金髪青年と純朴少女
「兄さんのかみ、キラキラしててきれいだなやぁ」
出し抜けに声を掛けられて、僕は思わず振り返った。
けれど背後に視線を向けても誰もいない。おや、と思っていると、そこで漸く足元に人の気配があることに気付いた。
そのまま見下ろせば、まだ十にも満たない少女がきらきらと目を輝かせうっとりとした様子で僕を見上げていた。
何処かの商家の娘といった所だろう。上質な染物を纏う姿は少女の家が裕福であることを明示していた。しかし言葉の訛り具合から、田舎育ちの成金といった所かと憶測する。
「なあなあ兄さん、それ本物け? おらが住んでたとこじゃ見たことねえだ」
僕の洋袴の裾を掴み、背伸びをしてもっと見たいと言うように見上げてくる。
それもそうだろう。象牙色の肌に黒檀の髪の映えるこの国にあって、自分のような容貌は非常に稀だ。異質とさえ言ってもいいだろう。何処を向いたって、こんな金褐色の髪色をしている人間など、此処には自分ぐらいしかいないのだから。
普通の人間ならば忌避し近付こうともしないこの異物を、けれどこの少女は臆することなく、まるで宝石でも見つけたかの様に真っ直ぐ見つめて来るものだから、僕が驚いたのも無理のない話だろう。この純真さには賞賛すら覚える。
尚もこの髪に触れたそうに見上げてくる少女の真剣さがあまりにも微笑ましくて、僕は思わずくすりと笑った。そして少女がきちんと間近で見れるようにしゃがみ、目線を合わせてあげる。
すると少女は興奮が抑えきれないというようにふっくらとした頬を紅潮させながら、触ってもいいけ? と聞くので、僕はいいよと答え、被っていた帽子を取ると少女のさせるがままにした。
少女は壊れ物に触れるようにそっと手を伸ばし、僕の髪に触れてくる。少しくすぐったかったけれど、真剣な眼差しで確かめるように自分の髪に触れる少女が可愛らしくて、またその懸命さが面白くて、吹き出さないように我慢する方が大変だった。
「お嬢ちゃん、何処の子だい? お父さんやお母さんと一緒じゃないのかな?」
楽しそうに髪を弄る少女に、僕はそう問い掛ける。
こんな町の目抜き通りに少女がたった一人でいる訳はない。必ず親御かお目付役が付いている筈だ。
しかし周囲を見回した所それらしき人間は見当たらない。まさかとは思うが、迷子なのだろうか。それならば交番の警吏の元へ連れて行ってやらねばなるまい。
だが当の少女は物珍しい金の髪に夢中で、此方の話などまるで聞いていない。
どうしたものかと思案した、まさにその時だ。
「おい、そんな所で何をしている?」
怪訝そうな面持ちで話し掛けてきたのは同窓の志田だ。
確かに、訓練中の同窓がこんな町の往来でしゃがみ込んでいれば訝しくも思うだろう。僕は志田を控えめに見上げながら目の前の少女を指差した。
「見た通り、幼女に弄ばれてる」
「教練中に遊ぶんじゃない、莫迦者。……じゃなくて、何だその子は? 知り合いか?」
「いいや。いきなり軟派された」
「……迷子なんだな。おいお嬢ちゃん、お前親御は? 大人と一緒じゃないのか?」
志田もまたしゃがみ込み、少女の肩を引いて無理矢理意識を其方に向けさせる。
そこで少女は漸く現実を思い出したらしく、ポンと手を叩いて答えた。
「そだ。カサイとはぐれちまって探してたんだった。兄さんら、カサイ知らんけ?」
やはり迷子らしい。少女自身もその事実に気付いてそのカサイとやらを探していたようだが、しかし金の髪という珍しいものにすっかり興味を持って行かれ、今に至るという訳だ。
「やっぱり交番に連れてってあげた方が良さそうだね」
呆れたような顔をしていたが、志田もその方がいいだろうと頷いた。
志田には教官殿に遅れる旨を伝えておいてくれと頼み、僕は帽子を被り直すと少女の手を引いて近くの交番を目指し歩き出した。
