プロローグ
酔夢街は交易都市リューンの歓楽街だ。
平素ならば深更の酔夢街は、世界各地からつどった異人、放浪者、露天商、学者、旅人、吟遊詩人、傭兵、画家、哲人、尼僧、石工、剣闘奴、男娼、異教徒、建具師、魔術師、山師、乞食、隠者、亜人、僧侶、幾多の人種がこぞり、酒気、哄笑、歓声、歓談、人いきれ、呻声、奇声、泣喚、悲鳴、吐瀉物の臭い、怒声、喧騒に包まれる。
だが、昨今巷間を騒がせるその事件は、酔夢街において立てつづけに起きた。爾来、酔夢街からは酔いどれどもの足が遠のいた。
今宵の酔夢街もまた、寂漠たる闇の中に身を沈めている。
空は雲に覆われ、街を照らす月の光もなく、立ち並ぶ家々から漏れいずる灯も笑声もない。
あたり一帯を、凍りついたかのような空気が無気味に領している。
死霊の街のような酔夢街の大通り、石畳の上を、足音がひとつ、まろぶように駆け抜ける。
足音の主は銀髪の娘だった。年の頃なら十四、五程か。深緑の瞳は何かに怯えて震え、辺りを絶え間なく見回している。
娘は能う限り、平素人通りの多い道を選んで通っていた。
だというのにも関わらず、何処にも娘が求めるものは認められない。
娘が求めるもの。それは人込、雑踏。
人込どころか人の子一人、猫の子一匹、酔夢街を覆う闇の中には視認できなかった。
それが娘を一層に怯えさせた。
自然、一層に足の運びが早くなる。
平素なれば、夜のこの通りにこれほど人がいないという事は有り得ない。
何故ならここは酔夢街。酒池肉林の歓楽街、本来ならば深更にこそ賑わう場所なのだ。
だが現実として、今は誰もいない。
一人の物乞いすら路上に寝ていない。
――酔夢街の全ての人々が怯えていた。
娘と同じものを恐れて、家に閉じ篭もり、堅固に戸を閉ざしていた。
行く手に幽鬼のごとき人影が唐突に出現し、認めて少女ははたと立ち止まり、瞠目した。
瞬間二十尺近くあった距離を詰め、首刎ね人は娘の眼前咫尺に立っていた。
驚懼し、娘は眼をみはる。
声をあげる間もなく白刃の一揮が闇に鳴って、さっと鮮血が迸る。
自身の噴きだした血溜まりのなかに、少女の首ががっくりと落ちた。
――ぶん、という重い振りぬき音が酔夢街の闇に轟いた。
虚空を裂いて、回転しながら首刎ね人めがけて飛来する。
瓢忽として迫りくるのは一振りの手斧である。
猛然と襲い来る刃に首刎ね人は跳びすさり、がつりと血溜まりのなかに斧は落ちる。
衣服の端が斧に刈りとられ、深更の闇に染みて消える。
「…外したか」
森閑たる酔夢街に、地をなめるように低い一声が響いた。
落ちついた足取りで現れたのは、青いフードを目深く被った初老の男だ。
フードの下に垂れさがる長髪には白いものがまじり、相貌に深く年輪が刻まれている。
左目は刀傷で潰れ、しかし残された右眼は老いてなお力を失わず、炯々たる光を放って首刎ね人を見据えている。
その右手には一振りの斧が握られている。先の斧もこの男が放ったものだ。
闇のなかから、するりと二つめの影が抜けいずる。
現れたのは栗毛髪の少女。靴先から帽子まで、全身を黒一色に包んでいる。
その顔容姿態 は清純可憐、されど、そのかんばせには一切の表情がなく、瞳には不吉な 猩紅の光が宿っている。
初老の男は血だまりから手斧を拾い上げ、少女のむくろに一瞥くれた。
そして斧を両手に、改めて首刎ね人に対峙する。
その身から一道の殺気が奔り、首刎ね人をしずかに打った。
冒険者ダドガドが依頼人宅を訪れたのは、その前日のことだった。
「話を最初から確認してもよろしいか?」
隻眼の老冒険者は口を開いた。
「どうぞ」
うなずいて先を促した依頼人は、賢者の塔に属す学者である。
東方方術の研究を専門とし、研究者の間では斯道 の大家として名を知られる。
瞳に年古りた叡智を宿しているが、肌膚は白皙で乙女と変わることなく、立ち振る舞いは窈窕としている。
