閑話(ユリウスの寝耳に水事件)
「わたくし、しばらく実家に帰らせていただきます!!」
いつも美しい笑顔を絶やさなかった私の婚約者が、その目に涙を湛えて、聞きとれるかどうかという小さな、それでも震えていることを隠せない声を出し、そう宣言してきた。
「婚約者も別の方を選んでくださいませ!」
そう言って、踵を返して部屋から出て行った。淑女としてはあるまじき、退出の礼をすることも扉を閉じることもなく…。
私は呆然とそれを見送ることしかできなかった。
今日、彼女と視察を終えて王都へ帰ってきた。先ほどまではいつものように笑顔を絶やさず、和やかに会話を楽しんでいたはずだ。
彼女がドレスを着替えに部屋に戻ったところで、私は視察の間に溜まった書類を確認しに執務室にやって来たところだった。
ドレスを着替えもせず、戻って来た彼女の第一声が冒頭の台詞である。
何がどうなっているのか全く分からなかった私は、馬の嘶きを聞いて、やっと彼女を追いかけるということを思い出した。
先ほど戻って来たばかりなので、視察に使った馬車はまだ馬を外してはいないだろう。すぐにでも彼女は出発してしまう。
心を焦りが占めて、走っているのに足が前に進んでいないような気になる。
何とか馬車に乗り込もうとしている彼女を発見し、乗り込む前に彼女の細く括れた腰に手を回し、抱え上げる。
重いドレスを着て、ここまで走るとは、意外と彼女は体力があるんだなあ、と感心してしまったのは内緒だ。
「は、離してくださいませ!!誰か!」
助けを求めても、誰も手出しが出来ない。そう、私はこの国の王太子だからな!!
「アンネマリア、どうしたんだ?落ち着いて私と話をしよう」
バタバタと足を動かしているが、ドレスを抑え込めば大した被害もない。肩に乗せた彼女の腰を片手で押さえ、反対の手でドレスと動く足を抑え込む。
背中を叩く腕はどうしようもないが、所詮女性の力だ。大した威力はない!と、高を括ったのが間違いだった。
痛い!それも、可愛らしくポコポコ叩くのではない。拳を握りしめてグリグリと抉るように叩いてくる!
しかし、落とすわけにはいかない。いくら私の肩といっても、地面までは結構あるので、どこか怪我をするかもしれない。
それに、愛しい彼女を手放したくはない!
私は泣きわめく(そんな彼女を初めて見て、更に心臓を鷲掴まれた)彼女を抱え、一番近い小部屋に連れて行くことにした。
部屋の前には、王宮騎士を置き、私が言うまで扉を開けないよう厳命した。
この部屋は窓もなく、入り口もこの扉一つだけだ。逃げようと思っても、外には王宮騎士。万全だ!
泣く彼女を抱え、一つしかないソファに座る。もちろん、私の膝の上に横抱きにして、逃げられないように抱え込む。
「ねえ、私の愛しい人。どうして泣いているのか教えてくれないか?
それに、先ほどの言葉・・・。私たちは先ほどまでお互いを思いやっていたじゃないか?」
「・・・」
「ねえ、黙っていないで、貴方の可愛らしい声を聴かせて。」
「・・・」
「教えてくれないなら、泣き止むまで私が好き勝手してしまうよ?」
チュッ、チュッと、リップ音を立てて、彼女の目に浮かんだ涙を吸い取っていく。必死に下を向いている彼女の顔を上に向けて、万遍なく唇を落とす。
「・・・ぃ」
「何?」
「・・・く・・・ぃ」
「聞こえない・・・ちゅ」
「っ!!やめてくださいって言ってるでしょうっ!!」
バチッと音がしそうなくらい勢いよく瞳を開いた彼女は、そう言った。
いつものふわりとした雰囲気の彼女も良いけれど、怒った彼女も可愛らしい。
思わず、目じりの涙に唇を寄せたら、手のひらで防御された。くっ
「わたくし、怒っておりますの。」
「うん、どうして?」
「どうして?ですって!!ユリウス、貴方わたくしの妹にしたことをお忘れなの!?」
「妹って、エリーズのことだよね?何かしたかな?」
「わたくしと視察に行く前に、タイガー王太子と共謀して、わたくしの可愛いエリーズを隣国に送ったと言うじゃありませんか!!」
「エリーズを隣国に・・・?」
「わたくし、何も知らずのうのうと視察をしておりましたわ!先ほど部屋に父からの手紙が届いておりまして、確認したらもう1ヶ月も向こうにいるというじゃありませんか!!」
「1ヶ月!?ちょ、ちょっと待ってアンネマリア!」
「何か?」
「確かに、私はタイガーに、エリーズを隣国に居る両親に見せたいと言われて了承した」
「ほら、ご覧なさい!よくもわたくしに黙って・・・」
「いや、だからちょっと待って!!」
ユリウスの話では、確かにタイガーに頼まれて、エリーズを隣国の両親に会わせる約束はしたとのこと。しかし、エリーズは体が弱いため、隣国の国王、王妃をこちらに呼び、この王宮で会わせるつもりだったこと。
タイガーを隣国に返すために馬車を用意したこと。
ただし、エリーズを隣国へ連れて行くことは了承していない。
勝手にそんなことをすればアルドロワ伯爵家が敵に回る可能性もあり、視察から戻ったらそれとなく伯爵に伝えるつもりだったこと。
ということだった。確かに、エリーズは体が弱いと噂になっているし、ユリウスもあまりエリーズと関わらせないように伯爵家では徹底されている。
ということは、今回はタイガー王太子の独断ということだろうか?
自国へ帰るための馬車をそのまま伯爵領へ向かわせ、エリーズを連れて隣国へ。
手紙では、父も馬車に王家の紋さえ無ければ…と書いてきている。
エリーズの手紙も「元気です、心配しないで」としか書いてなく、一緒に付けた供の近況報告で何とか状況がわかっているとのこと。
一応、命に別状はないようだけれど、それでも隣国。すぐに助けに行ける距離ではない。
だったら!!
「ユリウス、今すぐわたくしを隣国へ行かせて頂戴!」
「ええっ!?今視察から帰ってきたばかりなのに…。」
「ユリウスが大変なのはわかっているわ。だから、わたくしと、リドア、ラルフで行ってくるわ!」
「それはダメだ!」
興奮して捲し立てるアンネマリアを抑えて、そう言う。
「ねえ、愛しい人。私が君を一人でどこかへ行かせると思っているの?」
にっこりと笑って言えば、アンネマリアがびくっと固まる。
「いくら弟といえども、私のそばから貴女を奪う男を私は許しませんよ」
泣いたせいで少し赤くなっている彼女の目じりにダメ押しのキスを。
「では明日、一緒に隣国へ向かいましょう。疲れたでしょうから、今日はゆっくり休んでください」
そう言って、固まっている彼女を抱えたまま、扉を開けて彼女の部屋へ。メイドに彼女の世話を頼み執務室へ戻る。
書類を確認しながら、明日から数日の予定を変更し、その旨を陛下に伝える。
どうやら陛下も私が了承したものだと思っておられたらしい。私が知らないと言えば、あのバカ息子が!とタイガーを憎々しげに罵った。
気持ちはわかる。この国を分裂させるかもしれなかったあいつに今回のことで温情はない。
それに、可愛らしい私の婚約者を泣かせた罪は重い!まあ、普段見られなかった可愛い彼女を見れたことを差し引いても、しばらくこの国に立ち入り禁止は免れないだろう。
こうして、私の視察の旅は最後の最後でケチがついたのだった。
ユリウスが黒い子だった事実。