10.
「もう良いかしら?」
ぽそりと呟く。隣国である、シーリス王国へ連れて来られてから1ヶ月。
私は結構頑張った。
お近づきになんてなりたくなかった、タイガー王太子の婚約者の地位を与えられ、一生顔を見る予定もなかったシーリア王国の陛下と妃殿下と言葉を交わし、普通のご令嬢のように部屋でおとなしくしていた一ヶ月。
ほぼ毎日のように夜会があるようで、何度か出席を求められたけれど、所詮言葉だけの約束事。タイガー王太子殿下もあまり私を夜会に出したくないみたい。
その点だけは助かっているわよね。
今、シーリス王国の貴族間には、「王太子が恋い焦がれる相手が見つかった」だの、「あまりの寵愛ぶりに、部屋の外へ出したくないそうだ」だの迷惑な噂が実しやかにささやかれている。
挙句の果てに「私はこの前その寵姫を夜会で拝見したが、〇〇伯爵の△△嬢の方が美しい・・・」やら「なぜ、王太子はあのような冴えない娘を・・・」と不敬罪に当たりかねない話まで出ているらしい。
それなのに、夜会になると一転、「お美しい」などとお世辞を言い始める始末。
まったく、こちらの身にもなって欲しいわ!!
それに、さっさと自国に帰してもらえると思っていたのに先延ばしにされ、そろそろ手紙に書くこともなくなってきて困っているのよね。
両親も姉兄も手紙の裏の裏の裏まで読みたがる人たちだから!!
だから、もう良いかしら?自国へ帰っても。
真剣に検討し始めた私の耳に扉のノックの音が聞こえた。
サーシャが取り次いでくれたのは、先ほどまで考えていたタイガー王太子その人だった。
「まあ、先ぶれもなくどうなさいまして?」
「ああ、先ほど手紙が届いて、お前の姉とユリウスが明日からこちらに来るということだ」
「?というと・・・?」
私は帰れるのかと淡い期待を抱く。
「手紙には、私の両親へ婚約者を見せに来るという話が書いてあるが、本音はお前を連れ戻しにだろうな」
タイガー王太子からその言葉を聞いて、私は内心大喜びだった。やっと家に帰れる!この窮屈な世界から逃げられる!!
表情を崩さないように気を付けながら、心の中では狂喜乱舞で紙吹雪まで舞っている!
私の顔を見ていた王太子がぼそりと「嬉しそうだな」と呟くが、今の私には聞こえない!むしろ、これで喜ばないヤツなどいないと断言しよう!
「そこで!」
急に大声を出したタイガー王太子に、私は視線を向ける。
ニヤリと笑った王太子に、嫌な予感が膨れ上がる。何て悪そうな顔をしているのだろう。それこそ、悪の親玉のようである。
私はさっと耳を塞いだ。聞きたくないのポーズである。しかし、そんな私の気持ちを丸っと無視して、
「今すぐ、出かけるぞ」
と、宣ってくれた。
「何故ですか?明日姉さまとユリウス王太子殿下がいらっしゃるのですよね?」
「ああ、父と母に会いに、な」
「では」
なぜ、と私の言葉は続かなかった。
「父と母さえ居れば良いのだから、私とお前は必要ないだろう?」
だから早く荷物を纏めろ、とかなんとか言っている。何だ?どうして私を帰してくれないのか?もう1ヶ月は経った。結構頑張った。
もう、私が自国へ帰っても王太子殿下にはなんの問題もないのに・・・。
「私を」
「ん?」
「私をいつ帰してくださるのですか?」
ついに聞いてしまったよ!最初の話では、自分に婚約者が居ると周囲にわからせるまでだという話だった。それならもう既に済んでいると思うのだ。
「そのうち帰してやるよ。それにお前、ずっとこの城から出てないだろ?」
「・・・え?」
「今まで仕事に追われててあまり構ってやれなかったが、今日から休みをもぎ取ってきたからな。しばらく、観光でもして帰ってくれよ」
じゃないと、折角来たのにもったいないだろ?
ウインク付きでそんなきざったらしいこと言うなんて・・・。
しかし、今の私にはどうでも良かった。
ずっと窮屈だった。この城に閉じ込められて、淑女のように振舞って。外には綺麗で広大な景色が広がっているのに指をくわえて見ているだけで・・・。
それが、この国の人の中でも上位の情報量を持つ王太子自ら案内してくれるとは!
「ええ、ではすぐに!」
王太子は切れ長の瞳をちょっと見開いてびっくりしているようだった。
私がそう返事をするとは思わなかったのだろうか?
「サーシャ!サーシャっ!!」
扉の傍で話を聞いていたサーシャに声を掛ける。
彼女は了承の意を込めて礼をしたが、先ほどまで王太子を胡散臭そうな目で見ていたのには気付いている。まあ、王太子はこちらを見ているし、気付かれては居ないだろうけれど、ダメだと今度言っておこう。
「じゃあ、準備が出来たら呼んでくれ」
そう言って、颯爽と王太子は去って行った。
きちんと扉を閉めた後、私とサーシャは準備をしながら話をした。
「どう思う?」
「そうですね。怪しいです」
「私もそう思うわ。観光したら帰してくれるのかしら?」
「濁されましたからね」
「ここに残れば姉さまたちと帰れるけれど・・・」
「でも、お嬢様は行きたいのですよね?あのオトコと」
「まあ、サーシャ!不敬罪で怒られるわよ?」
オトコを強調して言ったサーシャに注意する。
「それに、私、今まで領地と王都しか行ったことないから、実は楽しみなの!」
「ええ、お嬢様ならそう仰ると思いました。では、早く準備致しますね」
「私も手伝うわ!」
「いいえ。いつお嬢様が帰ると仰られても良いように、準備は出来ておりましたから。すぐ終わりますわ」
相変わらずサーシャは有能たと思う。私がそろそろ帰りたくなっているのもお見通しとは!
私は大人しく、準備の間にサーシャが淹れてくれたお茶を飲みながら窓の外へ思いを馳せる。