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荒波と漣

 影の顔は、肌が真黒に塗りたくられたようで確認できない。なのに、俺を責めるその赤い眼玉だけがぎょろぎょろと見える。

 鼓膜にべったりと貼りつく、せせら笑いと、すすり泣く声。

 無力な俺を嘲笑う声と、その無力さを責めたてる涙声。

 正反対の感情が入り混じって、不安定な不協和音を奏でている。その音色が鼓膜に貼りつく。べったりと。


 彼女が、帆波。彼女こそが、帆波なのか。


 影が放つ気迫は、漣から感じ取ったものとはまるで異質。そこはかとない嫉妬が潮の臭いとともに匂い立つ。

 それが……、それを感じて、彼女を帆波だと思わないことが、俺にできようか。


 そう、帆波は、俺の目の前で息絶えた。

 俺は、帆波を、守れなかった。


「お父さんには未来なんて忘れて欲しいのに。あたしだけを見て欲しい」


 そう言って玲奈を指さす影。ああ、帆波だ。彼女こそ、帆波だ。

 彼女が帆波で、俺を恨んでくれているのなら。いいや――


 俺が守れなかったんだっ。

 俺を恨んでくれ。いっそ、殺してくれっ。

 帆波になら殺されて構わない。帆波のためなら死んでしまったっていい。


 自暴自棄な叫びが、心臓の中で跳ねまわって胸をずたずたに切り裂いていく。影は、それを感じ取るかのように、いっそう濃い腐臭を放った。

 

 むせ返るほどの潮の臭いと腐臭。べちゃりべちゃりと湿った足音は、腐敗した肉が崩れる音を混じらせる。夏の始めだというのに、凍てつくような冷たさが彼女のつま先から地を這ってこちらに伝わって来る。

 俺の隣で玲奈は、尻餅をつき、唇を振るわせながら後ずさり。玲奈には彼女の姿が、どう見えているのだろうか。いや、俺と同じか。生者を疎む死人の姿――でも、俺はそんな影に責められたくて、仕方がないっ。


 べちゃりべちゃり。近づいてくる。


 雲の隙間から蒼い月明かりが漏れて、彼女の姿を照らし出した。長い髪は潮に晒されて痛んでいる。足元には藻と漁網が絡みつき、青白い肌には赤黒くただれた傷が開いている。

 ああ、見覚えがある姿だ。


 引きつった笑みを浮かべて影は言った。


「お父さん、もう帰る時間だよ。惰性はお終い。親は子のためなら、死ねるものでしょう? あたしをひとりにさせないで」


 彼女は、打ち上げられた藻が日差しの中で腐りゆくような臭気で、俺の意識を麻痺させた。成すがままの俺の顎を掴み、向き合わせて瞳の奥の奥まで、抉るように睨み付ける。その瞳は、赤黒い固化した血の色をしている。

 やがて、彼女の脚を絡めていた藻が、食虫植物が虫を捉えるように、俺の脚にまで絡みついてきた。藻には皮膚を犯す毒があるようで、火傷を負ったような痛みと、電気が走るような痺れが襲う。


 ああ、これが帆波が感じた痛みか。――あれは、真昼の暑い熱が残る夜。


「ウミホタルを見に行こう」


 帆波と伊豆に行った夜のこと。夜の海にウミホタルを見に行こうと提案した。理海が死んで、帆波が産まれて。彼女が七つになった夏の日だ。


「うみほたる? 蛍が海にいるの?」


 彼女は目を丸くして、無邪気に問い返す。ウミホタルは遠浅の、穏やかな砂浜に生息する発光性の甲殻類だ。

 灯を携えて夜の砂浜に行く。途中、岩礁を抜けるが、滑りやすいそこだけ気を付ければいい。


 そんな思い違いをしなければ、彼女はきっと――


「滑りやすいから、気を付けろよ」


 光の強い、防水性の潜水ライトをふたりで携える。ダイビングが趣味だった理海の遺品だ。夜の伊豆の海は穏やかだったが、藻がへばりつく岩礁は滑っているため細心の注意を払って通過しなければいけない。


