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また失うための物語

 眼前に広がる海は、透き通ったターコイズブルーの鮮やかな水をたたえている。そこに、色とりどりの魚たちが泳いでいる。瑠璃色に輝く宝石のような魚はルリスズメ。浅い岩礁ですぐに見つかる。岩やサンゴに開いた穴からは、ギンポが顔を出す。おちょぼ口のハコフグ。たまにいるウミヘビには気を付けろ。

 都会の誰もが羨むような、心の洗われる南の海。騒々しく、薄汚れた湘南の海とは、どこもかしこも違う。

 だけど、海は海だ。だから懐かしさで心が安らぐとともに、胸が痛む。


 沖に浮かぶ漁船、緑の塗料で塗られた甲板の上に立ち、波揺れにふらつきながら漁網を手繰り寄せる。網を掴む手が、隣に並ぶ親父のものとは違って、細く頼りない。当たり前だ。キーボードを叩くのに腕力は要らない。

 俺はほんの二週間前までは、漁師なんかじゃなかった。親父でなければ、ひ弱な俺を漁船に乗せたりしないだろう。 

 網を上げて、魚を水揚げし、また網を入れる。


「年々、かかる魚が少なくなっとる」


 網にかかった魚の量を見るなり、親父がそう漏らす。小さいころ、親父の漁船によく乗っていたが、そのときと比べると確かに少ない。宝石のようなこの海も、少しずつ汚れていっているということなのか。たまに親父は、オニヒトデ駆除会に顔を出す。網を投げ入れる沖ではなく、岸の近い沿岸部が活動拠点になるが、‘海を食う者’として少しは環境保全に力を入れたいと。

 思えば俺は、漁師の息子でありながら、海を食うとか、海を守るとか、深く考えたことがなかった。ただ漠然と、島を出て漁師じゃない別のことをしようと思っていただけだった。島を出るといった学生服の自分の肩に手を置いて、「若えもんは海の向こうば、行くのが理ばい」と言ってくれたのが今でも耳に残っている。でも結局、湘南で住んでいたのは、俺と海は切っても切れない関係ということだったのだろう。


 網を入れた後は、しばらくは船を走らせて網を引く作業になる。煙草をふかしながら舵を取る親父。時折無線の向こうから、ざあざあというノイズの混じって音割れした男の声がする。漁師仲間と世間話をしているらしい。

 水筒に入れた苦めの茶を飲み、穏やかな水面を眺める。網を引いている間の時間は嫌いだ。さっきまで夢中で引き上げていたせいで、気付かなかった腕の筋肉の悲鳴。それとともに心の悲鳴が蘇って来る。


 どうして三十二歳の、いい歳こいた自分がこの島に今さら帰って来たのかとか。どうして湘南での仕事を辞めてしまったのかとか。湘南にいたときは、何のために働いていたのかとか。いろいろと思い出してしまう。


 透き通った瞳。さらりと揺れる長い髪。歌を歌うのが好きだった。少し外れてるけれど、清らかな声。


 いつか言ったっけ、理海(りみ)は――


『大丈夫よ、あなた。私がいなくなっても。このこが私の代わりになってくれるから』


 お前の代わりがいるわけなんてないだろ。そう言っても、理海がいなくなることに変わりはなかった。おそらく、あのとき理海が産む決断をしなかったとしても、ちょっと先延ばしになったかその程度。それを本人も分かって、だからこそ、産みたかったんだろう。分からずやなあの頃の俺は、ただ理海がいなくなることが辛かった。


 でも、こんなの、あんまりじゃないか。


「忘れたい」


 ぼそりと呟いた。エンジン音にかき消される。潮とガソリン臭の混じった臭い。鼻につんと刺さって、頭が痛くなってしまいそうだ。それでも胸の痛みが勝る。もう島に戻って、親父の漁を手伝うようになって、二週間が経った。


 忘れたい。忘れてしまいたい。過去のこととか、これからのことだとか。そういう次元じゃなくて、全てをほっぽりだして楽になってしまいたい。それが本心なのか。そんなことさえ、考えずにいたい。


 九州の離島の亜熱帯の気候でも、春の象徴である蜃気楼が見えたのか。陽の光を反射して輝く水面の上に、少女が佇んでいるのが見えた。――懐かしい姿だった。


 海が好きだった彼女は、色の抜けた茶髪をしていた。頭頂部でくくったフリル付きのヘアゴムから垂れ下がるポニーテール。彼女は、遠くに見えた蜃気楼。なのに、くっきりとした姿が目に焼き付いた。あの調子はずれた歌声も鼓膜を震わせた。

 そして、消えてしまった。

 耳に残る歌声もフェードアウトしていく。船のエンジン音が主張を強めて、俺を、現実の世界に巻き戻したかと思えば、エンジンは止まった。船はゆっくりと速度を落とし、やがて慣性に任せて海の上で揺れるのみとなった。