少女の歩幅に合わせている為、歩く速度は牛より遅い。ゆっくりとした足取りの中、僕らはずっとお喋りしていた。
少女の名はムライトウコと言うそうで、元々は北の方で母親と暮らしていたが、つい最近父親に呼び寄せられて此方に出て来たのだという。
父親が郷里に帰る度土産として東京の話は聞いていたらしいが、やはり実際に目にした都会の風景は想像以上に少女の関心を駆り立てたのだろう。あれもこれもと目に着いたもの全てに足を向けていたら、気付いた時にはお供のカサイが居なくなってしまっていたのだそうだ。そこで今度はカサイを探していたら、自分を見つけたというのがここまでの経緯らしい。
「カサイはおっとさが付けてくれだおっさまでな。でもすぐおらから目を離しちまうだで、困っちまうだ」
「それはトウコさんがきちんとカサイさんの目の届く所に居ないで好き勝手にあっちこっち行ってしまうからでしょう? カサイさんきっと心配してますよ」
それよりも驚くべきは彼女の行動力と好奇心である。
こんな誰も知っている者の無い、土地勘も全く働かない場所でたった一人になって、心細くはならなかったのだろうか。
そう思った瞬間、不意に弟の幼い頃を思い出して笑ってしまった。今でこそ自信の塊のような彼だが、幼少の時分は人見知りも激しく、またやはり容姿のこともあってなかなか表へと出ようとはせず、何処へ行っても常に自分の後ろに隠れていたものだ。
「兄さん? 何かおかしいことでもあったんけ?」
「ん? ううん。弟の小さい頃を思い出していただけだよ」
「兄さんには弟がおるんけ? ええなあ。おら一人っ子だからうらやましい。なあな、その子も兄さんといっしょなんけ?」
一緒、とは何を指すのか咄嗟に解らなかったが、すぐにそれがこの金色の髪のことだと悟った。
「うーん、そうだなあ。弟の方はもう少し茶色に近いかな」
「透子お嬢様! やっと見つけました!」
もう目的の交番も目前という所で、焦ったような男の声が此方に投げ掛けられて来た。
「あ! カサイ!」
気弱そうな雰囲気のその男の姿を認めると、少女はぱっと僕の手を離し男に駆け寄っていった。
どうやらあの男性が彼女のお目付け役であるカサイさんらしい。初老というにはまだ早い年齢だろうに、白髪交じりの頭髪が彼の苦労の多さを物語っているようで、不謹慎ながら僕は苦笑を禁じ得なかった。
「もう、どこさ行ってただ! 探したんだど!」
少女は両手を腰に当ててぷんぷんと怒ってみせるが、それを言いたいのはむしろカサイさんの方だろう。だが彼も最早いつものことなのか、それとも単に気が弱くて言い返せないだけなのか、すみませんと所在無げに返すだけだ。
すると少女ははっと思い出したようにカサイさんの手を引っ張るようにして取り、僕を指して言った。
「な、な、カサイ! あの兄さんがここまで連れてきてくれただ!」
「此方の方が、ですか?」
やっと僕の存在に気付いたようで、カサイさんは僕の姿をまじまじと見ると少しだけ怪訝そうな顔をした。
それが普通の反応だ。僕は被っていた帽子を取って一礼すると、それを深く被り直した。
「な、な! きれいな髪だべ? きらきらしてて、まるでおてんとさんみてえだべな」
手を取る少女があまりにも楽しそうににこにこと笑うので、隣に立つカサイさんもそうですね、と答えるしかないようだ。
流石に近寄って来ようとまではしなかったが、そこは腐っても良識ある大人らしく、カサイさんはその場で僕に対し礼を述べた。
「この度は透子お嬢様を助けて頂き、有り難うございました。主人の村井に代わって御礼申し上げます」
「いえ、困っている方がいらしたら助けるのは日本男児の務めですから」
半分は異人の血が流れているというのに、そう名乗るのもおこがましいと言えばおこがましいのかもしれない。
そんな自分を内心嘲笑していると、カサイさんは申し訳なさそうな顔で言った。
