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突きつけられた現実

 すぅすぅ、と怜奈の寝息が聞こえる。潮風で傷んだ金髪が、腕にかかっている。あれから結局着替えることもないままのワンピースからは、少し潮が噴き出ていて、肩口は少しはだけてしまっている。


 ――無防備だ。


 いっそ手籠めにでもしてしまえばいいのか。

 俺に向かって、いなくならないでと言ってくれた。けれど、俺に何ができる?

 俺は結局、帆波がいなくなっても、帆波のために生きることしか知らない。


「起きろ。風邪ひくぞ」


 積極的に玲奈の意志を避けているのが、自分で分かってしまう。何もかも、すべてに後ろめたさがつきまとう中、起きていても聞こえるかどうかわからないような声で玲奈に呼びかける。酔いに誘われた深い眠りだ。当然のごとく、起きるはずもない。

 どこかで、それに安心してしまった俺は、玲奈をそっと床に寝かせて、彼女のベッドにかかっていた布団を彼女にかけた。


 この場をやり過ごしたい。

 彼女から逃げるように距離を置いて、壁にもたれかかる。ズボンから携帯電話を取り出す。水没したせいで、電源が入らなくなってしまった画面に、虚ろな自分の表情が映った。

 やがて、水がゆっくりと満ちて、息が詰まって意識が遠のくような、そんなまどろみの中に俺は堕ちていった。



「いっつ!」


 いつから自分が寝ていたのかとか、全く覚えていない。

 気が付いたら、眠ってしまっていた。そんな眠りから、唐突に解き放たれる。右頬に感じる痛覚によって。


「凪兄、おはよ」


 飛び起きると、玲奈がにっこりと笑顔を浮かべていた。

 声色は明るく、昨日のことなんてすっかり忘れてしまっているみたいだ。二日酔いとか、していないのか。当惑している俺の顔を、玲奈は笑う。

 だが、どうしてか。彼女の表情が、俺には読めないものに感じてしまった。


「シャワー浴びてきたら? 今、朝の支度してるから」

「えっ……」


 起きたら、すぐに帰されるかと思っていた。

 むしろ、その方が、都合がいい。俺は当惑のあまり、間の抜けた声を出してしまう。


 玲奈はそんな俺を尻目に、いそいそとキッチンに立ち、ヘアゴムで長い髪を纏める。包丁とまな板を取り出して、キュウリを洗って切り始めた。

 料理をする手つきは、慣れたもの。どこでもコンビニや飲食店のある都会とは違うのだから、その日を暮らしていくうちに自然と身についたのか。


「朝のうちに、凪兄の母親に電話を入れておいたから」

「――俺の家の電話番号は知っていたのか」


「……、久しぶりにかけたわ」


 背中越しの会話は、さっきまでとは真逆の、翳りのある声で途切れた。


「風呂入ってて。その間に、簡単だけど朝ご飯つくるから」


 露骨な声色の違いが産んでしまった沈黙。耐え切れなくなった彼女が、俺をひとまず風呂に入れようとする。

 酔いつぶれた俺を部屋に泊まらせて、風呂も朝食も支度してくれる。

 でも、俺はその優しさに甘えることが怖かった。


「い、いや遠慮するよ」


 彼女の優しい声が、なぜだか恐ろしいもののように感じてしまう。


「凪兄、ここは湘南と違ってコンビニとかないのよ」


 そう言って、俺をからかって笑う悪戯っぽい笑顔も。その奥に、俺が受け止めきれない想いがある。どうしたら、いいんだよ。

 

 俺は、彼女に対して、どう接すればいい?

 

「でも今は実家に帰っているわけだし。流石にそこまで世話になれない。ずっと迷惑かけてばかりだし、もう、帰るよ」


 目も合わせないまま、足早に玄関に向かう俺の背中彼女が呼び止める。


「……、どうしても……帰るの?」


 優しい声から、希うような声へ。

 それまでの笑顔や優しさのように、裏があると感じさせるものではなくなったけれど、それこそが、剥き出しになった、俺が恐れる彼女の想い。


 帰るの?

 帰りたいの?


 逃げるの?

 逃げ出したいの?


