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 (サザナミ)。彼女の姿は、奇妙だった。鮮やかな瑠璃色は、自然に存在する髪色ではない。御伽噺や創作の中でのみ存在する、架空のものを象徴するような色だ。

 俺は声をかけてしまった。が、その幻想めいた見た目から、そこに彼女が存在するということに疑問を抱き始める。

 テトラポットを打つ波の音が、狼狽する鼓動の拍子の裏を取るように響く。それでもカーバイドランプに照らされた彼女は、揺らめくことも消えることもなかった。昼間に船の上で見たあの幻とは、似て非なるもの。


(サザナミ)……」


 聞かされた名前を繰り返す。すると、彼女は笑った。

 碧い水面(みなも)のごとく、透き通るような笑み。でも、その水面の下には、深い深い海が広がっている。彼女の表情には、そんな“読めないもの”が潜んでいる気がした。


「あなたの名前は?」


 聞かれたままに応える。なぎひさ、懐かしい響き、彼女はそう言って、ゆっくりと目を閉じる。彼女がそういうように、彼女の中に“一部”として帆波が存在しているからなのか。でも、彼女はどうして、帆波のことを知っているんだ。帆波の記憶を持っているのか。


 彼女は、素足の裏で水面を掴んで立っている。まるでアメンボのように。人としての形を持ちながら、どうしてそんなことが出来るのか。彼女の存在は、謎と幻想で満ちていた。


「きっと、あなたの名を懐かしいと感じるのは、帆波があなたのことを好きだったから。――ねぇ、触ってみてもいいかな?」


 カーバイドランプの眩い光を反射して水面にできた光の道の上。彼女の白くしなやかな脚が、その天の川をなぞる。

 平均台の上でバランスを取るように、両の手でやじろべえ。

 一歩、――また一歩。右足のまっすぐ前に左足を置いて、またそのまっすぐ前に右足を置く。そうして十数歩歩いて、彼女は目の前までやって来た。


 立ち上がった俺の、ちょうど鳩尾(みぞおち)のあたりに彼女の頭が来る。懐かしい、愛しい背丈。そしてよく帆波がそうしていたように、俺の背中に細っこい腕を回して、腹部に顔をうずめる。長い髪と俺の服をこすり合わせて、わしゃわしゃと音を鳴らす。


「この温もりと匂いが、帆波は好きだったの?」


 そして、お腹に顎を乗せて上目遣い。髪色だとか、目の色だとか。違うところはあるけれど、彼女の中に帆波の面影を感じずにはいられない。俺は、成すすべもなく頷く。ゆっくりと目の前にある面影に手を伸ばす。髪を撫で、頬に触れる。


「くすぐったいよ」

『くすぐったいよ、お父さん』


 頭の中で声が重なって聞こえた。彼女の体温は温かかった。帆波と同じで温かかった。彼女もまた、俺を温かいと言ってくれた。

 カーバイドランプの灯かりがふっと消える。アセチレンが燃え尽きたらしい。湘南とは違う、街灯のない夜闇に閉ざされるも、やがて月と星の光が強調されていく。彼女の顔はよく見えない。でも、肌に触れる温もりだけは感じる。


 帆波と似ている、いびつな存在。


 彼女に触れた手をほどけない俺を見たら、未練がましいと言うだろう。でも、たとえ、そうでも、里海でも帆波でもない誰かを愛することに、未だに後ろめたさしか感じることが出来ない俺は……、この都合のいい存在に、どう抵抗すればいい?