「本来ならばすぐにでも何か御礼をすべきなのですが、生憎旦那様が透子様のお帰りを今か今かとお待ちでして。ですので、もし宜しければ後日御宅にご挨拶に伺いたいのですが、如何でしょうか。旦那様もこの事を聞けばきっとそうなさりたいと仰るでしょうし」
単に体裁を気にしているのか、それとも几帳面な性格なのか。恐らくは後者なのだろう。何となく、この男性の優しそうな面差しからそう思った。
配慮は嬉しかったが、僕はそれを丁重にお断りした。
「どうぞお構いなく。当然のことをしたまでですから。では、僕は訓練がありますので、これで」
普通なら、好奇心で遠目には見たいと思っても近付きたいとは誰もが思うまい。
どれだけ異国の文化を取り入れようと、この国にはまだ、異国の人間に対して近寄り難いという風潮が根強いのだ。
まして彼らは今日ほんのひと時巡り会っただけの縁。下らない体裁の為に不快な思いをさせることの方が僕は嫌だった。
けれど、そんな僕の思いなど何も知らず、ずんずんと走り寄って来る少女がいた。
村井透子嬢だ。
「兄さん、兄さん! おらも今度兄さんちに遊びに行きてえだ! だめけ?」
洋袴の裾を引っ張って見上げながら、透子さんは必死の顔でそう懇願してきた。
僕はしゃがんで目線を合わせてやると、彼女の頭を優しく撫でながら言い聞かせるように言った。
「うーん、駄目じゃないけど」
「じゃあいいんだな!」
「え? あ、いや、でもあんまりお勧めは出来ないかなあ」
「なして?」
「うーん」
それには流石に僕も困った顔をせざるを得なかった。
大人の事情、という奴を、この少女にどう理解させたものか。
すると意外にも、カサイさんが少女の後押しをしてきた。
彼は僕らのすぐ側まで歩み寄って来ていた。
「無理に、とは申しませんが、透子様のご意向、汲んでは頂けませんでしょうか? わたくしとしても、お嬢様を助けて頂いた恩人に何もお返し出来ずにいては旦那様の顔が立ちません。……如何でしょうか」
「僕みたいな明らかに異人の血を引く人間相手でも、ですか?」
カサイさんを見上げながら、僕は思わず意地の悪い質問をしてしまった。
カサイさんは一瞬言葉を詰まらせたが、意を決したようににこりと微笑んだ。
少しぎこちないけれど、温かさの滲む笑みだった。
「御恩を受けた方に異人も何もありません。貴方はわたくし共にとってただの“恩人”なのですから」
「だべ!」
目の前にはにっ、と満面の笑みを浮かべる透子さん。
こうなったらもう、僕も観念するしかなく、思わず破顔した。
*
あれから、村井透子と御付きの葛西さんは幾度と無く僕の自宅を訪れた。
僕は大学があったので家を空けることが多かったのだが、僕が不在でも透子さんはよく遊びに来ては弟や母に相手をしてもらっていたらしい。
僕もしょっちゅう村井家に御呼ばれしてはいたのだが、その時期は多忙であったこともあり実際に村井家の敷居を跨いだのはほんの数回である。
初めてお会いした透子さんの御父上は予想していた通りの成金豪商だったが、その割にはとても人当たりがよく嫌味のない人物だという印象を持った覚えがある。
透子さんや葛西さんからよく聞かされて耐性が付いていたのか、それとも商人故の偏見の無さか、村井氏は僕を目の当たりにしても驚くこと無く受け入れてくれた。それどころか何故か随分と気に入られたようで、またいつでも遊びに来て欲しいと帰り際に何度も言われたものだ。
僕はいつしか、限られた自由の中で、この年の離れた小さな友人との時間を大切にするようになっていた。
日増しに成長していく透子さんの姿を見ていくのが楽しいと志田に言うと、お前は孫の成長を見守る老人かと大層呆れられたものだ。勿論、否定は出来なかった。
大学を卒業して、いよいよ陸軍省に入省すると、これまで以上に自由な時間は取れなくなった。