「凪久ぁ、そろそろ網ば引くばい」


 親父が短くなった煙草を加えながら、俺に呼びかけた。ウインチに巻き取られて網が海底から上がっていく。(けた)と呼ばれる網を海底で口を広げた状態で形を保つのに使われる柱を、網から取り外し、引き上げる。この作業からは、専ら人力で行うため、俺の腕が悲鳴を上げるのだ。

 それでも網にかかった魚が溜まる、袋の部分を引き上げる際には、期待が高まってしまう。特に腕の悲鳴が大きければ大きいほど。荒い息をしながら、赤茶けた網の中で踊る魚たちを甲板の上にぶちまける。見かけは大漁だが、仕分けの行程で売り物になる魚と、売り物にならない魚に分けると、がっくりと来ることもある。


「仕分けば終われば、昼飯にすっけん」


 漁というものは魚を選べない。釣りやトローリングでも、狙いはあるだろうが、釣らないことには、何が釣れるか分らないように。仕分けの行程を挟まなければ、その漁がどれほどの成績だったのか、分ったものじゃない。


「気ぃつけんよ。あらかぶや、やーのいおは、背びれに毒ば持っとるけえ」


 あらかぶは、カサゴ。やーのいおはアイゴ。

 カサゴは美味だが、アイゴの方は身は磯臭いと忌み嫌われる。だが、漁師の息子である俺は、アイゴが美味であることを知っている。漁で取れる未利用魚の中には、足が速すぎて市場に出回らないというものも多い。そう言った類の中には、漁師だけが知る珍味というものも少なくない。アイゴは(はらわた)を新鮮なうちに除いてやれば、美味しく食べられる。

 仕分けの結果、赤い籠に分けられた未利用魚と、青い籠に分けられた利用魚。未利用魚は、近所に配ったり、良心市の品物にしたり。臭みが強くてどうしようもないような雑魚は、猫の餌にでもする。午前の分はどうにか、利用魚の方が多かったが、まだ漁は夕暮れまで続く。それまでは今日の漁の出来栄えは分らない。


「昼飯は、やーのいおば裁くっけん」


 冬の終わりから夏まで、アイゴの旬は長く続く。昼食は未利用魚を裁いてその場で食べることが殆どで、テンスやアカエイなんかも食べたことがある。

 親父は慣れた手つきで、アイゴの毒を持つ背びれを除き、鱗や皮を剥がし、腸を取り除く。海水で洗った後、豪快に大名おろしにする。淡白で綺麗な白身と、皮の下の赤みとのコントラストが美しい。


「やーのいおは、取れたてが一番うまかっけん。市に出すんは、もったいにーよ」


 親父は俺には普通に接してくれる。なるべく、どうしてこの島に戻ってきたのかとか、これから島を出てまた神奈川に行くのかとか。そう言う話題には触れないようにしている。だから、それに触れるのはいつも俺からだ。


「さっき……、帆波が見えた」


 いつも自分で触れておいて、その傷の深さに自分自身で驚いている。もうあれから、帆波を失ってから二年が経とうとしている。忘れたい。忘れてしまいたいのもあるけれど、それで自分の中で帆波が消えてしまうことが怖い。


「なんべんも言うとっと。凪久は悪かなかっ」


 それをいくら聞いても足りない。

 あの日に失った帆波の痛みを、俺は忘れないように自らの胸にナイフを突き立てて。それで、自分わるくないと、誰かが言ってくれるのを待っている。

 自分を責めることが罰で。でも帆波は帰らなくて。

 誰かに許されても、俺はまだ、自分を許せずにいる。――だから、あんな幻が見えたのか。


 蜃気楼は所詮、在るはずもないものを見せたりはできない。もともとあるものをひっくり返したり、あるいは鏡映しにしたものが、ゆらゆらと揺れて見える程度だ。帆波はもういない。この世界のどこにも。

 だからあれは、蜃気楼なんかじゃない。俺が見たいだけの、都合のいい存在。ただの幻だったんだ。


 それから、親父との会話は途絶えた。

 陽が西に傾いて、地平線に吸い込まれる手前。茜色に染まる港に帰る。いつもながら桟橋に渡った瞬間に、揺れない地面の感触が懐かしくてよろけてしまう。


「しっかり、立ちぃね。凪久っ」


 桟橋に立つ母が、肩をぽんと叩く。それがさらに、よろけを助長させた。母の息から、酒の匂いがする。一足先に帰って来た親父の漁師仲間が、家に上がり込んで飲んでいるらしい。都会では少し考えられない、寄合酒だ。


「酒ばよーけあるとって、しゃっぱに、がねもよーけ茹でたっけん」


 寄合仲間に沿岸部で地引網をしている漁師がいて、貝やら甲殻類がたんとあるらしい。しゃっぱは、シャコで、がねはカニを指す。

 自分を置いて流れる時の無常さには、もう慣れた。今はもう、帆波はどこにもいない。俺は帆波を守れなかった。それでも世界は、回り続ける。そんな痛みは苦い蜜のようで。喉の奥にへばりついて、流れてくれない。そして慣れていく。自分が感じることも、周りが同情してくれることも。周りには結局、周りの生活があることも。


