プロローグ
ここは〈神〉に祝福された、世界最強の軍事国家、エルドリード。
ヴァナハイド大陸の八割を支配下に収め、優れた魔法と科学技術、勇猛な騎士団によって拡大路線を続けてきた。特に二百数十年前、〈大精霊〉と契約して以来は破竹の快進撃を続けており、海を隔てて東大陸、アーサハイドの一部をも植民地にしている。もちろん、その最大戦力は〈精霊〉の恩寵を得る「精霊騎士団」だ。直接〈精霊〉と契約した騎士は十人に足るかどうかといった数だが、文字通りに一騎当千たる能力と、絶大なカリスマをもって正騎士、従騎士たちを率い、全八団よりなる騎士団を導いている。
国家全体の強さの一因は、精霊騎士団の存在もあるが、人民が〈エーイル〉と呼ばれるひとつの宗教を奉じ、非常に高い団結力を持つことにある。
〈エーイル〉の信じる唯一神は正義を尊び、神の御心に沿って正しきことを成し遂げることを求める。正しさとは強さであり、強さとは社会を発展させることである。その彼らが膨張主義となるのはもはや必然だが、同時に彼らは、正義のために人々を文明化し、正しく導かねばならない、と本気で信じているのだ。
もっとも、この数十年は、東大陸に君臨する大国、ロランリードが軍備を整備し反撃に転じていることに加え、広大すぎる領土と非効率な大貴族制度、教会と軍部の足の引っ張り合い、皇帝の後継者問題などが災いして領土は縮小傾向にある。だが神の落とし子、女神と呼び声が高いセレネ・ルエル・エルドリードの登場で再編されつつあった。
「ロランリードがロランの召喚に成功したか」
首都エルドにも引けを取らない高度に発展した第二都市ルエルを収めるにはまだ幾ばくか幼さを感じる少女は提出された報告書を読み、顔を歪めた。長く美しい銀色の髪を鬱陶しそうに払い、黄金色の瞳が鋭く輝いた。すると報告書は消え失せた。最初から存在しなかったように。
まるで神か悪魔かに祝福された美を誇る少女は立ち上がり、窓辺から己の領地の様子を眺めた。天上に浮かぶ二つの月。少女の瞳と同じ色をした黄金色のエル、少女の髪と同じ色をした白銀に輝くセーナ。あと一つ、闇色のリーンは今日はいない。
「勿体ないことを。できれば手に入れたかった。ボクの手にあればもっとましな使い方ができたというのに」
だが残念がる声音ではない。むしろ歓喜に似た高ぶりがあった。窓に映る少女の顔はどこか楽しげに微笑んでいた。
世界はいつも五月蠅かった。いつもいつも五月蠅かった。僕はたまらなく嫌だった。どうして僕なんだと、いもしない存在に叫んでいた。けれどもその声は届くはずはない。当然だ。いないのだから。だけれども、それでも僕は叫んでいた。
「五月蠅いぞ」
遊びに夢中になり、ついこけてしまった幼い妹が泣き叫んでいる。痛いから泣くのか、泣くから痛いのか、それとも僕にどうにかしてほしいのだろうか。僕はソファーに座ったまま、動こうとしない。ただ黙って泣いている妹を見ているだけだ。不幸なことに今両親は出かけている。夜には帰ってくると言ってはいたがどうだろうか。考え事をしているといつの間にか妹が僕の膝を叩いていた。泣きながら。
「そうかそうか、痛いか」
仕方なく僕は膝の上に妹を乗せ、頭を撫でる。するとすぐに妹は泣きやんだ。いつものことだった。もしかしたら妹は僕に慰めてもらうためにわざと泣いているのではないかと疑ってしまうほど、すぐに泣きやむ。それほど僕の膝の上がお気に入りだった。どういう訳か異様に懐かれているんだ。母親や父親よりもだ。だからこうして面倒を看させられているのだろう。
「おにいちゃんおにいちゃん」
「なんだ?」
「おなかすいた」
ふと時計を見ればもう十二時を回っていた。時間を自覚すれば急に腹が減ってきた。
「飯にするか」
「うん」
膝の上に座っている妹をソファーに座らせ、僕は台所へ。幸いにも食材は昨日買いだめしておいたため、余裕があった。休日の昼時にスーパーに行くなんて考えただけでもぞっとする。あんな五月蠅い場所は勘弁してほしい。家にいる方がまだましだった。