それだけでなく運良く成績上位者に入ることが出来た為――流石に軍刀まで賜れる程ではなかったが――海外留学の権利を与えられ、僕は思い切って母の母国へと留学することに決めた。
生まれ育った故郷を発ち、親しかった人々と離れる寂しさは勿論あった。けれどその時の僕はきっと、僕にしか出来ないことをしたかったのだと思う。即ち、祖国と異国の架け橋となれるようにと。
昔の僕なら、そんなことは考えもしなかっただろう。異国の血を引くが故に疎まれ、腫れ物のように扱われてきた僕は、誰よりもそんな自分を疎み、この国を胸を張って祖国と呼べる人々を羨み、妬んでいたのだから。
そんな僕を変えてくれたのは、一人の少女の存在だった。
異質な存在である僕をありのままに認め、受け入れてくれた少女。彼女がいたからこそ、僕は僕という人間を認め、それを未来の糧にしようと思えるようになったのだ。
感謝してもしきれない。言葉に出来ない思いばかりが募り、胸をいっぱいにする。
そんな思いを隠しつつ、国を離れる旨を透子さんに伝えると、やはり彼女は寂しそうな顔をした。
出会った頃を思えばすっかり大きくなったが、それでもまだまだ、あどけない少女の面差しはそのままである。
そんな彼女のこれからの成長を見られないことを少しだけ残念に思いながら、僕は少女に暇を告げた。
けれど別れの際、彼女は少しだけ頬を赤らめながら、ちょいちょいと手で僕を呼び寄せると僕にこっそり耳打ちしてきた。
「なあなあ、兄さん」
「ん? どうかしましたか?」
「あのな、おら兄さんが外国でがんばってる間もな、いっぺえ大きくなっかんな」
「ええ。次に会う時を楽しみにしてますからね」
「おう! ……あの、んでな。その」
彼女にしては珍しく歯切れが悪い。
何だろう、と気長に待っていると、透子さんは意を決したように僕の正面を向くと手を取り、思い切って言った。
「だから、兄さんが帰ってきたらおらのことお嫁にもらってけれな!」
空く、暫しの間。
思いも寄らない告白、というよりむしろプロポーズの言葉に、僕は目を瞬かせるばかりだった。
透子さんは真っ赤になりながらも、その目は真剣そのものだ。
その真剣さが無性に微笑ましくて、僕は思わずふふっと笑みを零してしまった。
「あ! 兄さん、本気だと思ってねえな!? おら本気だかんな! ずーっとずぅーっと、待ってっかんな!」
「分かってますよ。ありがとう。とても嬉しいです」
僕の反応が不満だったのだろう、ぷんぷんと頬を膨らませて抗議する透子さんを、僕は止まらない笑みのままそっと抱き寄せた。
流石の透子さんもそれには驚いたのか、身を堅くするのが伝わってくる。それすら、その時の僕には愛おしく感じられた。
それが果たして慕情からなのか、それとも親心のようなものだったのか、今ではもう判らない。
ただ一つだけはっきりと言えたのは、村井透子は間違いなく、僕にとって掛け替えの無い存在だった。
ゆっくりと身体を彼女から離し、再び目線を合わせる。
「僕も、また透子さんにお会いするのを楽しみにしています。その時までに、素敵なレディになっていてくださいね」
「お、おう! 兄さんも、向こうの女に目移りしたりしたら許さねっかんな!」
「はいはい」
そう言って、僕は透子さんの額に軽く口付けすると、今度こそ本当に暇を告げた。
透子さんは僕の姿が見えなくなるまで手を振り続けてくれた。
――それが、村井透子との、最後の別れになった。
*
カウチにゆったりと身を委ねながら、僕は手元の写真を懐かしい思いで眺めていた。
僕がまだ学生だった頃に、彼女にねだられて撮った数枚の写真。そこには、在りし日の彼女と僕の姿が写っている。
国を離れる際にこれだけはと荷物に忍ばせていたお陰で、これらは運良く空襲から免れることが出来た。もし東京の自宅に置いたままであったなら、家屋と共に焼失してしまっていただろう。