「うん」


 でも磯遊びに慣れていた帆波は、しっかりとした足取りで足場の悪い岩礁を踏みしめていた。握り合った手は、こちらを引き戻すことはなく、ぴったりとついて来ている。


「帆波は磯を歩くのが上手いな」

「だって、海が好きなお父さんと、お母さんの子だよ」


 そう言って、潜水ライトの光にで自分の笑顔を照らして、にかっと笑いかける。日に日に伸びる長い髪と、背丈、大人に近づいていく顔立ち。どんどん理海に似ていくようだった。


『大丈夫よ、あなた。私がいなくなっても。このこが私の代わりになってくれるから』


 理海の言ったとおりだ。帆波は屈託のない笑みで笑えるけれど、俺が帆波に向けているそれは、裏表のないものとは言えない。彼女の父親だから、彼女の前では気を張っていよう。そんな浅はかな虚栄心が、俺を辛うじて立たせていたのだろう。


「帆波、そろそろ砂浜に出るぞ」


 岩礁を抜けると、白い砂浜が広がっていた。穏やかな波が砂をさらっている。


 途中で拾った流木を携えて、下に履いた水着が海面に浸かるところまで歩みを進める。背丈の差を考えて、帆波は浅瀬で待たせることにした。

 水面を流木で叩いて、光ればあたりだ。

 あとは水を掻きわけて光らせれば、身体を囲むようにして青白く光ってくれるはず。帆波に見せたいな。そう思っていた。


「った……!」


 彼女が小さく叫んだ。振り返り、ライトを向ける。何かが足に絡まったと。


「ざらざらしていて、痛いよ」


 近寄ってみると彼女の脚を、藻が絡みついた漁網が捉えていた。魚を捉える、魚から命を奪うべく編まれた網は少女の脚を痛めつけていた。皮膚が引っ掻かれて、赤く爛れている。


「ちょっと待って、動かずにじっとしててくれ」


 海中を照らしながら、彼女の脚元を調べる。海面はちょうど、彼女の腹部の辺り。

 

 今思えば、人の命を奪うには充分な水位だったと思う。

 

 網には、爪がついており、海底に爪跡を残す。それが彼女の皮膚を抉っていた。


「血が出てるじゃないかっ」

「だ、大丈夫……」


 さらにばつの悪いことに、網にはいくらか藻やウミシダが絡んでいた。ウミシダの中には皮膚を犯す毒を持つものもいる。それらが脚を蝕み、季節に鈍感な冷たい海水を染み込ませていた。


 体温を奪われている。危険な状態だ。


 そう判断したにもかかわらず、俺は彼女の脚から網を解くことに夢中だった。

 だけど網は、厄介なことにがっちりと彼女の脚を掴んでいる。そして、動けば彼女が海中に引きずり込まれるほどに鉛のように重かった。海に沈めて水底を引っ掻くことに特化した網。簡単に解けるはずはなく、刻一刻と帆波は衰弱していった。


 彼女は肩を震わせて、唇を真っ青にして、息も絶え絶えに言った。俺の肩に弱弱しくもたれ掛かりながら。


「おとうさ……ん……。さむ……い……よ……」


 死人のように冷たくなってしまった体温が、俺に現状を知らせた。

 