 脳裏に反響する彼女の声が、自分の頭の中で勝手に姿を変えていく。

 

『お父さんも、こいつの肩を持つというのっ! お父さんは、この女とあたしのどっちが大事なのっ!』


 昨夜、帆波の影が放った、怒り狂ったような叫びが頭の中に蘇る。

 必死に玲奈の想いを避ける俺の中にいる、帆波に対する後ろめたさを拭いきれない自分。あの影の声は、自分に限りなく似ていて、どこか心地良い。


 本当は気づいているのに、知らないフリをするんだね。


 だから、玲奈の声が、心臓に刺さるように聞こえてしまう。

 彼女は、安息を与えようとしているのに。俺には、救われる覚悟がない。


 家族の世話になって、あたしの世話にはなれないの? ねぇ、凪兄――


「優しくしてるわけじゃないんだよ」

「……、ごめん」


 ついに、俺は彼女を突き放してしまった。

 直接そうしたわけではないけれど、肩を突き飛ばされて床に転がる彼女の姿が目に映るようだった。


「そう。――じゃあ送っていくね」


 彼女の声が体温を失って、冷たくなった。

 俺はそれを感じていながら、知らないふりをした。そこで、気付いてしまえば、後戻りはできない。


 彼女の気持ちを受け止めたら、俺はどうなれるって言うんだ?

 気付かないふりをしろ。

 救いようのない鈍感を装え。


 俺は自分の中の臆病者の言いなりになった。臆病者に言われるがまま、彼女の部屋の玄関を出た。


 彼女の足音が、とぼとぼと俺の数歩後をついてくる。振り返れない。振り返ることなんて、できやしない。やがて、彼女の足音は途絶えた。

 島の沿岸部をぐるりと囲む、島で唯一の二車線道路。その歩道に少し出たか、それくらいで、彼女はその足を止めた。


「それじゃあ、凪兄。――さようなら」


 背中越しに聞こえた彼女の声。


「ああ、世話になった。ありがとう」


 彼女のことを振り返ったけれど、俺は臆病者のままで。

 別れの挨拶をする彼女の表情を見ることすらできないで。推し測ることすら拒んだまま、自分の家に帰ることだけを考えていた。


 ふと、カーブミラーが目に入る。そこに、胸に悪いものが映っていた。

 

 アパートの前で、膝を抱えて蹲るひとりの女性。


 少しだけよろけて、くるぶしに鉛玉でもくくりつけられているかのように、足取りが重くなった。まるで何かが、俺の足を後ろから引っ張ってるみたいだった。

 ひとりの女性が蹲ったところから立ち上がり、猫背勝ちにアパートの方角へと消えていく。反転した丸い世界の中で、その一部始終が見えた。

 胸がひどくざわめきながらも、俺はそれを唾とともに呑み込んだ。


 それから視界は、古ぼけたアスファルトの灰色が埋め尽くすのみとなった。

 俺があのとき、見過ごしたものは、人生の分岐点。

 玲奈の想いを受け止めることを俺は拒み、俺の人生はまた、変わる機会を失って惰性になった。続ける意味のない惰性。


 ざああ、ざああと寄せては返す波の音が聞こえる。

 この島じゅうに響き渡る、海の生きる声。海鳥の鳴く声。生命の息吹の溢れる聴覚の中で、俺の呼吸の音はますます声を潜めていくようだった。



 海の鳴く声は いつに生まれたの

 誰もそれを 知らなくて



 環境音が存在を強める中、はっきりと人間の声と判別できる音が混じり始める。幼い少女の声。帆波――、いや昨日に会ったあの少女が口ずさんでいるのか。



 心もとない私を どうか教えてよ

 あなたの中に 息づきたい


 幻だとか 本当だとか あなたはこだわるけど

 あなたが感じたなら 私はあなたの心に住める



 やがて、それは聞き覚えのある旋律へと変わっていく。俯きっぱなしだった顔が、ふと上がった。


 再び、あの少女に会える気がして。


 そこは、昨夜と同じ場所だった。テトラポットが周りに沈められたコンクリート製の岸壁に隣接する小さな岩礁。昨夜、置いてきぼりを喰らったカーバイドランプが、そこが同じ場所であることを伝えている。



 息づくあなたの海で 泡が消えてしまって

 あなたが私を認めなくても 消えるまでは私は

 海の中を泳いでいられるの

 