色褪せ、端々がぼろぼろになりながらも、それは鮮明にあの頃の記憶を思い出させてくれた。
柔らかい風がベランダから吹き込む。午後の日差しは温かく、心地が良い。
あの後、僕が日本を離れてすぐに天皇陛下が崩御され、迪宮殿下が践祚なさった。それを始めとして、僕がいない間に国では動乱とも言うべき激動の時代を迎えていたらしい。
かく言う僕の方も当時大きく情勢が動いていた頃で、なかなか波乱に満ちた留学となった思い出がある。
本当は数年で切り上げて帰国する筈だったのだが、軍部からの命令で僕はそのままあちらに留まり、向こうの軍部との橋渡しがてら職務を遂行することとなった。それだけでなく母があちらに帰国することもあり、その世話をする為帰るに帰れなかったのだ。
お陰でこの国に帰って来られたのは、あの大戦が終わってから一年も経ってからだ。
戦時中のこの国の惨状は日本に残った弟の手紙から知らされていたから、さぞ凄惨なものだろうと覚悟はしていた。
けれど再び戻ってきたこの国は、この国の人々は、敗戦の憂き目を見てもなお、力強く立ち上がろうとしていた。
その強さを目の当たりにして、僕は熱いものが胸に込み上げて来るのを堪えきれず、無様なくらい泣き崩れた。
彼らと同じ血を、半分でも受け継いでいることを、この時ほど誇りに思ったことは無いだろう。
そして改めて、そんな思いを抱ける自分にしてくれたあの少女のことを思い出し、僕はすぐに彼女を探し始めた。
けれど結局、僕は彼女を見つけることが出来なかった。
「あら、何を見てらっしゃるの?」
思い出に耽っていると、傍で妻の声がした。
僕は彼女に笑顔を向けると、手元にあった写真をひらりと振って見せた。
それを見るや、妻が不満そうに顰め面を浮かべる。
「またそんなもの見てらっしゃるの? いい加減よしてくださいな」
「いけませんか?」
唇を尖らせて抗議する彼女が愛らしくて、思わずにこにこと笑みを浮かべてしまう。
「だって、恥ずかしいじゃないですの。子供の頃の写真だなんて」
「いいじゃないですか。昔の透子さんの愛らしい姿が見れる、唯一のものなんですよ? 僕の宝物なんですから」
そう言いながら僕はカウチの端へ詰めると、引き寄せるように妻を隣に座らせる。
すると彼女は僕に寄り添いながらもいじけたようにそっぽを向く。
「じゃあ、今の私は可愛くないっておっしゃるの?」
「まさか。貴女はいつまでたっても僕の一番可愛い人ですよ、透子さん」
頬に口付けをしてあげると、漸く機嫌を直したのか、彼女はにっこりと花のような笑みを僕に向けてきた。
――僕は結局、透子さんを見つけることが出来なかった。
何故なら、先に彼女に見つけられてしまったからだ。
子供の頃の約束なんてとっくに忘れているものだと思っていたのに、透子さんは本当にずっと僕のことを待ってくれていたのだ。
彼女は戦時中も故郷には帰らず、看護婦として東京で勤務していたそうだ。そして戦後復興に従事しつつ、弟と連絡を取り合いながら僕の帰りを待っていたのだという。そのお陰で、彼女は僕よりも先に僕のことを見つけることが出来たのだ。
その頃には透子さんはもうレディと言うに相応しく、美しい大人の女性に成長していた。言葉遣いもすっかり訛りが無くなっていたが、そこに至るまでの道程は相当険しかったと再会した彼女は笑いながら語ってくれた。
そうして彼女が切り出したのは、当然あの“約束”である。
しかし正直言ってその時僕はもうそれなりにおじさんだったし、まだ年若い彼女に嫁に来てもらうというのには若干の抵抗があった。愛らしく聡明な彼女なら、相応しい男は掃いて捨てるほどいたのだ。
けれど僕が躊躇っていたのも馬鹿らしくなるほど、彼女はまるで躊躇も無しに僕の元へ来てくれた。