 帆波がいなくなる。


 そう初めて自覚して、救急車を手配した。でも――


「おそ……いよ……。遅い……」


 影は、俺に向かって、帆波が言えなかった言葉を呟いた。そう、遅かったんだ。気が付いたときには、何もかも。

 慟哭が、胃酸とともに上がってくる。


「お父さんが、あのときもっと早く誰かを呼んでいれば、あたしは助かったの」


 帆波が言えなかった言葉。俺が心のどこかで帆波に言って欲しかった言葉。それを謳いながら、冷たい腕で抱き寄せて、爪を立てて、引っ掻いた。


「あたしがこうなったのは、あなたのせいなの。だから、お父さんはあたしから逃れられやしない。‘こっち’へおいで。もう苦しまずに済むから」


 冷たい優しさを持った声。俺は、地面にへなと膝をつき、彼女の腕の中で涙を流した。

 俺は今、彼女から、責めるような瞳で見つめられて。彼女と同じように藻の絡み付いた網に脚を絡めとられて、皮膚を犯されて。痛みと毒に喘ぎながら体温を奪われて、やがて、同じように死に至る。


 俺の知らなかった、彼女の痛み。俺が知ろうとしなかった帆波の苦しみ。


 ああ、全身で感じている。

 父親として彼女を守り切れなかった自分。父親になりきれなかった自分。せめて、その苦しみを分かることができたら。


「……帆波……、それでお前がいいなら、俺は――」


 そう言いかけたとき、頬に痛みが走った。はっきりとした痛みだ。

 脚に絡みついていた痛みは、実体がなく、幻であったことを悟る。

 俺の頬を打ったのは実体のあるもの。――玲奈の手が紅く色づいていた。また、玲奈は泣いていた。


「駄目だよ。行かないで、凪兄」


 先ほど、海に身を投げた俺を救い上げたときの声とは違う。

 玲奈にも見えていたんだろうか。俺が亡くなった娘のことを引きずっているということを、知ってしまったのだろうか。

 優しく諭すような声は、俺の悲しみが玲奈にうつったということを感じさせた。


 またしても、玲奈は引きずられる俺を留めた。

 だが、影は玲奈に飛びかかった。その小児の外見からは想像もつかぬような力で玲奈を押し倒し、喉元を抑えつける。嘔吐いて、せき込んで喘ぎ苦しむ玲奈。


「お前、本当に目障り。そんなことしたら、……あたしは、ひとりのままじゃないっ」


「帆波、やめてくれっ!」

「お父さんも、この女の肩を持つというのっ! お父さんは、この女とあたしのどっちが大事なのっ!」


 影は俺を責めたてる。そんなこと決められるわけがないだろ。

 自分が生きるということを望んでいる玲奈と、自分が死ぬことを望んでいる帆波の影。――俺はどっちに身を委ねればいい?


「迷うことなんてないわ。お父さんの迷いは、あたしがなくしてあげる」


 影は、血の通ってない青白い腕を血走らせて、玲奈の首を絞め上げる。苦しむ声すら玲奈の喉を通らない。


 彼女を止めたい。でも彼女が帆波なら。

 どうすれば、俺はどうすれば――俺は、どうしたい。帆波に、玲奈に、俺に、俺は、帆波を、玲奈を、俺は、俺は――


「やめてっ」


 そしてまた、現れた。

 瑠璃色の髪をした、自分は「帆波じゃない」と謳った少女が、髪色と気迫を除けば、影と瓜二つの少女が、玲奈の喉元から影の冷たい腕を引き剥がした。

 解放された玲奈は、嘔吐いて血の混じった痰を吐き捨てた。


「残念よ。あなたが探しているものが、あたしかも知れないのに」

「……、私は、あなたが帆波だとは思えない。いや、思いたくない」


「なにそれ、あはは」


 漣の反論に、影は嘲笑を返した。やがて、にやりとほくそ笑む。


「あなたも、この女も揃って、とんでもなくわがままね。自分が生きたいって理由だけで、死んだあたしの想いを捻じ曲げようっていうの?」


「あなたは帆波じゃない」

「ええ、そうよ。でも、あなただって、そうじゃない。あたしの名は荒波(アラナミ)(あなた)が帆波になりたくて、帆波になれないように。あたしも、帆波になりたくて、帆波になんかなれやしない」


 荒波と漣。ふたりは鏡に映したように、同じで反対だった。

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