 そこでまた、あの少女は歌っていた。

 両手をまるで翼のように広げて。雲のない晴れ間に向かって、声を上げる。そして、くるりと身体を回転させて、軽やかに岩礁の飛び石を渡っていく。バレエのステップのような足取り。

 非現実的な色合いの水色の髪が、朝陽に照らされて光の輪を放っている。


『あなたが望むなら、私、帆波を思い出すよ』

『お願い、私に帆波を教えて欲しいの』


 (サザナミ)という名の、帆波と瓜二つの少女。

 彼女の言葉を思い出して、近くにあった自動販売機で、ネクターを買う。帆波が好きだったピーチやマンゴー、パイナップルの果汁を混ぜたフルーツジュースだ。

 

 早くしないと、彼女が消えてしまいそうで、俺は半ば必死に走りながら、岩礁にたどり着く。玲奈を前にした俺と、(サザナミ)を前にした俺。ふたりが同一人物なのかどうか、自分でも怪しい。矛盾しているとさえ思える。

 

「……また、会ったね」


 それでも、彼女の屈託のない笑みを見ると、自分がたった一瞬でも許されたような気がして。


 俺が守れなかった帆波が、俺に向かって笑っている。


 彼女の笑顔がそう見えることが、俺にとって唯一の安息。


「これ、帆波が好きだった……」

「ありがとうっ」


 彼女にネクターの缶を手渡して、ふたりで岸壁から足を投げ出して座る。

 ぷしりと、小気味のいい音が鳴る。缶の中から、うっすらとビタミンカラーに色づいた半透明の液体が、果物の甘く芳醇な香りを放っている。

 桜色に色づいた、彼女の愛らしい唇が飲み口につけられて、ごくごくと喉が鳴った。ひとしきり飲み終えて、目をつぶって唇から絞り出すように声を出す。


「おいしいっ」


 美味しい。そう感じると帆波は、目をつぶる癖があった。


「甘酸っぱいね。これも帆波が好きだったもの?」

「あ、ああ。いっつも自販機を見ると、せがんできた」


 飛び跳ねて、「これっ」と指さす愛しい声が頭の中で反響する。俺は、帆波に似ている彼女の中に、帆波を求めていた。それは、彼女自身もそれを望んでいるから。そう思っているからこそ、俺はこの後ろ向きな感情を彼女に対して剥き出しにできた。


「――あなたは、帆波のためなら生きれるのね」


 それを彼女が許してくれる。


「ねえ、あなたはどう思ってるの? 彼女のこと」


 そう思ってたけれど――それは……思い違いだった。


「彼女って?」

「昨日、一緒にいたでしょ……。ねえ、あなたは、私のために生きる必要性はないのよ。私が……、存在の意味を欲しいだけで。あなたがそれを与えなければいけないわけじゃない」


 彼女は、俺が彼女に求めていたものとはまるで違うことを口にし始めた。それも、俺が今この瞬間、最も耳を塞ぎたいことを。


「違う、俺は……、玲奈とどうなりたいとか」

「あのひと、とっても嫌な顔をしてた。私のことを、あなたを海に引きずり込んだ亡霊とでも……。私もね、誰かの想いを犠牲にしてまでも、自分の存在の意味を得たいと思わない。だから、あなたには……」


 聞きたくない。やめろ。

 やめろ。やめてくれ、やめてくれっ!

 君は、俺に過去にとどまることを許してくれて。

 君は、帆波になりたいって言ってくれたじゃないかっ! 

 だから玲奈のことを言うのはやめろ。

 俺に答えを求めないでくれっ!


「俺に、どうなって欲しいとも、言わないでくれ!」

「ねぇ、忘れないで。私は帆波じゃないんだよっ。私は、帆波になりたくてもなれない」


 懇願する俺の声もむなしく、その言葉は、俺が求め続けていた都合のいい幻の口から、放たれた。

 俺が最も聞きたくなかった現実。


「だから、帆波はどこにもいないの」


 帆波は、俺に幸せになって欲しいとも、自分の後を追って死んで欲しいとも言わない。ただ、帆波はどこにもいない。それだけなんだ。


 それだけでしかないんだ。

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