「あなたに私が見えるのは、あなたが私を求めているから」


 甘えた俺に、彼女は悲しい言葉を吐いた。


「じゃあ、君は幻なのか」

「さあ。でも、あなたが帆波に会いたくても会えないように、私も帆波になりたくてもなれない。私は、そういう存在――夜空を見て」


 彼女は悲しげな声で、空を指さした。青い月明かりが、影になった彼女のしなやかな腕を照らす。瞬く星空の目下に静かな夜の海。帆波と星を見に行った時も、ちょうどこんな風景だった。


「私の中には、星の数ほどの記憶があるの。でもそれは、宇宙にある星と同じ。ひとりぼっちの点に過ぎない。誰のものかもわからなくて、惑う記憶。その寂しい声を聞くのは、とっても悲しいの。だから私には、それをつなげて、星座をつくってくれる人が必要。そうしたら、――私は、帆波になれるかもしれない」


 一瞬、彼女は怪しい笑みを浮かべた。でもきっと、気のせいだ。


 彼女が指さす先に視線を移す。カシオペア座があった。

 たとえ、自覚はなくても、彼女は俺の中にある帆波の軌跡をしっかりとなぞっている。――彼女は帆波だ。彼女なら、きっと……。


 彼女を、はなしたくない。


 引いていく潮。それと呼吸を合わせるかのように、彼女は俺の背中に回していた手を解いた。去った温もりを求めて、俺の腕が彼女に伸びていく。冗談じゃない、こんな甘えた願い、我慢ができるものか。


 俺は手を伸ばさずにはいられなかった。遠ざかっていく彼女だけが、視界を支配していた。疎かになる足元。海を見ながら酒を飲んでいた。まだ醒めきっていない酔いと、夜の闇が忘れさせていた水面。それを思い出したのは、自分が宙に投げ出されたときだった。

 ああ、こうして、俺は帆波の所に――


「凪兄っ!」


 ふと、背後から自分を呼ぶ声がした。


 だがすぐに、水音と身体を覆う冷たい感触で全てが吹き飛ぶ。息ができない。水面を辿って昇っていく泡が目に入り、俺は悟った。


 彼女もまた、幻だったのか。


 ふて腐れた自嘲を浮かべ、潮の沁みる瞳を閉じる。

 視界が閉じる、その一瞬手前、金色の長い髪が揺らめいているのが見えた。薄れ行く意識の中、身体が誰かに引かれて浮き上がる。


「凪兄っ! しっかり! いっちゃだめっ!」


 水面に出て、空気を捉えた。それを心の奥で拒むように、俺の唇は歪な方向へと引っ張られた。

 髪を似合わない金色に染めた女は、俺の口元を憎らしいと睨みつけた。俺を凪兄と呼び慕うのは、あいつしかいない。


「……玲奈(れな)か」

「凪兄のバカっ、何してんのっ!」


 潮見玲奈(しおみ れな)。俺が高校を卒業して島を出る前、よく相手をしていた。四つ下の妹みたいな存在だった。島を出てからは会っていない。知らぬうちに背も伸びて、髪色も変わっていた。声とわずかに残る面影で分かったけれども、別人のようだった。


「変わったな、玲奈は」

「……、もう老けたわよ」


 海水で濡れて、ぎしぎしと指通りの悪くなってしまった髪を撫でながら玲奈が言う。ひどく不機嫌そうだった。薄手の白いワンピースが濡れて透けて、下着の肩ひもが浮き出ている。正直、目のやり場に困る。


「その……、助けてくれてありがとうな」


 決まり悪いが、飛び込んでまで俺を助けてくれたことには、礼を言わなくては。

 助けられた一瞬、不覚にも、唇をゆがめてしま他。見捨ててくれなかったことさえ、残念がるとは、……俺は、玲奈になんて卑怯なことを。


「帰って来てたのなら、連絡ぐらいしなさいよ」


 玲奈が肩を震わせて、消え入りそうな声で言う。


「でも俺、お前の番号知らないし」

「手紙くらい、送ってよ! 勝手に思い詰めて、目の前でいなくなろうとするなんて……、ふざけんなっ! 凪兄がそんなになってるのに、あたしが何も知らないなんて、すっごい惨めな気持ちになんじゃん」


