ずやってきた。なぜ怒られたかわかるか。それだけ尋ねて、見当違いなことを言わなければ、決まって仕事を投げてきた。

 親父曰く、人生で最も無駄な時間は、反省もなく落ち込んでいる時だと。落ち込みだけが続くなら、さっさと忘れてしまえと。親父の中では、何かを忘れるのに最も効果的なのは、単純な作業ということになっていた。


 市場には、朝の活気はもうない。島の外へと輸出する品は最も早くに決まる。続いて島の中に出回るもの。今の時間帯で残っているものはほとんどが、見切り品だ。もともと品物に出せるものではないので、漁師仲間の間での物々交換が行われたりしている。

 軽トラックの荷台に網や魚篭(びく)、プラスチック籠を積む作業を延々と繰り返す。引き上げた後は、魚の血や(はらわた)で汚れたコンクリートをデッキブラシで擦って清掃する。毎日のように魚を寝かせるところだから、念入りに掃除する。親父以外の漁師からも声が飛び交い、この作業をすると一気に島の方言を習得する機会となる。


「そこば持ちぃ」

「邪魔か」

「クロば持ってくっと?」


 頭の中が、言葉で埋め尽くされる。何も考えられなくなるくらいに忙しい。そのことにむしろ感謝の意を向けながら、無心になって作業を手伝う。


「こんで荷物ば、全部積んだけえ。乗りぃ」


 作業からの解放を表すその言葉には、むしろ虚しさを覚えた。

 都会でデスクワークに慣れた腕が痛む。けれど、もうこの島に帰って来て二週間の月日が経ってしまった。もう筋肉痛にも慣れてしまった。

 だけど相変わらずハンドルを握る現役の親父の腕は、太く逞しい。


「今日はスルメば、よう売れたか。祭りがあるけえ」


 助手席から眺める村の様子もどこか浮ついているようだ。

 島の中心、小高い山になっているところに唯一の神社がある。その入り口の鳥居から続く参道に沿って祭りの屋台が並んでいるのが見えた。

 夕方から始まる祭りに向けて、提灯をぶら下げている人もいる。その中には、あの似合っていない金髪の女性もいた気がした。


『優しくしてるわけじゃないんだよ』


 ここに帰ってきたのは、何のためなんだろう。

 俺は理海を、帆波を忘れたくて、でも忘れることにさえ罪悪感を感じて。漣と荒波。正反対の幻影を見て。俺はただただ帆波の影に怯えて。かと思えば、玲奈の想いにも目を背けている。――ぐるぐると渦巻く思考の周期に合わせて、母親にはたかれた跡が疼く。


 俺はまだ、自分を許せない。


『おとうさ……ん……。さむ……い……よ……』


 あの夜、紫色の唇が謳ったその言葉。


『たすけて……。おとうさん』


 俺が応えてあげられなかった、あの言葉。

 考えれば考えるほど、行き着く答えはひとつ。自分が帆波を殺したも同然ということ。

 俺はまだ、自分を許せない。


 フロントガラスを一粒の雨が打った。

 それを合図にざあざあと大粒の本降りとなった。


「そうだよ。それでいいの」


 窓ガラスを打つ雨音にまみれて、背後から声が聞こえた。

 背後というのはおかしい。軽トラックには後部座席はない。助手席の背後は、荷台を見渡せる窓がついているだけだ。


 そう、そこに人がいるはずは、ない。

 

「だって、あなたがあたしを忘れられるはずがないもの」


 背後から声が聞こえるなんてことは、あるはずがない。

 背中にひやりと水が這うのを感じた瞬間に、トラックは急ブレーキをかけた。揺さぶられた視界に、窓ガラスを覆いつくす真っ黒な藻が目に入る。

 ミラーに映る、血の気が引いて蒼白くなっていく俺の顔。

 視野を奪われた軽トラックは、コントロールを失い、道路を外れて畑の中に突っ込んだ。横転することはなかったが、身体が前後左右に大きく揺さぶられ、ベルトにロックがかかって、俺と親父の身体はシートに拘束された。


 いや、動けないのはベルトのせいだけではない。


 べたん。べたん。


 真っ黒な藻の上から、掌が車の窓ガラスを叩いた。

 その両の手で、藻をかき分け、視野が開けたところをすかさず、皮膚が紫色に変色した、顔面が、だんっと押し当てられる。

 濁った瞳が、ぎょろぎょろとこちらを睨みつけてきた。

 その肢体は痙攣するように、窓ガラスをしきりに平手で打って、ボンネットを脚で蹴たぐる。


 べたんべたん。


 がたんがたん。


「ほら、だって。あなたには、あたしがまだ見えているんだもの」


 べたんべたん。


 がたんがたん。


 生前の面影を残しつつも、禍々しく変わり果てたそれは、しきりに視界にべったりと張り付いてくる。

 窓を叩き、後ろから耳打ちをするような声を這わせ、聴覚を支配する。

 窓ガラスの隙間から漏れた、むせ返るほどの磯の匂いで嗅覚を奪う。

 あたしを、忘れないで。そう強要してくる。五感のすべてを乗っ取って、自身の存在を主張してくる。


「凪久、着いたっと」


 どこから俺は眠っていたのだろう。


 おどろおどろしい悪夢を見ていたことが自分でも疑わしいほど、静かな寝覚めだった。外は、雨の一滴も降っておらず、代わりに、気の早い初夏の暑すぎる日差しが降り注いでいた。


 さっきのは、また――



「まだ、力仕事ば慣れんか」


 苦笑いをしながら親父になじられる。また、幻を見てしまった俺。不甲斐ない自分に舌打ちさえできないから、考えることを放棄した。


 忘れよう。何もかも。


 車から降り、荷台の荷物を降ろそうと荷台を見やった。忘れようと思った矢先に飛び込んできた光景。

 思わず、後ずさりをしてしまった。


「どがんしたと?」


 遅れて親父も、荷台に広がっていた異様な光景に、眉間に皺を寄せて怪訝な顔を浮かべた。

 そこには、おびただしい量の真っ黒な藻があった。ぐっちょりと濡れていて、あの、腐臭の混じった、むせ返るほどの磯の臭いを放っていた。

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