「悪い……。今日はいいわ」


 俺は寄合酒は遠慮した。


「帆波のこと、思い出した。ちょっとだけひとりにさせてくれ」


 だって、苦いものは苦い。――苦いんだ。この苦みは、酒なんかで流せるものじゃないから。


     ***


 日陰のない海の上で過ごすから、日中は半袖で過ごしていた。それでも、流石に陽が落ちてからは肌寒い。酒なんかで流せるものじゃない。そう言っておきながら結局、俺はワンカップを傾けている。安酒特有の酔いの周りの速さで、頭が、少しぐらつく。酔い覚ましに星空を見上げる。星座も星も、特に詳しいわけじゃないが、湘南で見るよりも多くの星が瞬いているということくらいは分かる。


 ……昔、帆波と星を見に行ったっけ。


 慣れない天球図を血眼になって読んでいたのに。カシオペア座を見つけたのは、帆波が先だったな。

 働きながらの子育てで。父親はいつか娘に嫌われるもので。そういう家庭では、娘が小さいときに寂しい思いをしていたことが原因なのが殆ど。そう言われても忙しいから、寂しくないように本や図鑑をいっぱい買ってあげてたんだっけ。俺より星座の名前を知ってたもんな。花の名前も。虫の名前も。


「あ……」


 カシオペア座のWの字が、夜空に浮かんでいるのが見えた。今も帆波がいたら、俺より先に見つけたのかな。自分が父親でありながら、同じ土台の上に立つといつも帆波には敵わない。


 帆波。理海がお前を産んだとき、こう言ったんだ。凪久が心配だから、よろしくねって。こんな赤ん坊に何をとか、そんなことを思った。俺は父親で、帆波は娘。だから父親は娘を守るもので。父親は娘に、いろんなことを与えて、教えてやらなければいけない。腹を痛めることのない、漠然とした責任感は、すべてお前がひっくり返してくれた。帆波、お前がいたから俺は、理海がいなくなった世界を歩いて来れたのに。

 それで物語としては上出来だろ。――、こんなのあんまりじゃないか。


 これ以上何を求めるんだ。‘お前は悪くない’と言って欲しくて、でも何も戻らないし、帰らない。続ける意味のない、鬱屈した惰性の物語。これからも苦い蜜を飲み続ける俺には何が起こるんだ。現実味が持てない。これから、前向きに物語が転がるなんて。

 理海や帆波が、俺の新しい人生を望んでいるとか、全て都合のいいだけの空っぽな話じゃないかっ。いっそのことなら、化けてでも出てきてほしい。この不甲斐ない俺を、呪いにでも来てくれっ。


 心の中で叫んだけれど、空しく消えた。テトラポットに打ち寄せる波しぶきが砕けるようだ。

 まだ反響する心の中の声。酒のせいか、やけに感傷的になってしまった。やけ酒は胃に障る。きりきりと腹部が痛むのに口を歪めると、あの調子はずれた歌声がまた聞こえてきた。


 幻だとか ホントだとか あなたはこだわるけど

 あなたが感じたなら 私はあなたの心に住める


 でも今日、船の上で聞こえたものよりもその声は近い。歪む視界の中で、カーバイドランプの光を揺らしながら、歌声の主を尋ねる。俺は酔いのせいで、それを幻聴だと判断することが出来なくなっていた。


 息づくあなたの海で 泡が消えてしまって

 あなたが私を認めなくても 消えるまでは私は

 海の中を泳いでいられるの


「ほっ、帆波……、帆波なのか……?」


 彼女は、半ば現実味のない姿をしていた。昼間の輝く水面を映したような、鮮やかな瑠璃色の髪。帆波と呼びかけたが、すぐに彼女が帆波じゃないことは分かった。髪色が違う。瞳の色も。似ている個所があるとすれば、あどけない声と、伸ばし過ぎた髪を頭頂部でくくった髪型ぐらい。


「違うよ。私は(サザナミ)


 カーバイドランプの光に照らされて、彼女はにっこりと笑う。彼女は、透き通る夜の海の水面の上に立っていた。大人でも首元まですっぽり浸かってしまうような深さのところで、彼女はまるでアメンボのように裸足で水面を掴んで、立っていた。

 彼女は虚妄だ。そうと知りながら、俺は彼女の声に耳を傾けた。


「でも知っている。帆波は私の一部だから」


 期待してしまった。もし、死んで行った帆波が現れたらとか。


「あなたが望むなら、私、帆波を思い出すよ」


 ――これは全てを失った俺が、また失うための物語。続ける意味のない、鬱屈した惰性の物語。

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