血斗
――どう、と瓢忽たる狂風が吹いた。
街がびょうびょうとざわめき、雲が滔々と流れ、青く病んだ弦月が空に姿を見せる。
月光の下、首刎ね人はその全き姿を露にする。照らし出されたその風貌は、まだ十分にいとけなさを残している。
盗賊ギルドの情報は正確だ。驚くべきことに、酔夢街の辻斬りは、齢十二、三を数えるばかりの少年だった。
その手がたしかに握るは『信天扇』。ひとつの命を啜ってなお、妖しの太刀は更なる血を渇望し、刃は呪わしき光を煌々と放つ。
闇のなかから現れた隻眼の斧使いと、黒い衣装に身を包んだ栗毛髪の少女。
首刎ね人は、太刀も構えず黙然と、奇怪な笑みを湛えて瓢然と、忽如姿を見せた乱入者達に対峙する。
狂気を孕んだその瞳は、栗毛髪の少女と同じく、不吉な猩紅の光を点していた。
不吉の光を点した瞳、その見つめる先が、斧使いから栗毛髪の少女へ移行する。
やがて少年が口を開く。少年の発語は老人の如く嗄れて潰れ、しかし耳に響く世の常ならざるものである。
…汝れにつき従うるその娘、かの屋敷にて見えたりき…
それは東方の言語だった。
少年の紅い眼差しが、ゆるりと冒険者の上へ振り戻る。
汝れはかの方術士の手の者なりや?我が身を引き戻しに現れたるかよ…
「…お前は自分を連れ戻しに来たのか?」
ダドガドの背中に、エイプリルはそっと囁いた。
少年の発語を通辞したものと須臾にして解し、ダドガドは言う。
「信天扇。お前は人と語る口をもつようだな」
付喪神の答えていう。
…無論人語を我れ解するなり。さりとて、人の口を借りるよりほか、発語の術を我れ知らぬ
「ならば穏便に済ませよう。私は無用の暴力を好まない。ここで大人しく捕まえられろ」
栗毛髪の少女を介し、冒険者と付喪神の対話は続けられる。
「さもなくば、私がここで、お前を破壊することになる」
それは恫喝に過ぎなかった。太刀を無傷で回収することも依頼のうちなのだ。
冒険者の降伏勧告に、付喪神はあざけって呵々大笑する。
さても迂愚なるかな、笑止なるかな!斯様な戯れ言に我応ずると、いささかなりとも汝れ思うてかや…
「…こんなことを繰りかえして、一体なんの意味があるんだね?」
付喪神は不気味な笑みを浮かべたまま、かくのごとくに答弁する。
何をなさんとて太刀は鉄より生まるるや?知れたることなり、人を斬らんがためぞ…
ために世にある限り、我れは人の生血を求むるものぞ。これは太刀に宿りし精霊たる我が宿痾にして宿業、宿命なり…
…汝等人なるものとて、其其の業を背負いて、其其の生を過ごしておろうや?同じことなり
すなわち太刀の存在理由、そのために人を斬り続けねばならぬ。太刀の精霊はそう語る。
ダドガドの胸中むっくりと、鍛冶屋の温乎たる笑顔が起き上がる。
――武器は殺すための道具だろ?
リューンの鍛冶屋は笑って言った。
「…あいにく、人間は道具に宿る魂ほど単純じゃない」
ダドガドは冷然と言った。
「では、どうあっても人斬りをやめる気はないんだな?」
知れたることなり。それが刀の刀たる所以であり、証なるが故にな…
それが付喪神の答えだった。
「…分かってはいたがな」
ひとりごつようにダドガドは呟き、両手の斧の柄を握りしめた。
老冒険者の背後で、エイプリルは既に紅い杖を手にしている。その身から静謐な闘気が発せられ、冒険者の背筋を冷ややかになぶる。
ダドガドもまた、ふたたび斧をうち構えた。その所作には一分の隙も見られない。
対して付喪神は少年の姿で歯をむき出し、目を見開いて、きしるような声で低く笑う。
そして言う。
汝れの物腰、相当に使うものと見うけたり。汝れの従者もまた然り。
…なれば、汝等には我が真実の力をみせてやろうな
「…。真実の力、だと?」
付喪神の言葉に、覚えずダドガドは訊き返した。
――瞬間、ごきり、と骨の折れるような音がした。
少年の矮躯がいびつに膨らんだように見え、冒険者は僅かに息をのんで刮目する。
目の錯覚ではありえない。
ごきりごきりという音とともに、たしかに少年はその姿をいびつに変形させる。体躯が逞しく膨れ上がるとともに牙が鋭くのび、その額の肉を突き破って角が生える。
「…な」
眼前の光景にダドガドは微かに声をもらし、苦い唾を呑みこんだ。
あまりのことに、驚きの声をあげる余裕もない。
――遂に、少年は紅の大化生に変貌した。
化生の身の丈は六尺はあろうか、その眸は充血して葡萄色に膨れ上がり、貪欲な光を爛々と放って冒険者達を捕捉する。
もはや可憐な少年の面影はどこにもない。
老冒険者は我を忘れ、刹那茫然として瞠若する。
――異形の手にした信天扇が、愕然とするダドガドを嗤笑するように、ぎらついた光を放った。
「…辻斬りの正体がこんな化け物だとは、少しも訊いていなかったがな」
我にかえったダドガドの額に汗がにじむ。驚愕のうちにも斧を握る手に力がこもる。
栗毛髪の娘は小石のように無表情のまま、咫尺の現象を凝乎と見つめていた。
信天扇が、今度は異形の姿で低く笑う。血への期待による嬉笑、心底からの愉悦の体現である。
化生の貪喰的な口が大きく開かれ、肌も粟立つ人ならざる声音が耳を打つ。
如何にせん?この姿を見て、なお我れを斃さんとする気概を汝れ有するや…?