周囲からも勿論反対の声は上がった。だけど透子さんは持ち前の押しの強さでその声を悉く蹴散らした。それはもう、気持ちいいぐらい爽快に。
そんな彼女だから、僕も男として覚悟を決めなくてはいけないと思った。
間違いなく僕は彼女より先に逝くだろう。けれど、その時まではもう二度と別れること無く彼女の傍に寄り添うことを。それまでの時間の全てを彼女の幸せの為に捧げようと、僕は決意した。
世間の目など、そんなものは気にするまでもない。僕らが僕ら足り得るならばそれで充分なのだと、在りし日の少女はそう教えてくれたのだから。
僕の手元の写真を、透子さんが覗き込む。
そして何かを確かめるように僕と写真とを交互に見比べると、彼女はうっとりした表情で大きく頷いて見せた。
「うん、この時の隆道さんも素敵でしたけど、今の隆道さんも素敵だわ」
「もう髪は金色じゃありませんよ?」
すっかり真っ白になった頭髪を指して僕は少し意地の悪いことを言ってみる。
すると予想通り、透子さんはまた唇を尖らせて抗議した。
「意地悪なこと仰らないでくださいな。勿論あの髪の色も好きでしたけれど、好きだったのはそればかりじゃありませんわ」
「ありがとうございます。ふふっ、なんだか照れますねえ」
空いた手で、透子さんの手を握る。握り返された手に、心地よい温もりが伝わった。
こうしていつまでも寄り添っていられれば、どれだけ幸せだろう。
そう考える度に自分の老い先の短さが脳裏を過ぎったが、今はただ彼女が傍にいる幸福に浸っていたかった。
「あ、そういえばさっき隆治さんから電話がありましたよ」
「隆治から? あいつから連絡が入るなんて珍しい」
「多分今度のお義父さまの法要の件で相談があるんじゃないかしら。夜にはこっちに着くからっておっしゃってましたわ」
「なるほど、それなら納得だ」
僕は隠居して家に居ることが多くなったけれど、弟の隆治は年甲斐もなく頻繁に旅行に出ては各地を飛び回っている。今は丁度こちらへ帰ってきた所なのだろう。我が弟ながら元気旺盛、自由気ままこの上ない。羨ましいくらいだ。
「それじゃあ、今日は久しぶりに僕ら以外との夕食になりますね。散歩がてら、買い物にでも行きましょうか」
僕は写真を束ねて元の箱に大事にしまうと、隣の彼女にそう尋ねた。
透子さんも、そうですね、と笑顔で答えてくれた。
「今日のお夕飯、何にしましょうか。せっかく隆治さんが来るなら、腕によりをかけて作らないと!」
「あんまり張り切りすぎて作り過ぎないようにしてくださいね。隆治はともかく、僕はあんまり食べ過ぎるとお医者さんに怒られてしまいますから」
「あら、それって私のせいですの?」
「透子さんのご飯があんまりにもおいしいから、あるとつい食べ過ぎてしまうんですよ」
「まっ! 本当、憎らしい人!」
また頬を膨らませてぷいとそっぽを向いてしまう透子さん。
僕はただただ、込み上げてくる愛おしさを、笑顔で隠すのが精一杯だった。
了
この作品は、元は『男装令嬢と純朴青年』という作品から始まり、そこから派生した番外編になります。
異国人の青年軍人とそれに懐く黒髪幼女が書きたくて作った作品でもあります。
そして年の差熟年カップルが書きたくて書いたという、まさに私の趣味嗜好を詰め込んだ作品となっております。
少しでもお楽しみ頂けましたら光栄の極みです。
本編に当たる作品はまだ未公開なのですが、公開出来ました暁には是非そちらもご覧頂ければと思います。
ここまでお読みくださり、誠に有り難うございました。
《9/19追記》
sho-koさんから素敵なイラストを頂戴したので折角だからと更にお願いして飾らせて頂きました!
しょこさん心温まる二人の絵を本当にありがとうございました!!(礼)
↓sho-koさんのみてみんページはこちら↓
http://4512.mitemin.net/