 今度は声を荒げる。幻に誘われたとはいえ、自分がやったことは、はたから見れば、亡き娘の後を追おうとしたに同じ。

 膝を抱えて玲奈はすすり泣く。――悪いことをしたな。


 玲奈は昔から、よく泣く少女だった。よく泣いて、危なっかしくて。祭りの金魚すくいで、ポイの和紙が破れたくらいで泣いていた。その後、俺が救った金魚をやったら、すぐに泣き止んだっけ。その金魚が死んだときは、もっと泣いていたな。

 泣いている玲奈の姿は、俺が島にいたころと変わらない。変わったことがあるとすれば、俺が泣かせたということか。


「すまん……、不甲斐ない姿を見せて」

「ほんとだよ」


 よっぽど怒っているのか、吐き捨てるような言う。毒づいた後、玲奈はくしゃみをして、身震いをしながら身をすくめた。その仕草を目にして、忘れていた寒さを思い出す。


 これ以上、玲奈に迷惑をかけたくない。帰ろう。

 そう思い、立ち上がった瞬間に、天と地がひっくり返った。そのままぐるぐると景色が回って、地面に押さえつけられてしまう。ばつが悪いことに、遅れて酔いが回ってきた。

 玲奈に肩を抱えられる格好になって、ようやく立ち上がることが出来た。


「今日はひとりで帰るのは無理ね」

「すまん……」


「こっからだと、あたし――家近いよ」


 玲奈の発言に思わず面食らってしまう。ここまで迷惑かけておいて、部屋に厄介にまでなれるか。そう言うと、玲奈は目を細めてしかめっ面。


「じゃあ、ここから凪兄の家まで運ばせるの?」


 自力で歩けないほど酔っぱらってしまった俺には、玲奈に厄介になる以外に選択肢はなかった。重ね重ねすまない。へこへこと謝ることしかできない俺に、「へいへい」と冷たい返事をする。

 誰もいないふたりきりの夜の港。コンクリートでできた桟橋の上を踏みしめる足音。それは間違いなくふたつだったはずだった。


「すまない……、すまない……」


 相も変わらず謝ってばかりの俺に、玲奈はもはや呆れ調子。これ以上謝ってもどうにもならないけれど、申し訳なくて仕方ない。


 久しぶりに会ったというのに、目の前で海に飛び込むわ。酔いつぶれてぶっ倒れるわ。玲奈は、俺にかける言葉を全て投げ捨てたように、つんと黙る。

 静寂の中で、やがて、耳が冴え始める。


 ひた。――ひた、ひた……。


 俺の耳は、背後を追う湿った足音を捉えていた。


 それは、ゆっくりと歩幅を詰めて近づいて来る。背後に確かな気配をまとって、迫って来る。もわもわとした、潮の臭いが、俺の鼻孔を這うように刺激する。


「もう、こんな頼りない凪兄は、初めてよっ」


「なあ、聞こえないか……」


「なによ」


「湿った足音」

「はあ、気味悪いこと言わないでよ」


 虚妄に囚われた俺をなじる彼女は、きつく言い返す。

 だがそこで、月に雲がかかって、夜の闇が一気に濃くなった。玲奈にいよいよ、俺の肩の震えが移った。

 生唾をごくりと飲み込む彼女。だけど、だけど――


 俺にはそんなものを通り越して、見えてしまっていた。そう、俺は後ろを振り返ってしまった。


 そこには、ちょうど帆波と同じくらいの背丈の、黒い影が、闇に塗れてぼんやりと佇んでいた。

 違う、船の上で見たものとも、夜の港で会った漣という少女とも違う。


「……未来が、過去を忘れるためならば、そんなもの」


 おどろおどろしいぐらいにねっとりと低い声が、耳にへばりつく。

 死人のように、冷たい空気と腐臭をまとい、影は、がくがく震える紫色の腕を伸ばす。そして、玲奈を指さし、真っ赤に充血したひん剥いた目で、睨みつけた。


「あたしだけを見て欲しい。お父さんに、未来なんていらない。だから……だから、あたしは、お前がうっとおしくて、たまらない」

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