矢作城攻め
一六一〇年二月
里見義康は配下の者達に下総・矢作城攻めを宣言した。
矢作城は長らく本多忠正が守っていたのだが、二年前より配置換えにより水野勝成が入り二十万石で守っている。
この水野勝成と言う者は、天正壬午の乱や小牧・長久手の戦いなど多くの功を挙げた剛の者である。関ヶ原の戦いの際には大垣城を攻め落とした。また築城術にも優れている。その為、昔風の館の趣であった矢作城は天守を備え、地形を活かした郭を設けるなど、小振りながらも立派な城となっていた。
里見家と本多忠正は、過去のいきさつから、敵方でありながらお互いの立場を尊重していた。水野勝成とは何の縁もない。水野は軍備を増強し、いつ里見家に対し向かってくるか分からなかった。
「水野勝成が兵は約六千、その他、寄騎すると思われる援軍四千といったところか」
義康の言葉に、家老の池引内匠介が尋ねる。
「殿、常陸の頼宜殿、江戸の秀忠殿の援軍が来るのではありますまいか? 」
「常陸は家中が未だ纏まっておらぬ。攻めたとて、我が里見の常陸の城を落とすくらいじゃろう。
江戸の秀忠殿は、大軍を持って出張れば信濃の信幸殿達が降る恐れもある。援軍を出すとて一万も出すかどうかといった所じゃろう。信濃の真田信幸殿、後藤基次殿には駿府、江戸を牽制してもらえるようお願いしてある」
この返答に池引内匠介も納得したようだ。
「先ほど、殿は頼宜殿はせいぜい我らが常陸の城を落とすぐらいだと申されましたが、常陸の城を放っておくので? 」
心配そうに千葉重胤が尋ねた。重胤にしてみれば、浪人から里見家直参に取り立てられ、やっと常陸国の多良崎城を持たせてもらったばかりである。また居城がなくなってしまうのか心配だったのだ。
「常陸組はいかほどの兵を有しておる? 」
重胤の問いには答えずに、常陸組頭の鳥居成次に向かって問うた。
「は、各城合わせますと二千。臨時に雇える見込み五百。総勢二千五百」
「されば、千葉重胤、その方は千で中根城を守れ。それ以外の城は捨て置け。この戦が片付けば、すぐに取り返す。それから竜崎弥七郎、その方は那珂湊を守れ。那珂湊が押さえられると面倒じゃ」
「は、御意に」
その後、矢作城攻めの陣容が申し渡された。
鳥居成次、土岐義成の常陸組千五百兵は一旦、利根川にでる。そこから来島長親が船で拾い、矢作城近くまで運ぶ。成次たちを運んだ後、来島長親はそのまま利根川城で待機し、敵の援軍に備える。
矢作城正面から攻めるのは、先手・印東河内守三千、中揃・勝長門守行遠三千、後揃・堀江頼忠三千、大将・里見義康七千という陣要である。
鳥居成次率いる常陸組はなぜ利根川沿いに配されたのか。それは矢作城への物資の供給を断つためである。水野勝成が籠城を決め込むと、城内の貯えによっては城攻めが長引く恐れがある。貯えが少なければいずこからか物資を搬入しなければならない。千五百兵と少ない兵でも補給隊相手では十分に抑え込める。
里見軍が矢作城に向け出陣した旨は、すぐに矢作城の水野勝成の知るところとなる。勝成はすぐに寄騎の近隣の大名達に参陣を命じた。集った兵は、義康の読み通り四千、水野勝成の兵が七千であった。
勝成は籠城を嫌い、正門前から一里ほど南の出沼という地に陣を構え、里見軍を迎えうつ姿勢を見せている。矢作城に残したのは援軍から千兵のみである。残りの一万兵で迎えうとうという姿勢を見せた。
二月十日 両軍は対峙する……。