それでも五月蠅いことに変わりはない。世界がこんなにも五月蠅くなったのは五年前だ。一体どこから漏れ出してきたのか。それまではそこまで五月蠅くはなかった。まだ我慢できた。だが最近は特にひどい。まるで断末魔のように叫んでいる。一体何がそんなにも世界を変えたのか。
「おにいちゃん。ごはんまだー」
「もうできたぞ」
洋食が好きな妹の為に作ったナポリタンとオムライス。本当に美味しそうに食べてくれるのは嬉しかった。
「おにいちゃんおじょうずだね。わたしもできるかな?」
「大人になればできる。できなくても僕が教える」
「うん」
ふとテレビのスイッチを入れる。いつも通りのニュース。内容は原因不明の異常気象ばかり。突然死滅するサルたち。突如巨大化した魚。見たこともない新種の生物。大地震、噴火、寒冷化、温暖化。異常な規模の台風。世界は崩壊していく。まるで世紀末だ。最近では眉唾物の終末論が流行っている。怪しげな新興宗教も。誰も彼も答えの見えない変化に戸惑っている。縋りたくなる気持ちもわかる。だけども意味はないだろう。興味の失せた僕はテレビのスイッチを切る。五月蠅いだけだ。
「おにいちゃんあそんで」
「いいぞ」
「わーい」
はしゃぎまわる妹を見て、どこか微笑ましい気持ちになる僕を醒めきったもう一人の僕が見る。いつもこうだ。常に冷静な思考で客観視している。人生は主観だというのに。それもこれもあの声のせいだ。声と呼ぶには理解できない音のようにも聞こえるが、どうしてもそれは言葉なのだと感じてしまう。
ずきり、と頭が痛んだ。今日はいつにもまして叫んでいた。家の中はそれなりに音を遮ってくれていたのに。
「どうしてのおにいちゃん?」
「何でもない。今日は何をするんだ?」
「ええとね。うんと……おねむなの」
「昼寝か」
眠たそうに瞼を擦る妹を持ち上げ、寝室へ移動した。
「おにいちゃんおやすみ」
「ああ。おやすみ」
すやすやと眠る妹の寝顔は本当に愛おしかった。守ってやりたい。何があろうとも。そう思うのは自然なことだった。
「ああ、五月蠅い」
僕にしか聞こえない声はぷつりと途切れた。
「……えっ?」
当たり前にあった物が消えればこんな感情になるのだろう。騒音が消えた喜びよりも困惑が打ち勝った。理解が出来なかった。ずっと叫んでいた声が消えた。弾かれた様に僕は外へ出た。その行動は当然なことで、僕の人生の歯車が動き出した瞬間だった。
「声がない」
外へ出た。それなのに何も聞こえない。どういうことだ。本当に消えたのか。いつも騒ぎまくっていた存在はどこにいったのだろうか。本当は喜ばしいことなのだ。目の上のたんこぶが取れたようなことなのだから。だが、どこか僕は恐怖していた。この異常事態に。当たり前にあった異常が消える異常はさらなる異常だ。
住宅街を走る。本当に声が聞こえないか確かめるために。けれども何もない。物音ひとつしない。鳥のさえずりも、喧騒も、車の音もなにも聞こえない。ふと、異常に気付いた。
「こんなに走り回っているのにどうして誰とも会わない?」
可笑しい。可笑しい。可笑しいぞこれは。当惑した僕は天を仰いだ。ああ、やはり異常だこれは。仰ぎ見た視線の先に、空中で制止する小鳥たち。雲も止まっている。これでは時間が止まっているみたいじゃないか。
「何なんだよ。一体これは?」
突然、頭が壊れそうになるほどの叫びが僕を襲った。不意打ちに対処できる心構えなどなく、僕は頭を抱えて蹲る。それでも必死に声の発生源を見つめた。僕の背後、見たことの無い、異形がいた。それは何故か少女のように見えた。
化け物は叫ぶ。黒い靄が集まったヒト型の異形は不定形に身体を歪ませながら叫ぶ。まるで僕を憎悪しているみたいに。僕が一体何をしたというんだ。
化け物が僕の首を締め上げる。持ち上げられ、足も届かない。
ああ、僕は死ぬのか。こんなところで。何もできないまま。何もなせないまま。死ぬのか。化け物に殺されて死ぬのか。そんなのは嫌だ。絶対に許せない。まだ僕は死ねないんだ。
だが、不条理を覆せる理不尽なチカラを持たない弱者はされるがまま散る。
化け物の左腕に当たる部分が鋭く渦を巻く。化け物は戸惑いもなく、躊躇もなく、僕の胸目掛け……
痛みもない。何もない。こうして僕はシンダ。ナニモ感じなかった。