その後の里見家常陸領
〔1609年10月里見家常陸領〕
中根城代の鳥居成次は、幾人かの人材を欲していた。伏見城の戦いで、多くの家臣を失い、雑兵こそ500はいるものの、直臣の者は抱えていなかった。そこで成次は那珂湊の里谷九助に頼み、人材を探してもらった。
その結果、伊藤刑部長安、中山照守を召し抱えることにした。
伊藤刑部長安は二代目で、初代・伊藤刑部長安は奥州浪人であった。伊藤刑部家は藤原南家流という格式を持つ家柄であり、長安の人柄も良く、故事に精通していた。
中山照守は高麗八条流馬術の使い手である。関ヶ原の合戦時は、秀忠に従い上田城攻めをし七本槍に数えられるなどの功を挙げたが、軍律違反で閑居させられいた。それを機に出奔したのである。
九助は那珂湊の街で二人を見つけ、鳥居成次に口利きしたのであった。
また、成次は九助に千葉氏当主であった千葉重胤を推挙されたが、里見家直参が良いのではないかと判断し、添え状を持たせ、里見義康の所に出向かせた。
里見義康は、千葉重胤を直参として召し抱え、寄騎として成次に預けた。
この時分の里見家常陸領の武将は以下のとおりである。
常陸領組頭(中根城代)・鳥居成次
寄騎(金上城代) ・土岐義成
〃 ・千葉重胤
〃(那珂湊代官) ・印東主膳
鳥居家直臣 ・伊藤刑部長安
〃 ・中山照守
土岐家家老 ・土岐定義
鳥居成次は、領内の仕置の内、商いに関しては、里屋九助に任せ、農業に力を入れる。新たに開墾したものには、開墾分の2カ年の年貢の免除などの政策を実施。兵達には中山照守の元での馬術の訓練に力を入れさせた。
その後、1609年年末に土岐家家老の土岐定義が里見家に反旗を掲げ、金上城に立て篭もったが、鳥居成次はこれを攻めたて、討ち取った。なお土岐定義の反乱に土岐家の主である土岐義成は加担していなかった。
事を重く見た里見義康は、土岐義成に蟄居を申し渡したのである。鳥居成次が、土岐定義の反乱は土岐義成の預かり知らぬことであったと懸命に取りなした結果、土岐義成はお咎めなしとなった。
また、鳥居成次は治世を認められ、城代から城主へと昇格する。
鳥居成次は里見義康の同意を得、中根城から北に位置し、廃城となって放置されている多良崎城を接収した。この多良崎城は千葉重胤が城代を務めることになった。成次は多良崎城を接収したが、徳川方を過度に刺激しないよう治める地は城下周囲の限られた土地の3000石ほどとした。
こうして地力をつけていった里見家常陸領組だが、翌年2月に里見義康より出陣の命が出される。
はたして里見家はどこを攻めるというのか……。