ただし一点、その右手は常人よりも一指多く、それが異質な空気を呼んでいる。
「酔夢街に昨今出没する辻斬りの討伐、これが依頼内容だったな」
「左様にございます」
「事態は内密のうちに、誰にも真実を悟られぬうちに片づけねばならない」
「左様にございます」
「辻斬りの正体は、この屋敷から“太刀”を持ち出した偸盗と推察される」
「左様にございます。東の島国の刀剣にございます」
「その太刀には怪異が宿っている」
「左様にございます。“付喪神”と申す、器物にやどる霊魂を宿しております」
精霊信仰の根深いその島国では、森羅万象あらゆるものに霊が宿るとされる。人の作り上げた器物とても、それは例外ではない。
百年の齢を経た器物は、自ずから命を発する。これを号して「付喪神」という。
依頼人宅から盗まれた太刀の付喪神は、持ち手の精神をのっとり、おのれの意のまま操る力を持っている。
そして常に血を求めている。
依頼人が初めてその太刀を手にとったとき、太刀の魂がかく語りかけてきた。
自今汝れは我が傀儡となれり
太刀を手にとり人を斬れかし
刃に生血を啜らせるべし
依頼人は東方方術の泰斗なれば、抵抗することには成功したものの、きわめて激しい精神干渉だった。
それほどまでに、付喪神は強く血に執着している。
「おそらくは太刀を持ち出した偸盗が、付喪神に操られ、辻斬りを繰りかえしている。そういうことだったな」
「左様にございます」
「ならば太刀に操られている偸盗の処置については、どうすればいい?」
学者の返答までに、須臾の間を要した。
「…太刀に精神を蝕まれた者は、もはや人の心を取り戻しませぬ。斬り捨てるのが本人のためでもありましょう」
「…神よ、哀れな魂を救いたまえ」
冒険者は依頼人に聞かれぬよう、口中でそっとつぶやいた。
「太刀を無事回収してこの屋敷にもどすこと、それも依頼内容に含まれるのだったな」
「左様にございます」
「私が太刀を手に取った場合、今度は太刀の魂に私が操られる可能性があるのではないだろうか?」
「心配はご無用にございます。太刀を手にとることは、我が手の者が行いますゆえ」
依頼人の傍らに控えていた黒衣装の少女が、依頼人の言葉に応ずるように、一歩前に進み出た。
漆黒のスカートの裾をつまんで持ち上げ、冒険者に一礼する。
「エイプリルと申します。よろしくお願いいたします」
匂うような少女だった。栗毛髪が肩まで下りて、佇まいは楚楚として、容貌は夭夭として愛らしい。
ただし、娘がはじめて発したその声音に抑揚はなく、瞳は紅い不吉の光を点していた。
「このエイプリルであれば、太刀の魂に操られることはありませぬ。この者は人の心を持ちませぬゆえ」
後をひきとって依頼人がそう言った。
ダドガドは既視感を覚えた。
屋敷の玄関先で冒険者を迎えたのは、空疎な笑みを浮かべる痩せぎすの男だった。
男の膚肌は死人のように青白く、骨と皮ばかりの痩躯を黒衣に包んでいた。
幽鬼のごときその男の瞳も、エイプリルと同じ紅い光を宿していた。
彼らの正体が何者かを推しはかることは難しい。
さりとていずれ尋常ならざる気配からして、主人ただ一人を除いてこの屋敷には人外しかいないのだろう。
暫時あって、ダドガドの視線が依頼人の上へと振り戻される。
「これは荒事だ。彼女が障害になるようなことはないのか?」
「ご心配なく。エイプリルも闘法は心得ております」
依頼人に言われて、エイプリルが紅の杖を手にしているのを冒険者は認めた。
少女は魔法の遣い手なのだ。
「なるほど」
ダドガドはうなずいた。
「どうぞよろしく、エイプリル」
「よろしくどうぞ、冒険者様」
栗毛髪の少女は、冒険者にそっと会釈を返した。
ダドガドは依頼人に向きなおる。
「最後に一点だけ。成功報酬は銀貨にして千枚だったな」
「左様にございます」
「承知した。依頼を引き受けた」