されど臆したるとて、許し乞いたるとて、最早我れは汝れを逃さぬぞ…
「…ほざけ」
凍てつくような狂気と威圧感を化生は放つ。
しかし老冒険者は退かない。
殺意に満ちた妖刀の巨怪に一歩もひかず、ダドガドは冷然たる一言を投げつけていた。
ほう、と感嘆するような声を漏らし、化生は眸をすがめて老冒険者を見つめる。
…それは奇妙な慈愛に満ちみちた眼差し、
老爺が孫を愛おしむような風情の眼差しだ。
蛮勇なりとて、さても天晴れなる者かな…
…さらば汝れを敬して、我れは啜りし汝が血の味を、永劫胸に留めおかん。
――いざや、疾くとく死合おうぞ!
渺茫たる黒天を仰いで化生は一声咆哮し、ついで月光に紛れて一の太刀が落とされた。
ダドガドめがけて下りる刀身が生血を欲してなまめく輝く。
冒険者は倉皇と跳びすさり、間一髪太刀の初撃から身をかわす。化生の撃剣は石畳をつぶてと砕き、弾けとぶ石礫のなかダドガドは瞬間戦慄する。
ついで二の太刀が放たれる。冒険者は転げるように身をひくめ、太刀は真一文字に虚空を薙いだ。二度かわせたことこそ正しく奇跡、神速の太刀の連撃である。
しかし瞬間転げる勢いのままダドガドは化生の懐に踊りいった。付喪神の面前で突っ立ちあがり、我が身を軸にし斧を両手に転回する。
懐中に入れば間合いは手斧のものとなる。左手の斧は化生をかすめ、わずかに顎の肉をこそげとる。
右手の斧は空を切って間隙を呼ぶ。しかし流れるようについだ動きで、右斧の柄は肉も裂けよと化生の腹をしたたか突いた。
虚をついて打たれた一撃に、化生の口から呼気の塊がごふりと漏れた。
斧の柄尾を異形の腹に突きこんだ冒険者。
ついで両の斧を化生の顔面にうちつけようとし、
――瞬間その身が激しい衝撃をうけて宙空を舞っていた。
異形の丸太のような腕が振るわれた。殴り飛ばされたダドガドは、石畳に身を強打して、血の塊をがっ、と吐いた。
脳震盪をおこしながら、斧を支えになんとか身を起こそうと試みる。
懸命に起き上がろうとする冒険者のまえに、ゆらりと巨大な影が映えて立つ。
異形の巨躯が月光を背に立ちはだかり、太刀を悠然とうち構える。太刀は血への期待に皓々と輝き、刃は歓喜にうち震える。
ダドガドは瞬間死を思った。
――と、涼やかな詠唱の声が辺りに響き、魔力の凝る気配が一帯に充ちて輝いた。
刹那一条の光輝が化生に向かって脇から奔った。
光耀をおびたその魔法の矢は、栗毛髪の少女の援護射撃である。
化生は一声唸って太刀を振るい、一撃で魔弾を打ちはらった。
だが、間隙を逃さずダドガドの手は虚空を切った。
風きる音呼び、回転しながら夜気をさいて手斧がとぶ。
斧は異形の顔面に突き立って一条の鮮血がさっとはしり、右目を潰され化生は仰けぞり、ごう、と一声轟かせた。
残った斧を右の手に、ふらつく足でダドガドは朦朧と立ちあがる。口の端から血が溢れ、左手はだらりと垂れさがる。
太刀の初撃は左の肘をかすめていた。傷は浅かったが徐々にそこから痺れがまわり、今や左手一体が動かない。これも信天扇の妖力なのか。
足は縺れて手は痺れ、満身の痛苦に朦朧としながら、それでもダドガドは斧の柄がらをたしかに握りしめる。右の隻眼が怒気を孕み、血走って化生を睨みすえている。
創痍をおびてなお立ちあがる老冒険者に、化生は斧に縫われた血まみれの顔でにやりと笑った。
ふいに異形のひとつ残った眼光が、つ、と横にすべった。
ダドガドの耳もまた、こなたに近づく大勢の跫音を聞きつけている。おそらくは何者かが剣戟の音をききつけ、治安隊を呼びつけたに相違ない。
ときに、街には黎明が訪れて、東の空がすでに明るみ始めていた。
太刀を右手に、化生は余した左手でぬるりと顔から斧を引き抜く。
がらると音立てて手斧が地に落ちる。
血ぬれた異形の相貌のなかに、残ったひとつ目が爛々たる真紅の光を放っている。
…邪魔が入りたるかや。死合いはまた次なるときとしようぞ。のう、汝れよ…?
異形は低い声音で、気狂いじみた笑みを浮かべてそう言った。
隻眼の斧使いは沈黙して異形の相貌を睨んでいる。
次に汝れと見ゆるが何時やは我れ知らざれど、我れはそれを愉しみに夜を送らん。
…次こそ汝が血を必ず我が身に吸って呉れようぞ
「ああ…私こそ楽しみにしているさ」
通辞を介するまでもなく、冒険者は信天扇の言葉を察し、吐きすてるように言う。
付喪神もダドガドのこたえを察したか、ひとしきり狂える声をあげて哄笑した。
…さらばそのときまで、我れはより多くの命を刃に啜らん…
そう言い捨てるや、化生は出しぬけに後方に跳躍する。
明暗交錯し始めるなか、異形の巨躯が交易都市の家々の屋根を跳び渡り、数瞬する間に彼方の暁闇へ踊りいって、たちまち姿は消えうせた。
「大事ありませんか?」
エイプリルの澄んだ声音がダドガドの耳に届く。
「…年はとりたくないものだ」
老冒険者は自嘲して呟き、血の混じった唾を吐きすてた。身をはしる痛苦をこらえつつ、蹌踉とその場を歩みさろうとする。
と、つい、と白い指先がダドガドの脇からのばされた。
「…お怪我を召されたのですね」
エイプリルのかぼそい指が冒険者の左肘にふれた。その唇が幽けく呪文を唱え、指先が儚く光をはなって、ダドガドの手から痺れが引く。
傷は瞬く間もなく塞がった。
「すまんな。…君にはさっきも救われた」
少女は黙然として、傷を負った老冒険者を支えるように、そっと華奢な躰を寄りそわせる。
ダドガドは隻眼をすがめて栗毛髪の少女を見やった。
金色の光が漸う東から差し始めている。
朝の幽邃の気のなかにさえ、やはり消え入りそうなほど少女の気配は危うげに思えた。
「…急ぎ、ここを立ち去りましょう」
栗毛髪の少女は囁いた。
耳をすませるまでもなく、跫音はすぐそこに迫っている。治安隊に誰何されれば面倒なことになる。
ダドガドはうなずいた。
去り際にダドガドは犠牲者の遺体に一瞥くれると、口中に短く鎮魂の祈りを唱えて十字を切った。
少女に半身を預けるように、老冒険者は覚束ない足どりで歩きだす。
跫音を背に、縺れあう二つの影は路地裏の闇に沁みて溶ける。
「あの腐れた刀に引導を渡す。…また今夜落ちあおう」
隻眼の斧使いは闇に溶けつつ囁いた。
その夜、信天扇は酔夢街に現れなかった。
ところが辻斬りの犠牲者は一人ふえた。斬られたのは夢黄街を臥所とする物乞いだった。
次なる晩も辻斬りは現れた。犠牲者は屑鉄通りの齢十にも満たない子どもだった。
辻斬りはその行動範囲を広げたのだ。
冒険者と刃を交じえた夜を境に、辻斬りは交易都市の全域に渡って毎夜出没するようになった。最初の晩は夢黄街に、次の晩は屑鉄通りに、その次の晩は中心街に、辻斬りが現れて一人を斬った。
ダドガドは辻斬りの現れる場所を特定できず、付喪神を捕捉することができずにいた。
歯噛みする老冒険者を哂笑するように、夜毎犠牲者は増えつづけた。